10日と11日に、小沢一郎さんに対する強制起訴の公判が開かれた。小沢さんは終始一貫、「収支報告書は見ていない」「収支報告書の作成は信頼できる秘書にすべて任せており、報告は受けていない」「秘書は家族同様、子どものような連中なので、心配はありません」と、関与を否定している。実際の公判を見ているわけではないが、やはり黒と言える展開に持ち込むには無理があるようだ。誰が見ても、闇で得た4億円で土地を購入したと推測されるのに、確たる証拠を引き出すことは難しい。
私が不思議だなと思うことは、なぜ政治資金団体が土地を購入する必要があるのかという点だけれど、それは政治の倫理というか方法なので裁判では問題にならない。小沢さんはお金がなければ選挙は勝てない、選挙にはお金が必要で、しかも難しい選挙なれば多額のお金が要ると考えている。実際、師である田中角栄さんはそれで首相にまで上り詰めた。小沢さんは議員に「モチ代」と称するものを配るそうだが、配る額にはそれぞれに差があると週刊誌などには書かれている。お金を生かすための「策」なのだろうが、議員や議員になろうとする立派な志の人たちも現金には弱いようだ。
政治は同志を集めて政策を実現する。そのためには選挙で勝たなくてはならない。だからお金が要る。この論法は分かるけれど、現実にはお金が要ることに重点が置かれていくから、お金を集めるための政策が行われることになる。目的であった大義は吹っ飛んでしまうが、次第に気に留めなくなってしまう。金権政治はこうしてますます腐敗していくことになる。右肩上がりの社会ではこっちに体育館を造るなら、あっちに文化会館を造れと、人々が喜ぶ政策を実行してきた。もちろんその過程で、政治家や役人がそのおこぼれを授かった。
小沢さんは「私の関心事は天下国家のことで、それに全力で集中している」と答えている。それは小沢さんの本心だろう。ただ、そのためにお金が要ると考えているのだろうけれど、お金についてはまるで清廉潔白であるかのようだ。「収支報告書は見たことがない」とか、4億円の融資を受ける手形の署名についても「書類は見ていない」と言っている。掃除の仕方ひとつから厳しく秘書に教えてきた人が、政治家として致命傷になるようなお金の収支に無関心だったとはとても考えられない。
ましてや収支報告書が世間で問題になっているのに、「見ていない」などということがあるはずがないし、もしそうなら無責任な政治家である。「秘書は家族のような存在。役所や企業の上下関係とは違って、ひたすら信頼関係で成り立つ。いったん任せたら、すべて任せる」とも答えているが、国会議員の秘書をした私の経験からはとてもそんな風には受け止められない。秘書は、おそらく共産党であっても、家族や同志というよりもどちらか言えば下働きの人だ。運転手であったり、マネジャーであったり、カバン持ちであったり、付き人である。そんな丁稚のような生活を送り、何年かして暖簾わけでどこかの議員にさせてもらう。我慢は秘書の最大の務めだと思った。