蝶になりたい

いくつになっても、モラトリアム人生。
迷っているうちに、枯れる時期を過ぎてもまだ夢を見る・・・。

勝手に人が入って来る

2021-06-15 | 
夫の実家、リフォーム工事が開始した。

ちなみに、階段下収納というものは、本当に地下洞窟のように、何でもかんでも延々と放り込むことが出来る。
照明も廊下しかないので、奥深くまで見えない。
入れた本人(姑)も遠に入れたことも忘れていることだろう。
階段下収納は、キッチンの真横にあり、さらに他の全ての部屋に近い、家の中心に位置している。
なぜ、身近な場所に頻繁に使うものを入れずに、遠くの場所に収納するのか。
次女に話してみたところ、手近な収納場所にはいっぱい詰まってしまい、もう入らないので、遠くの場所に置いているのだろうという、わかりやすい解釈、解答を得て、じつにアタマがすっきりしている。
なるほど、、、。
モノを捨てないので、溢れ出るものを遠くに置き、不便ながらわざわざ取りに通う。
そう言えば、わたしは姑が元気な頃、いちいち遠くの蔵までスパゲッティだのレトルト食品だの、ストック食品を取りに行かされた。
冷凍惣菜は、隣の棟の冷凍庫に。わざわざ感ありありで。
蔵には食品をはじめ、衣類やリネン類、食器、本、日用品、贈答品、その他、ありとあらゆるモノが入っていた。
もし、あの蔵のなかを整理しろと言われたら、わたしはおヒマをいただき、実家に帰らせていただきます。

まあそれはよい。
なにしろ、使わないものを階段下にギッシリ詰め込んであったわけで。
その空間の広さ、容量の大きさに改めて驚いた。
突っ込んでも突っ込んでも突っ込んでも、どんどん突っ込めて、それを繰り返していたら、やがて手前までモノが押し寄せ迫って来たというかんじ。
階段下、奥深くまで、身体が入らないし、暗くて見えない。
トンネル工事人か、炭鉱掘りの気分。
ガス爆発や土砂崩れが起きないだけマシか。

わたしが帰る時に出て来ていた最後の丸い容器らしきものと、紙の小箱が気になった。
中身を確認できていないので、後ろ髪を引かれる。
ひょっとして、すごく良いモノかも?
捨てるにしても、何であるかを確認しないと気がかりだ。
おっと、物欲の塊りが顔を出したようだ。
いかんいかん。顔を左右に振る。
しかし、アタマの隅っこに、きっとリフォーム業者さんがお取り置きしてくれているに違いない、と淡い期待を抱いている。
別の場所に保管してくれたなら上出来だが、甘い、、、家屋脇の廃棄用のモノが積まれた場所に持っていかれ、ゴミの山に埋もれた可能性はある。

半世紀近く暮らしてきた時間の物証である大量の生活品(ゴミ)の中に、オヤ!と、わたしの琴線に触れるものが稀にあり、蚤の市、大規模フリーマーケットに売られているモノを物色する気分になっている。


と、それはそれとして。
リフォーム後にごろんと横になる、気持ち良さげな家具の大販売会がネットで紹介されていた。
ネットでの販売ではなく、現地販売会。
家具は現物を見ないと、大きさや雰囲気がわからないからわたしは買えない。
脳内で素敵な快適なソファに身を沈め、リラックスしている自分を想像したが、3秒で脳内劇場はさっと幕を閉じた。
アタマに描く次に続くシーン。
ごろんとなっているところに、ご近所の方々。
勝手に入ってくる。
跳ね起きる自分。
人のプライベート空間などお構いなしに、人が侵入してくる。
わたしが、あのリフォームの里には絶対に住めない難儀な理由はそこにある。
わたしはフレンドリーではなく、開けっ広げではないので、人が勝手に敷地内に入って来る風土、風習、習慣には適応できない。
自分の城を確保した上で、たまに行くなら良いが。
好むと好まざるにかかわらず、人の目にさらされるのは苦痛だ。
隣の住民が誰かもお互いに知らず、孤独死しても異臭でやっと気づかれるなんていうのも困るが。
と、いつも両極端の例を出して顰蹙(ひんしゅく)を買う。
が、勝手に人が入ってくることで、精神的デメリットだけではなく、事故や事件を未然に防げる可能性もある。
神経質な人はセキュリティシステムを充備し、専属の人を雇うだろうが、人選も何かと問題を含むことがある。
マンパワーは、一方的にお願いし、依頼、頼るにも、信頼関係を築くのは一足飛びには出来ず簡単なことではない。


話は戻るが、
開放的な空気が肌に合わない、身に馴染まない。
バカンスにリゾート地を訪れて解放感に浸るのは大変爽快だが、毎日が自宅公開解放というのはわたしの特性としてはノーサンキューだ。遠慮したい。

リフォームの里の近隣の人で、同敷地内に親が子供夫婦に家を建てたところ、新妻さんは中から鍵をかけているという情報が姑のところまで流れてきていた。
鍵をかけたら、非難されるのか、、、。

姑は元気な頃、昼寝したりする時は玄関の鍵をかけていた。
それでも用事がある人は裏に回ってくる。
晩年は、玄関が閉まっていると裏に回ってくる人もいなくなったようだが。

交際好きな姑だったが、さすがに晩年は疲れてきたようだ。
ご近所や親戚にはいたって良い評判を得ていた。
わたしなら、そうならないだろう。
が、良い評価を得たいために、自分を押し殺すのは、わたしはしたくない。
好きでやっているならよいが。
自分を曲げてまで頑張る気はなし。
風土に合わない人間だ、、、と思われているかも知れない。
そういう風土が嫌な人はその地から出て行っている。
良いと思う人だけがやっている。
なので、皆んな同じような感覚、考えの人がより集まり残り、掻き乱されることはない。
それが嫌な人は、その地に住んでいない。
意思表示である。
江戸時代の封建社会ではないから、住所は自由に決めることが出来る。
土地の人は、住んでいない人のことは仲間外れにしているが、当たり前。
仲間に入りたくないから、出て行っているのだから。

わたしには閉ざされた人だけでコミュニティを形成する田舎暮らしは無理。
定年後、田舎暮らしに憧れる元都会人がいて移住するものの、人付き合いの難しさでギブアップする人もいる。
郷にいれば郷に従え、、、だが、新天地には従いきれない郷もある。
わたしは元々田舎の出身であるが、田舎とて時代の波を無視した地は若い人が定着できず自滅する恐れがある。

まあそういう距離感で接しているが、拒絶感を無言で放っている。
だが、地域のカラーは無視できない。
あの地を敬遠する理由はそれだけではないが。
もっと違う根因があると自己分析する。

歳がいったらあの地も悪くないと思ったが、考え方一つで、ころっと暮らし方も変わる。
改良、改善する手もある。
もっともっと歳がいくと考えも変わるかも知れないが、その時は人様(専従スタッフ)のお世話になる高齢者施設に入っているだろう。
その時は軸足は一つ。
好きなようにシフトできないので、覚悟しなければならない。


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