友々素敵

人はなぜ生きるのか。それは生きているから。生きていることは素敵なことなのです。

サルトルとボーヴォワール

2012年01月26日 19時37分58秒 | Weblog

 名演小劇場で映画『サルトルとボーヴォワール 哲学と愛』を観てきた。私が学生の頃はブームで、サルトルやボーヴォワールを話題にすることが知識人への道のような風潮があった。ちょっと「革新的な」女性たちはボーヴォワールの『第2の性』を話題にし、男性優位の社会を批判していた。そんな時代だったから私もふたりの名前を知っているが、どうしたわけかふたりの著作は1冊も書棚にない。実存主義という言葉は知っていても、中身を知りたいという気持ちになったことがなかったのだろう。

 

 映画の中のサルトルは、写真で見たサルトルにそっくりだったけれど、偉大な哲学者というよりは身勝手な肉欲に生きた人のように描かれていた。サルトルを愛したボーヴォワールも女学校の教師であったけれど、教え子の学生と同性愛にふけったり、何人かの男性とベッドをともにしている。映画を製作するに当たり、ふたりの相続権を持つ人から中止の訴えもあったが、試写を観てもらい公開を了解してもらったというから、数多い関係はみな事実なのだろう。

 

 ふたりはソルボンヌ大学で知り合う。サルトルは学内一の秀才で、ボーヴォワールは聡明で美しい。サルトルは一方的にボーヴォワールに熱を上げる。田舎町にまで追いかけてきたサルトルに心を動かされたボーヴォワールはサルトルと一夜を共にする。そしてふたりの共同生活が始まるが、サルトルはボーヴォワールが思ってもみなかった提案をする。それが自由恋愛で、「僕たちの愛は必然的なものだ。でも、偶然の愛も知る必要がある」と言い、ボーヴォワール以外の女性と付き合うことを認めさせる。ボーヴォワールは驚くけれど、女も平等であることを条件に受け入れる。

 

 しかもふたりは隠し事をしないで報告することを約束したから、死ぬまで大変な嫉妬と苦痛が付きまとった。しかし世間はふたりの恋愛を理想的とか先進的ともてはやした。私の友だちもふたりを真似して同棲生活をしていた。サルトルは自らの哲学を現実の生活でも実践し、ボーヴォワールもまた男性に支配された性の解放を目指したのかも知れない。映画は第2次世界大戦が始まる前のパリ、そして戦後のジャズが流れるパリで、サルトルやボーヴォワールが時代に酔っている雰囲気を醸し出していた。

 

 映画の中に出てくる人物や言葉はなぜか懐かしかった。サルトルの学友であるポール・ニザンやメルロ・ポンティー。サルトルよりも年下のカミュも仲間だったのかと知った。アンガージュマンという言葉も学生時代によく口にしていた。社会参加とか政治参加と言う意味で使っていた言葉だ。映画の中で、アメリカに渡ったボーヴォワールに恋人のアメリカ人作家のネルソン・オルグレンがアメリカで話題の本だと言って、『キンゼイ・レポート』や『アメリカのジレンマ』を見せていた。

 

 私の隣の男性は途中からずっと眠っていたが、50人くらいしか入れない会場はいっぱいで、私と同年くらいの女性は身を乗り出してスクリーンを見つめていた。サルトルは75歳で亡くなったけれど、35歳年下の養女がいた。もちろん彼の愛人である。哲学よりもこちらの方が凄い。

 

 さて、明日は友だちが出演する『モーツァルトの最後の3日間』を観に行く。誰も一緒に行く人がなく、またひとりである

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