○彼岸会の起こりはこの方の追善供養から・・・?!
早良親王(さわらしんのう)…750年? -785年11月8日奈良時代末期の皇族。光仁天皇の皇子。生母は高野新笠。桓武天皇、能登内親王の同母弟。
母方が下級貴族であったために立太子は望まれておらず、761年に出家して東大寺羂索院や大安寺東院に住み、親王禅師と呼ばれていました。781年、兄・桓武天皇の即位と同時に光仁天皇の勧めによって還俗し立太子されました。
785年、造長岡宮使 藤原種継暗殺事件に連座して廃され、乙訓寺に幽閉されてしまいます。無実を訴えるため絶食し続け、淡路国に配流の途中、河内国高瀬橋付近(現・大阪府守口市の高瀬神社付近)で憤死してしまいました。
実際に藤原種継暗殺に早良親王が関与していたかどうかは不明だそうです。
種継が中心として行っていた長岡京造営の目的の1つには東大寺や大安寺などの南都寺院の影響力排除があったために、南都寺院とつながりが深い早良親王が遷都の阻止を目的として種継暗殺を企てたという疑いをかけられたとする見方も…。
その後、桓武天皇の皇子である安殿親王(後の平城天皇)の発病や、桓武天皇妃の病死、桓武天皇生母の病死、疫病の流行、洪水などが相次ぎ、それらは早良親王の祟りであるとして幾度か鎮魂の儀式が執り行われていました。
このことが後の彼岸会に繋がるようです。