蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

修行が足りない

2020-10-31 | 日々のこと
夫の姉、いわゆる小姑。
とても良い人である。
ただし、世界中のどんな人にも言えるが、一定の距離は必要。
話の途中までしかホンネは話せないので、もどかしい。
先方もそうだとしたら、正しい距離の取り方である。

義姉は姑とは一卵性母娘と言われている人物なので、わたしにとってはある意味めんどくさい部分がある。
触らぬ神に祟りなし。

あんた(姑)がそんなのだから、夫はこんな風になったんだ!!
とは、姑が生きている間にもちろん言うわけもなく。
仮にぽろっと漏らしたとしたら、わたしのほうが、随分、後悔すること間違いなし。
ああよかった、と安堵する。

みなさん、ご自分の生きてきた軌跡を自分のモノサシで測って正しいと信じて今日まで来ている。
それを誰が否定など出来ようものか。
宇宙中の誰もが否定できない。
(どこのだれがどう見ても客観的に「悪」は、ダメ)

だが、判定が難しい事もある。
見方、立場によって考えは中立にはならない。


昨日は義姉と長女が仏事で同席していたが、待ち時間に3人でおしゃべりしていた。
わたしと義姉の考え方は一部、水と油であるが、立場が違う。
わたしは一歩引く。
鬱憤は溜まるが、まあその場が終わればあとは各人、自分の家に帰る。
帰りの車の中で長女に愚痴ったところ、長女は実に素晴らしいコメントをしてくれた。

「同じ出来事があっても、各人のフィルターがかかっている。
その場にいて見聞きした場合と、延々と聞かされていた場合では、受け取り方も違う」
確かに。その通り。
長女にカウンセラー料を支払いたいぐらいだ。

そして結論。
一家に主婦は2人いらない。
主婦はエライので、1人で十分。

主婦といっても色々。
世の中に出たこともない、出る必要もない、能力と環境のせいで出られなかった、逆に、出たくなかったのに出された、、、
なんでもいい、むしろ、どうでもいい。
自分の考え方を色んな角度から検証する必要がない人は、ある意味、羨ましい。
ただただ恨む、とか、ただただねじ伏せられる、とか、ただただ言うことを無理やりきく、とか、その逆で、強制的に人を自分の思い通りにさせる、だとか、それはそれでひとつの行動である。
だが、そういう人は、自分にも人にも、その二択しかないんだろうなあと感じる。
それはそれで、その人と、その人の周りが幸せに暮らしていたら、何の問題もないし、口を出す必要は全くない。

だが、一歩、その自分のテリトリー(家庭?)から出た時には通用しない。
実家なら通用するのかも知れないが。

人は人。
違っていて当然。
だが、当たり前だが、自分とは考えが一致しない他人に対して否定的ニュアンスを感じる義姉を見て、自分もそうなんだろうと思う。
人のふり見て我がふり直せ、となればいいが、人のふり見て非難する、なんてことはしたくないなあ、、、と。
自分も完璧ではないのだから、人にとやかく言えない。
だが、人も同様に完璧でないと思うのに、自分自身は完璧だ、なにがなんでも自分は正しいと思っている人に接するとムカつく。

ムカついているようでは、まだまだ修行が足りない。


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