最近、地震が多いから何かが起きるような気がしていたけれど、27日に御嶽山が爆発し、不安が現実になってしまった。ニュースを見ていると、生き残った人と亡くなった人は運の差としか言いようがない。生き残った人の判断ばかりが正しいように言われるけれど、それこそ全くの結果論で、どう見ても運がよかったか悪かったかに分けられる気がする。井戸掘り仲間の先輩は「山登ってても、道歩いてても、死ぬときゃー死ぬんじゃ。飲める時に飲み、食べれる時に食べなきゃー生きてる意味がない」と言う。
いかにも捨て鉢な言い方だが、的を射ている。先輩は75歳だが、今も週に2日働いているし、ひ孫の面倒をみて世話し、娘の婿が友だちを連れてくれば料理を作って歓迎し、毎日の晩酌は欠かしたことがない。生きていることが楽しくて仕方がないと思えるから元気でいられるのだ。先日、昼飯を食べに先輩の好きなステーキハウスへ出かけた。ランチでも1300円するが、店は大繁盛で、席の空くのを待っているほどだ。よく見ると女性客が多い。
男性ばかりで来ているのはサラリーマンだが、女性だけで来ているのは若い人ばかりではない。中年の女子会風もいれば、高齢者で連れ合って来ているグループもある。男性だけの高齢者がいないのはどうしてなのだろう。定年退職した男はカミさんから誘われない限り外へ出ないのだろうか。80歳は越えていると思われる女性のふたりはステーキを食べ、サラダをお代りし、デザートに果物をたべ、ジュースを飲み、「太るかしら」と笑い合っていた。
テレビで高齢者の貧困を取り上げていたけれど、生活保護を受けずに暮らしている人が大勢いる。「死にたいけれど、死ねない」と嘆いていた。そういう人はたくさんいるはずだ。実際は「死ねない」のではなく、どうしたら死ねるのか、その方法が分からないのだ。「簡単に死ぬ方法を教える講座」を開いたら、それで助かる人は多くいると思うけれど、自殺幇助で捕まることになからそれも出来ない。生きていても希望もない人を救う方法はないのだろうか。長生きしたくない人に光を当てられないものかとよく思う。
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