長尾景虎 上杉奇兵隊記「草莽崛起」<彼を知り己を知れば百戦して殆うからず>

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「最強の戦国武将」は結局、誰だったのか? 「武勇、知略、動員力…」総合力は、この武将だ

2017年06月01日 15時31分30秒 | 日記
































「最強の戦国武将」は結局、誰だったのか? 「武勇、知略、動員力…」総合力は、この武将だ





戦国武将たちの中で、最強と呼べる人物はいったい誰なのか(写真:近現代PL/アフロ)© 東洋経済オンライン 戦国武将たちの中で、最強と呼べる人物はいったい誰なのか(写真:近現代PL/アフロ)
 織田信長や豊臣秀吉をはじめとする数々の英雄が誕生した戦国時代。

 強い者が弱い者を倒して生き残る下克上の世は、誰もが一国一城の主はおろか天下を握るチャンスさえ持っていた。その結果、出自は問わず、持って生まれた才能と実力のみで、大きく躍進を遂げた者も数多い。

 そんなあまたの戦国武将たちの中で、最強と呼べる人物はいったい誰だったのか?

 「日本史を学び直すための最良の書」として、作家の佐藤優氏の座右の書である「伝説の学習参考書」が、全面改訂を経て『いっきに学び直す日本史 古代・中世・近世 教養編』『いっきに学び直す日本史 近代・現代 実用編』として生まれ変わり、現在、累計20万部のベストセラーになっている。

 本記事では、同書の監修を担当し、東邦大学付属東邦中高等学校で長年教鞭をとってきた歴史家の山岸良二氏が、「戦国最強の武将」を解説する。

確かに「戦国の覇者」は徳川家康だが…

 1467年に京都で始まった「応仁の乱」。

 足かけ11年にわたるこの戦いの終結後も、各地では争乱がやまず、その後100年以上ものあいだ、長く激しい戦乱の嵐が吹き荒れました。

 現代の私たちが「戦国時代」と呼ぶこの期間には、国内各地で群雄がひしめき、その中で数多くの伝説的英雄が誕生しています。

 彼らは歴史の教科書に限らず、テレビドラマや漫画、ゲームなどでも頻繁に取り上げられ、織田信長をはじめ伊達政宗や真田幸村などは、いまなお多くのファンから支持を受けています。

 そんな多くの戦国の英雄たちの中で、「『最強』の名にふさわしい武将」はいったい誰なのでしょう。

 今回は「戦国最強の武将」をテーマに、さまざまな「強さ」を持った個性あふれる戦国武将たちについて解説します。

 今回も、よく聞かれる質問に答える形で、解説しましょう。

 Q1.戦国時代、「最強の武将」は誰だったのですか?

 非常に難しい質問です。一口に「最強」といっても、「強さ」をどのような尺度で捉えるかによって答えは変わるからです。

 「単に戦闘力の強さ」もあれば「チーム力の強さ」もあります。また、戦術面など「頭脳的な強さ」も戦いには必要です。

 まずは「戦闘能力に優れた武将」について見てみましょう。

「戦場で絶対に出会いたくない」武将たち

 【勇猛果敢さで最強】上杉謙信(1530―1578 越後国春日山城)

 上杉謙信は、生涯で70回の合戦に臨み、そのうち敗れたのはたったの2回のみと言われています。その恐れを知らぬ勇猛さは、敵味方双方を驚嘆させます。

 1559年、味方がこもる「唐沢山城」の危機が報じられ、謙信は救援に駆けつけます。しかし進軍が間に合わず、城は3万5000の敵兵に攻められ、すでに落城寸前でした。

 ところが、彼はこれを見るや否や、わずか44騎の手勢を率い、いとも容易くこの包囲を突破。城内に入ると、城兵を鼓舞しそのまま敵を撃退してしまいました。

 【生涯合戦数で最強】織田信長(1534―1582 近江国安土城)

 織田信長が生涯で戦った回数は、トータルで「155戦(113勝28敗14分)」にものぼります。

 これは、15歳の初陣から計算すると、1年間に平均4.4回という驚くべきペースです。敵とみれば容赦はせず、残虐に敵を攻め滅ぼすこともしばしばでした。

 ご存じのとおり、織田信長は天下統一を目前にして「本能寺の変」で暗殺されてしまいますが、もしこの事件がなければ、さらに記録は伸びていたでしょう。

 【怪力で最強】延沢満延(1544―1591 出羽国野辺沢城)

 出羽(山形県・秋田県)の最上(もがみ)氏の家臣である延沢満延(のべさわみつのぶ)は、その「怪力」で知られます。

 彼が愛用した武器は、槍(やり)や刀ではなく、なんと長さ五尺一寸(約150センチメートル)の鉄棒でした。この鉄棒の一撃をくらった敵は、頭が胴体にめり込んだと言われています。

 また彼に体をつかまれ、投げ飛ばされた者は、そのまま深田に頭から杭打ち状態で突き刺さったとも言われています。桜の木を根っこごと抜き倒したという逸話も伝えられています。

 【不死身で最強】本多忠勝(1548―1610 伊勢国桑名城)

 徳川家康の家臣、本多忠勝は、家康を打ち負かした武田信玄も認めた「名将」として知られています。生涯で57回の戦いに参加しながら、ついに1度もケガを負いませんでした。

 そのため、彼が晩年に死を迎えた原因は、「つめを切り損ねて、指先をわずかに傷つけてしまった(はじめて血を流した)から」などといったうわさがささやかれるほどでした。

 ちなみに、同じ家康の家臣である井伊直政は本多忠勝とは対照的に、それを目にした誰もが驚愕した傷だらけの体だったそうです。

 Q2.勇猛さとは異なる「強さ」を誇った武将はいますか?

