蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

秋、、、

2021-10-08 | 
いきなりですが、、、
距離感は重大だ。
大好きなもの、人も、適度な距離を取ることで、いつまでも好きでいられる。
近寄り過ぎたり、遠過ぎたりすると、ヤケドしたり過干渉したり、冷めたり、疎遠になったり、修復困難になったりする。

親子の関係もそう。
助けを求めている時や、羽を休める時は手を差し伸べる。場所を提供する。
が、滋養を得たら、笑顔で送り出す。
また来てね、と。
いつでもいいからね。
(ただし、わたしの身が空いている時)

自分が必要とされている時期を過ぎたら静かに撤退。
後を追わない。
向こうも追いかけて来ない。
寂しさと、ちょっと余力や余韻が残るぐらいがよい。
秋の季節にぴったりの話になった。
カッコよく書きすぎ感はあるものの。

わたしも次の段階がある。
余生である。
余生が動き出すことがあるとしたら、次の駅に向かって発車したかんじ。
まだ「あの世ステーション」や、「天国駅」ではない。
まだ、いくつかの駅がある。
秋から冬に向かうのではあるが、厳しく寒いイメージはあまりない。
だって、天国に近づくんだし。
ちょっと宗教チックになるが、何教でもない、自分教である。

わたしのこれからの、ゆっくりした歩みは、なぜか、母や姑の軌跡に似ている。
歳を取った女性の行動は似通ってくるのだろうか。
自分の今後の居場所整備のため、周辺を整理し始める。
今、流行りの断捨離や終活と同じ。
彼女たちは、流行や世相を反映したのではないと、わたしは思っている。
自分のしたいことをしたら、たまたま世間で取り上げられつつあることだった、、、世の中の動きの、前の方の走者だろう。
それが著書やマスコミなどで盛んに語られるようになり、その影響を受けた人々が動き出す。
世の中や世間、人様、ご近所さんの影響を受けて、、、ではなく、自分がしたいようにしただけだと思う。
というか、昔からある流れ、動きを「断捨離」だの「終活」だのと包装、パッケージを変え新たに名前を付け直しただけなのではないだろうか。

まずは、時系列を軸にした整理。
自分のモノではなく、過去に遡る。
これは舅もやっていたが、途中で手を離した。
これぐらいでいいかな、という自分の基準を満たしたのだと想像する。
が、人が変われば整理の仕方も変わる。
まあ、それぞれに整理した後に、その上に我々の歩みが乗る。

わたしも整理と自分流改造を加えたい。
改善と言いたいところだが、趣味嗜好は各々違うので、別の人の目から見ると、たんなる無駄に映るかも知れない。
スペインのガウディほどの偉大な人なら話は別だが、宇宙の星屑の一つであるわたしでは、全く自己満足以外の何ものでもない。
だが、駅を一つ一つ、楽しく満足感に満ち溢れて止まり、そして通過していきたい。

具体的には、先ず、実家終い。
家の終活みたいなものだ。
終わるわけではなく、枯れ木に新芽が出るように、新たな設え、新顔で再出発。
編集しなおし、要るものと要らないものを精査し、まとめて、さらにお色直し。
そのために、あれやこれやと、てんてこ舞い。
といっても、実際は、姉と姪が労務担当。
わたしは、権利ばかりを振りかざすわけにはいかない。
が、一応、ギョロリと見ている。
わたしの実家なんで。

懐かしい椅子を二脚、もらってこようと思っている。
引っ越しに当たって、廃棄処分グループに入っていたところ、捨てずに保存のお願いをした。
着払い荷物便で送ってくれるそうだ。
楽しみに待っているが、配達送料を考えると、もしかして買ったほうが安いかも?
いや、思い出はお金では買えない。
とかなんとか、、、。
今後も旧・実家終いに伴って、あれこれ貰ってくる(引き取る)予定だ。
引き取り側である、わたしの家族からは多少のクレームが出ると予想されるが、なんのその。
聞く耳を持たない。
(ただでさえ子供が多いところに、勝手に養子を貰ってくるようなものなんだけど)

ただし、ゴミ屋敷は避けたい。
ゴミ屋敷は一種の精神的疾患から来るそうだ。
そうならないよう、精神がしっかりしているうちは、好きな環境を整えたい。
いずれ、「それ、精神しっかりしてないんですけどーー」と、子供達に言われ、ライフスタイルの変換を強制執行されそうだ。
子供達が見て目にあまるようなら、やはり逸脱していると思われるので、その時は子供達に従おう。
(と、今は思っている)

強制執行されるまでの貴重な時間、カウントダウンしながら積極的に楽しもう。
天国駅はまだ先のはず。

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