友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

無理をする気は全く無い

2022年09月03日 18時28分52秒 | Weblog

 電話をかけてきた「エホバの証人」の男性が、「聖書はお持ちですか?」と聞くので、「ええ、持っていますけど」と答えると、「創世記第1章の26節を読んでください。神は誰にお話しされていると思いますか?」と言う。

 「分かりました。読んでおきます」と答えたからか、今朝、再び電話がかかってきた。あいにく私はトイレに居たのでカミさんが、「今は話せません」と答えていた。そして私に、「これ以上かかわったらダメよ」と釘を刺す。

 先日も北海道の鮮魚市場の人から、「絶対にお値打ちな品ですから」と電話があった。お盆前に電話があった時、「分かった。あなたの熱意は分かったから送ってくれていいよ」と了解したので、もう一度買ってもらおうと思ったのだろう。

 北海道の鮮魚業も今は売れなくて大変だろうとは思う。協力してあげてもいいが、我が家はジジババふたりの生活だ。美味しいものが少しならいいけれど、数が多くては食べ切れない。それに今は、通販で何でも買えてしまう。

 「年末に、お勧めな物があったら、また電話してきて」と言って切った。毎年1月3日に、長女一家がやって来るが、来年のことは分からない。年末に集まっていたマンションの友だちとの忘年会も出来るかどうか微妙だ。

 創世記第1章は「初めに神は天と地を創造された」から始まる。26節は「わたしたちの像に、わたしたちと似た様に人を造り」(ものみの塔聖書冊子)とある。神が話されている相手は造られた人間であるが、「わたしたち」と複数形なのはどうしてだろう。

 信仰は理屈からは生まれない。信じることで救われる人が、得るものが信仰なのだろう。私は過去にも未来にも拘りが無い。美味しければ食べるし、欲しければ手に入れるが、無理をする気は全く無い。


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