 自らの能力や特性を駆使し、大きな脅威として敵から恐れられた武将もいました。腕力だけでなく「特技を生かした強さ」も、戦国の世を生き残る強力な武器と言えましょう。

 続いて、独自の能力に優れた武将をあげてみます。

戦いは「腕力のみ」で勝つのではない

 【知謀で最強】毛利元就(1497―1571 安芸国吉田郡山城)

 毛利元就(もとなり)は、それまで安芸(あき・広島県西部)の小領主にすぎなかった毛利家を、わずか1代で中国地方のほぼ全域を支配する大大名へと躍進させました。

 彼の強さの秘密は、何といっても「周到な策略」にあります。

 1555年の「厳島(いつくしま)の戦い」では、2万の大軍を率いる陶(すえ)氏に謀略を仕掛け、あらかじめ定めておいたせん滅地点(厳島)へ誘い込むと、わずか4000の兵で奇襲を行い大勝します。

 彼に戦いを挑んだ敵はことごとくその術中にはまり、蹂躙(じゅうりん)されました。

 【動員力で最強】豊臣秀吉(1537―1598 山城国伏見城)

 戦国時代後半は、経済力を武器に大量動員で敵を圧倒する戦い方が増えてきます。

 なかでも、織田信長の天下統一事業を引き継いだ豊臣秀吉は、「九州平定」で約22万人、「小田原征伐」で約21万人、朝鮮半島に出兵した「文禄の役」で約16万人と、「動員力」では群を抜いています。

 ちなみに、徳川家康が「大坂冬の陣」で率いたのは約20万人、あの天下分け目の戦いで知られる「関ヶ原の戦い」は東西両軍あわせても16万人程度です。

 【水軍で最強】九鬼嘉隆(1542―1600 志摩国鳥羽城)

 九鬼嘉隆(くき よしたか)は、全国でも珍しい水軍を率いた大名です。

 特に、九鬼氏の船の建造技術は非常に高く、1578年に行われた信長の「石山本願寺攻め」には、信長からの依頼で6隻の「鉄甲船」を建造して参加。その船は全長約30メートル、船体を鋼板で覆い、大砲を多数搭載した大型船でした。

 「石山本願寺攻め」では、この鉄甲船を中心にして大阪湾の海上封鎖を行い、本願寺の救援に駆けつけた村上水軍を、圧倒的な火力で撃退しました。

 【築城で最強】藤堂高虎(1556―1630 伊勢国安濃津城)

 豊臣秀吉や徳川家康にも仕えた藤堂高虎(とうどう たかとら)は、武勇だけでなく「難攻不落の城造り」にも定評のある武将でした。

 江戸城をはじめ、京都聚楽第、宇和島城、二条城、さらにはその堅牢な城郭構造に恐怖を抱いた幕府が天守の建造を許さなかったという丹波篠山城など、生涯に20以上に及ぶ城のデザインや改修に携わりました。

 ちなみに、藤堂高虎は城以外にも日光東照宮、上野寛永寺、京都南禅寺三門等の建立にも深く関係しています。

 Q3.結局のところ、「戦国最強の武将」は誰なのでしょうか?

 さまざまな武将を見てきましたが、「戦略・戦術」に優れ、なおかつ「知謀」から「動員力」までを幅広く備えた「総合力の面で最強の武将」は、やはりこの人でしょう。

 【総合力で最強】武田信玄(1521―1573 甲斐国躑躅ヶ崎館)

 武田信玄の、「戦の天才」と呼ばれる上杉謙信と終始互角に渡り合った実力はよく知られています。百戦錬磨の織田信長さえ、武田信玄を恐れて全面対決を避け続けたほどでした。

 16歳の初陣から14戦無敗、北信濃侵攻中に敗戦を3度経験するものの、その後、31歳から53歳で死ぬまでの残り22年間は、ふたたび50戦無敗でした(生涯戦績は72戦49勝3敗20分)。

 その強さの秘密は、彼が体得した「孫子の兵法」にあると言われています。情報収集や謀略などを用いて、戦いが始まる以前に相手を弱らせ、「勝つべくして勝つ」戦略を基本としていました。

 徳川家康が天下人になれたのも、敵でありながら彼を信奉し、武田氏滅亡後はその遺臣を多く取り込み、その組織形態を模倣したためとも言われています。

 「大坂冬の陣」での真田幸村の大活躍は、かつて真田家が武田時代に培った兵法そのものですから、信玄の強さはその存在とともに群を抜いていたと言えます。

歴史には「教訓」と「ドラマ」が詰まっている

 戦国武将をこうして一人ひとり注目してみると、皆それぞれが自らの個性、特性を武器に精一杯、時代を生き抜こうと努力していたのがよくわかります。

 もちろん、彼らがここまで必死だったのは、文字どおり「戦での敗北が、そのまま死に直結するから」です。当時の日本が過酷な時代だったことをあらためて強く実感します。

 戦国時代は、群雄割拠の争いの中、たくさんのヒーローたちが生まれ、また消えていった時代でした。その中で歴史に名を残した武将には、それぞれの「学ぶべき長所や教訓」が少なからずあります。

 また、今回とりあげた戦国武将たちは実際には直接対決していないことも多く、「もしも知謀の毛利元就ならば、武田信玄にどう挑んでいただろう?」などと想像をめぐらすことも、歴史の楽しみ方のひとつです。

 ぜひ、「教訓」と「ドラマ」が詰まった歴史を学び直すことで、現代を生き抜く知識と教養を、楽しみながら、身につけてください。

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