友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

人間誰もそんなものだ

2012年08月08日 19時48分07秒 | Weblog

 「吾れ15にして学に志す。30にして立つ。40にして惑わず。50にして天命を知る。60にして耳順う。70にして心の欲するところに従いて矩を踰えず」。孔子の言葉だけれど、初めて習ったのはいつの時だったのだろう。中学か高校の10代であったことは間違いない。先生がこれをどのように教えてくれたのか覚えていないが、「老いぼれジジイが勝手なことを言っている」としか、私の頭には入って来なかった。

 年取って、『論語』を読む機会があり、孔子に興味を持つようになった。保守的な道徳主義者という印象だった孔子もその生涯を知ると以外に人間臭いところがある。上の言葉は年老いた孔子が自分の人生を振り返って出たものだ。孔子は19歳で結婚し、翌年には子が生まれているからかなり早熟だった。そんな孔子も30歳になる頃は自分が行ないたいことがわかり、40歳の頃では迷いもなくなった。50歳ではこういう生き方が自分の運命だったと思うようになり、60歳では他人の意見も聞くようになった。そして70歳の今は、好きなことをやっても規範をはみ出すこともないと振り返っている。

 ああ、人間誰もそんなものだ。若い頃は生きることに夢中で、毎日の生活に追われ、次第に自分の立ち位置が決まってくる。するとこれが自分に与えられた天命だと考えられるようになる。だから他人の言うことも理解できる。中にはますます自分の考えに固執する人もいるけれど、それは逆に立派な生き方ではないだろうか。みんながみんな理解のある年寄りばかりでは面白くない。たまにはそんな頑固さを失わない人も必要だろう。

 18世紀のフランスで活躍したルソーもこんなことを言っている。「10歳で菓子に、20歳で恋人に、30歳で快楽に、40歳で野心に、50歳では貪欲に動かされる。人間はいつになったら、英知のみを追うようになるのだろう」。ルソーは孤児で、20代では男爵夫人の愛人となり、そのおかげで独学だがいろんなことを学んだ。30代では愛人をつくり、10年間に5人の子どもを産ませ、5人とも孤児院に送ってしまう。ルソーが頭角を現すのは40代で、『人間不平等起源論』をまた50歳では有名な『社会契約論』を書いている。しかし、晩年は不遇で孤独なうちに生涯を閉じている。

 孔子の人生を振り返っての言葉も、ルソーの言葉も、自分の人生から出ているだけに実感が篭っている。欲望を持たなくなった時、人はその生涯を閉じるのだろう。いつまでも貪欲であり続けることが生きるエネルギーとなるのかも知れない。ルソーの言うように「英知のみを追う」ことは、人間にはそもそも無理なことかも知れない。

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