友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

生きて恥を晒せば何かに出逢えたかも

2024年07月14日 17時49分53秒 | Weblog

 もう4日間も、部屋の温度は26度か27度、湿度は70%ほどが続いている。エアコンは点けていないが蒸し暑くは無い。高校生の時、家にはエアコンは無かった。テレビは母屋の居間にあったが、祖父が見てる時しか見ることは出来無かった。

 『「恋と革命」の死 岸上大作』の主人公、岸上大作は私よりも5歳年上だから、もっと素朴な暮らしをしていたことだろう。小学校の頃から日記を書き、中学校では生徒会書記となって「生徒会報」を発行し、同級生の女子の名を日記に記している。

 彼が短歌に関心を持ったのは、高校の時の先生が見せてくれた短歌集にあったようだ。私も国語の古文で学んだが、こんな意味の分からない言葉使いの何が面白いのかと受け入れられなかった。古文が大学受験のための勉強でしかなかったからだろう。

 それでも高校生らしく、ロシア文学に親しみ、哲学書を読み、中原中也や萩原朔太郎の詩に憧れを抱いていた。ヘルマン・ヘッセやジイドや伊藤佐千夫に恋の原型を求めた。けれど、小説や詩を極めたいとは思わなかった。高校1年の同級生に、文芸部の部長を務めた友がいて、彼の作品を読む度にとてもかなわないと思った。

 それに私の関心は新聞作りにあり、中学から通っていたキリスト教にあった。私は高2の時、生徒会長になったので、東大総長の矢内原忠雄さんに文化祭で講演して欲しいと手紙を書いた。矢内原さんはキリスト教徒で、その著『政治と人間』を私は愛読していた。けれど、息子の伊作さんから断りの手紙が来た。

 私が高1の1960年、安保闘争は大きく盛り上がり、国会へのデモの中、東大生の樺美智子さんが亡くなった。岸上大作はこのデモに参加していた。国学院大学の短歌研究会は、吉本隆明の講演会を企画したが、大学から中止を命じられた。

 彼は中止を受け入れ、責任を取って短歌研究会を退会した。何だか日本人的な発想だ。革命の挫折に、「スバラシク聡明な女性」と思い込み、しつこく手紙を送り電話をかけた女性から、「おことわりします」と断言された。

 高校時代から追い求めて来た「恋と革命」が、怒涛のように崩れ去ったのだろう。彼は死への準備を始める。薬を買い、寿司屋に入って寿司を食べ(学生が寿司屋に入るなどあり得ないピチブルを行い)、絶筆「ぼくのためのノート」を書きながら死に向かっていく。

 この最後の瞬間は理解できる。なのに私は何十年も生きながらえてきた。岸上大作に、死んでも何も変わらない、生きて恥を晒せば何かに出逢えたかもと伝えたところで、どうしようも無い。


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