友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

『名古屋をアートで面白く』

2016年07月19日 19時08分00秒 | Weblog

 炎天下という言葉がぴったりの今日、伏見ライフプラザで行われた高年大学の講座に出かけた。ひと昔前なら、老人大学とか高齢者大学と言っていたのに、高年と言い換えているところが面白い。今日の講師は私の先輩で、現代アートの巨匠、山田彊一先生である。大和塾でも講師を引き受けてもらったが、堅苦しさの全くない芸術談義だったが、それでいてなるほどと皆さんを納得させる話術の持ち主である。

 今日の演題は『名古屋をアートで面白く』というものだったが、初めから脱線してエレベストに登った話、高校時代に女郎屋へ通う友人の話など、これでアートに辿り着くのかと思っていると、いきなり「面白くなくて何が人生か」と哲学めいた話になり、「名古屋は全く保守的な所で芸能と芸術の区別も出来ないアホばかり」と名古屋人をこき下ろす。山田先生は20代の最年少で、ニューヨークで行われた展覧会に選抜された実績があるから、怖いもの知らずだ。

 「絵は個性」と先生は主張する。しかし、「うまい絵は?」となると皆、写真のような絵を上げる。だから「名古屋はダメだ」と断言する。西洋美術も昔は写真のような絵を描いていたが、1830年代に写真機が発明されると写すだけなら写真機にかなわないから、ヘタな方が受けた。印象派の作品はどれも「絵がヘタ」と手厳しい。アングルやクールベやドガが写真をもとに絵を描いたというのは本当だ。

 昔の絵は宗教と密接に関係していた。言葉で表すよりも大衆が理解しやすいからだ。王や貴族や僧侶そして金持ちの商人が生まれると肖像画を残すようになったので、写真のように忠実な表現が求められた。だから写真機が生まれると役割を失ってしまった。市民が国家を掌握するようになり、科学が発展し、人々の価値観が大きく変わったので、絵画の方向も大きく変わった。

 先生が指摘するように、誰もしないことをやらなければ価値がなくなった。逆に言えば、現代アートは誰も思いつかないことを表現しなくてはならない。それは同時に、哲学的な意味を持つものでなければならない。講演が終わって控室に先生を訪ね、大和塾の季刊誌『風』最終号を渡ししてきた。


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