友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

私は私の道をゆく

2022年10月23日 17時27分14秒 | Weblog

 誘われてキリスト教の集会に参加した。教会堂ではなく普通の貸し会議室の一角だった。牧師とか神父はいなくて、参加者が交代(?)で進行役を務めているようだった。スクリーンがあり、オンラインで結ばれたWebの参加者もいる。

 私の知っている教会とは随分違っていた。一人ひとりが挨拶し、聖書の箇所を指示して読み上げ、讃美歌を合唱するのだが、私が知っている讃美歌とは違っていた。本のタイトルも違っていたように思う。

 形式としては「みんな平等」の理念に基づいているようだ。聖書を熟読していないと話せないし、聖書に書かれている意味が理解できていなければならない。それにしても、聖書は皆同じだと思っていたが、使われている聖書も私が昔読んだものとは違う気がした。

 今日の集会の中で一番印象に残った個所は、『コリント人への手紙第11章27節』だった。キリストがパンとワインを与える「聖餐式」を記した箇所である。「(パン)これはあなた方のための、私の身体である」、そして杯を持ち「この杯は私の血による新しい契約である」。ここまではよくわかる。次に、「ふさわしくないままでパンを食べたり、杯を飲んだりする者は、主の身体と血に対して罪を犯すことになる」とあった。

 この後、パンとぶどうジュースが振舞われたが、私は遠慮させてもらった。私は「ふさわしくない」からだ。最後に私まで指名されて、一言と催促された。何を言うべきか迷ったが、「私が知っている聖書や讃美歌とはちょっと違っていて戸惑っている」と正直に話した。

 中学生の時、創価学会の青年部の集会に誘われて参加したことがある。車座になった青年が一人ひとり、どうして入信したかを語ったが、私には違和感しかなかった。今日の人々はみんないい人ばかりだったけれど、私は同じように信仰の道に進めないと思った。

 信仰は一人ひとりの心の形である。神の存在は認める、最後の審判も近いだろう。けれど、私は私の道をゆく。私は神に生きるよりも、世俗の「愛と性」に関心があるからだ。


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