友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

右肩上がりでなくていい

2018年05月11日 19時20分11秒 | Weblog

  久しぶりに一日中ルーフバルコニーで作業したら、身体がどっと疲れてヘトヘトになってしまった。最近、朝起きると両手首が痛い。左手首は鉄パイプで打ち砕かれた後遺症だろうが、右手は中指が骨折したものの手首までは傷つかなかったのに、どういうことだろう。頭の左側が筋肉が突っ張るような痛みが時々あり、心臓の辺りの筋肉がピクピクッと動いて痛む時もある。この1年でこの世を去る予定なのだから、別に気にしないというより歓迎すべきことなのかも知れない。

 先日も身体のあちらこちらに症状があり、いくつかの病院に罹っていると言う人がいたが、年齢を重ねる限り避けられないことだ。あたふたせずに、運命を受け入れる訓練が要る。街に出れば目につくのは年寄りばかりだ。喫茶店もスーパーも若い人に出会うことがない。老人が多くなったというか、老人が目立っている。

 自民党の派閥の席で衆議院議員が、結婚式では「子どもを3人以上産み育てていただきたい」とスピーチしていること、若い女性には「結婚しなければ子どもが生まれないから、人様の子どもの税金で老人ホームに行くことになる」と説教していると、得意気に発言してまたしても批判を浴びている。人口減が社会の衰退になるからと、いつまでも右肩上がりの社会を追い求めるのは馬鹿げている。

 子どもを産むか否かは、他人が口にすることではない。何が幸せかも、他人が決めることでもない。現実の社会の中で、みんなが困らない仕組みを作るのが政治の役割である。人口減にふさわしい社会の在り方を求めていくことが、政治にかかわる人の責務である。右肩上がりの社会が本当に幸せな社会なのかと考えることも必要だろう。

 身体のあちこちが痛む老人たちも今を充分に生きることだ。明日に希望があれば、人は動くし、元気でいられる。明日も天気は良さそうだから、また朝からルーフバルコニーでチューリップの球根を抜き取り、土を入れ替え、夏の花を植える準備をしなくてはと思う。こんなことでも、明日の活力になるから不思議だ。

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