春の大会で活躍した名電は、今朝の1回戦で敗退した。なでしこジャパンも決勝戦でアメリカに負けた。女子バレーボールもブラジルに負けた。この世は勝った人よりも負けた人の方が圧倒的に多いのに、勝った人の方に目が向いてしまう。敗者よりも勝者を称えることで、勝者と一体感を持ちたいのだろう。けれど、今日勝った人も次も勝てるわけではない。パチンコの好きな人は、勝った話ばかりするけれど、負けた回数の方が絶対に多いはずだ。
勝ったとか負けたとか、余り考えたことがなかったけれど、勝ってばかりいる人がそんなにいないように、負けてばかりいる人もそんなにいないだろう。出世したのに早死にしたとか、金持ちになったけれど家庭的には恵まれなかったとか、そんな話もよく聞く。もちろん、人がうらやむような人生を送った人や、最後まで不幸続きだったと言われる人もいる。それでも本当はどうだったのか、それは本人でさえ分からないことだと思う。
絶対的な勝者も、絶対的な敗者もいない、これが人間社会だろう。そう結論付けようと思っていたら、参議院本会議で消費税増税などの関連法案が、民主・自民・公明の賛成多数で可決成立した。国民の70%が反対していても、国会では賛成多数にどうしてなってしまうのだろう。アメリカで「1%の人が富を独占している」とデモがあったけれど、1%の人々はずぅーと変わらないのだろうか。99%の中から1%の側にいく人をアメリカンドリームと賞賛していたけれど、実際は99%の中の下の方に位置していた人が、99%の中の上の方に行くことが出来たに過ぎなかったのだろう。
勝ち進む人を賞賛するというのは、自分もまた勝ち進みたいという願望の現われなのだろうか。勝ち進む社会が人間の社会であるのなら、敗者の存在は仕方ないことになる。しかし、人間はひとりでは生きられないから、常につながり合って生きてきた。男と女であったり、家族であったり、仲間であったり、そうした集団を形成して生きてきた。人間の中にいつから他人に勝とうとする意識が生まれたのだろう。もし仮に、人間が誕生した時から、勝ちたいという意識があったのであれば、同時にそれに代わるものが存在したはずだ。そうでなければ、集団で生きていくことができないだろう。
勝ちたいという意識と共に存在するものは、愛したいという意識だろう。私は、人間は動物とは全く違う生き物になったと思っている。動物が持っている本能を人間は無くしている。その代わり、人間は欲望を持ち、それと同時に愛するという意識を持った。勝ち進みたいと意識と愛するという意識の上に成り立っているのが人間である。そんなことを高校野球を見た後、国会中継を見ながら考えた。さて、明日と明後日は盆休みでブログを休みます。