このところ葬儀が続いたからか、「死」について考えてみた。生きていれば、嫌なこともあるが楽しいこともある。けれど、「死」は「無」でしかない。葬儀の時は、故人についていろいろ思い起こすのに、しばらくすれば忘れてしまう。故人はもう存在しなくなる。
叔母の葬儀に参列して、亡くなった日が誕生日の1日前だったので、従妹は「もう1日生きてくれたら、93歳の誕生日を祝えたのに」と言う。可愛い曾孫が3人、会葬者にひょっこんと頭を下げていたから、家庭の中もほんわかと暖かかったことだろう。
叔母は信心深くて、曹洞宗本山の永平寺で5日間の「修行」に参加したそうだ。会場には全国の寺を回って集めた御朱印帳も並べられていた。婦人会だけでなく、俳句の会にも所属して句集も出していた。祖父は文芸に興味など無い人だと思うが、祖母は映画や歌舞伎が好きだったから、父も叔母も祖母の血を受けていたのかも知れない。
葬儀の参列者で分かる人は、もうひとりの叔母の子である従妹弟のふたりしかいなかった。亡くなった叔母の子どもたちやその配偶者とその親族、叔母が所属していた俳句の会の人、役職の人などが多かった。歳を重ねるということは、そういうことなのだとよく解った。
従妹が「もっといいことで会いたいね」と言う。もう、そんな機会は無いだろう。「ボクは子どもたちに『葬儀はしなくていい』と言ってある。ハガキは送るから、そう思っていて」と笑って言う。久しぶりに会った従妹弟たちを見間違うことは無かったが、その老けようにビックリした。と言うことは、あの子たちも私を見てそう思っているのか。
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