友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

NHK朝の連続小説『てっぱん』

2011年02月05日 18時28分23秒 | Weblog
 NHKテレビの朝の連続小説『てっぱん』を見ている。見ていると言うと真剣な姿を想像してしまうかも知れないが、私の場合は聞き流しているという方が合っている。主人公のあかりは、事情はわからないが、彼女を生んだ母親は亡くなっていて、尾道の夫婦の子どもとして育てられてきた。おそらくクライマックスでこの辺りのことが明らかにされるのだろうけれど、今は大阪のおばあちゃんのところでお好み焼屋を開いている。そこへ、ばりばりのキャリヤウーマンがやって来て、どうしたことか、あかりの部屋に居候として住み着いてしまった。

 このキャリヤリアウーマンは、結婚するはずであったのに破談となり、しかも会社まで辞めてしまう。ところがお腹に相手の男の子どもを宿していた。いくら結婚が前提でも妊娠はダメなどと言う気はさらさらないが、さて問題は出来てしまった子をどうするかである。天下のNHKだから、堕胎になるとは想像し難い。産むのか産まないのか、あいまいなまま、どうなったのでしょうという展開になるのだろうかと興味深く思っていたが、やはりNHKらしい結論であった。つまり、産む方を選んだのだ。

 子どもを宿したなら、産むか否かの選択権は当然母体の方にあるだろう。それでも、相手の男と話し合う必要はあったのではないかと私は思った。「ケリをつけて来た」とその女の人は言うけれど、その時の彼女は堕胎するつもりでいたはずだ。ある意味ではそれが最も自然な選択であろう。結婚は破談となり仕事も失った。頼れる両親もいない。それで子どもを産んでどうやって育てていけるのだろう。主人公のあかりは、まだ生まれてきていない赤子が自分のように思えてくる。あかりが一緒に暮らしている下宿屋の面々はみんな男だが、赤子の面倒は自分たちがみてもいいとまで言う。

 でも、実際にそんなことができるのだろうか。ドラマの中でも「産むのは一瞬だが、育てるのは長い年月がかかる」とか、「子育てはやり直しがきかない」といったセリフも出ていた。それでも産むことを選択したのは、「命のつながり」をドラマのテーマとしているからなのだろう。血のつながった家族であっても家族になっていない、そういうケースも多い現代の中で、血のつながりだけが家族ではないという主張である。血が全てではない。血のつながりなどなくても血のつながっている家族よりも家族らしいケースはいくらでもあると。

 家族を夫婦とその子どもと限定して見てしまうけれど、そうなってきたのは近代社会からではないだろうか。このドラマのように、下宿屋がそのまま小さな共同体となってみんなで生活をし、子育てもする、そうした社会へこれからは変化していくのかも知れない。夫婦の形も親と子の形もしたがって家庭の形も永遠ではないのかも知れない。主人公のあかりはお好み焼屋を「家族のような店」にしたいと言うけれど、意外に儲けを目的にしない店こそが近未来の店なのかも知れない。どうかな?

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