上海出発・孫文の死
小平の実家は地主階級であり、建物は平屋である。家の敷地は六○○坪ほどで、現在は「小平記念館」となっている。そこには質素なお土産屋があり、そこでは、毛沢東バッチや小平バッチ、ステッカー、写真などが売ってある。しかし、けして華やかなものではない。申し訳なさそうに売っているだけだ。「個人崇拝」を嫌った小平らしく、実家には銅像さえないのだ。
暗い雲がたちこめ、やがて、その隙間から、ぽつんぽつんと冷たい雨が降り出した。そして、それはどんどんと多くなり、ざあざあと辺りを黒く濡らしていった。なんとも物悲しいような午後の時だ。
希賢(小平は16歳のころより先望から希賢と名を変えている)は実家の軒下で、降り落ちる大粒の雨をみていた。母・淡氏は忙しく洗濯物をとりこんでから、一息ついた。そして、息子のとなりに「よっこいしょ」と座った。
「雨ね」
「雨だね」
当たり前のことを言ってみた。そう、雨…だ。みればわかる。
それからしばらくして、母・淡氏は、
「希賢、将来は何になりたいの?」と、突然のように尋ねた。
希賢はすぐに「孫文先生のようになりたいと思ってるんだ」
とあたりまえのように答えた。そして、にこりと微笑んだ。
「そう。じゃあ…よっぽど勉強しないとねぇ」
「うん。わかってる。だから、今、一生懸命やってるんだ。いい成績をとって賞をもらうのが目的なんだ。偉くなるには、まず自分がひとより抜きんでることが大事だからね。そのためにはなんでもするよ」
「そう」
母・淡氏は深く頷いた。そして、
「じゃあ、フランス行きの話しもOKね?」
と尋ねた。客家(はっか)系の人間として教育に熱心だった母も父・文明も、息子にフランス行きを勧めていた。この当時、欧州へ留学するのは一種の流行りであり、この一家も例外ではなかったのである。これは「勤工留学」と呼ばれるもので、ヨーロッパなどで働きながら学ぼうという中国人の運動であった。フランスに渡ったのは1万3千人ほど。その運動の中には、のちの「長兄」・周恩来もいた。(毛沢東は留学試験に落ちていけなかったという)
「うん。もちろんさ」希賢はうなずいた。
そして続けて、「きっと母さん達の期待に答えるよ。そして、自分自身の夢をかなえるよ。試してみたいんだ……自分がどこまで出来るかを、ね」
といった。
「お父さんの期待も…?」
母の問いに、希賢の顔が暗く沈んだ。お父さんの期待……か。どうだっていいよ!あんなひとのことなんて!思わずイヤな経験が頭の中をよぎり、吐き気がした。しかし、彼はそのことは言わずに、ただ、
「まぁね」とだけ答えていた。そして、続けて
「とにかくやらなければならないんだ!」
希賢は、気をとりなおして、その胸の中にある思いを熱っぽく語った。母・淡氏は、しばらく自信に満ちあふれた息子の横顔をジッとみていた。孫文先生のようにか……。まぁ、夢をもつのはいいことね。いずれ挫折やもっと苦しいことに直面したとしても、この息子ならばやっていけるかも知れない。
母・淡氏は、暖かく包み込むような甘い笑顔で、
「そう、とにかくがんばって」
と、白い歯をみせた。
「うん。一生懸命努力して…きっと、いつか、母さん達が誇れるような偉い人間になるよ。孫文先生のようなね。とにかく、フランスにはいくよ!なにかのチャンスが掴めるはずだからね、きっと」
あどけない表情のまま、希賢は母に笑顔をみせていた。
一九二○年、9月11日。上海。
物憂げな秋の陽射しに照らされた上海のポピュラ並木が微風でゆらゆら揺れていた。聞こえてくるのはカモメのカン高い鳴き声ばかりである。
しかし、平穏な時代ではなかった。中国の上海などには日本やイギリスなど外国列強が支配し、わがもの顔でのさばっていたのだ。希賢はショックを受けていた。上海の店や街のあちこちに「犬と中国人入るべからず」という看板がたっていたからだ。犬と中国人…?われわれは犬と同じ扱いか?
「この野郎め!」
希賢は、そんな罵声を浴びせ掛けられてステッキで殴られる中国人の男を目撃したりもした。その男は何をした訳でもない。ただ中国人というだけで殴られたのだ。これは彼にとって屈辱以外のなにものでもなかった。「このままでは中国は外国の植民地になる」孫文の言葉を、希賢は思い出していた。このままでは…中国は……。
やがて港についた。
広安の景色は、あまりにも身近いにあり過ぎて、毎日歩いた道や草の匂いもあらためておもうこともなかった。だけどこれからは、この土地を離れて、中国さえも離れて、友達や両親とも別れてくらさなければならないのだ。
だが、希賢はこの上海の土地をも心にとどめようとはしなかった。はやくフランスへ渡って認められたい。…それらのことで胸がいっぱいだったのだ。期待と焦り、情熱と野心……青年時代に誰もがもつものである。
「がんばって……しっかりやりなさい」
父・文明は船に乗り込もうとする希賢に言った。
しかし、希賢は父親を嫌っていたので、それには答えなかった。いや、「おしつけがましい」という顔をつくらないように苦労した。
「体に気をつけて、しっかりやるのよ。けして諦めたりしちゃダメよ」
母は寂しそうに言った。
「だいじょうぶだよ。ここまできたんだ、僕はけして諦めたりしないし、逃げたりしないよ」
と希賢は自信たっぷりな微笑みのままいった。
彼の頬は少しほてり、瞳だけがきらきらと輝いてもいた。
「生モノに気をつけろ。生水は飲むなよ」
一瞬の静寂をやぶるように父・文明はすっとんきゅうなことを呟くように息子にいった。「あぁ」
希賢ことのちの小平はなんとなく答えた。山に山菜とりにいくんじゃないんだから。…近代都市国家のフランスにいくのだ。まったく…何もわかっちゃいないんだから!
彼は船に乗り込んで、大声で「じゃあ、元気で!」
と、手をふった。
こうして希賢ことのちのとう小平は、叔父・紹聖ら八十四名の四川省出身の青年とともにフランスへ渡るべく上海を出発していった。
数週間後…。
フト、希賢はフランスの工場のうす汚いジメジメした従業員宿舎の窓から外を見た。ひとびとが歩き、通り過ぎていく。秋の匂い……それらすべてが芸術的に思えて、ぽーっとなっていた。広安で生活していた毎日なんて、平凡とはいかないがまぁそんなようなものだった。朝起きて、夜眠って、食事をして、学校にいって、川をみて、友達とおしゃべりをして……そんなことの繰り返しだった。でも、それはそれでほのかなぬくもりのように、懐かしい思い出だった。そして、むしょうに故郷が恋しくなるのだった。
彼はなんとなくぼうっとした感じで、夜空にぽっかりと浮かぶ青白い月をジッとみた。うららかな夜風が頬に当たり、心地よかった。
「人生はバランスで、何かを勝ち得て何かを失っていく。…走っても走っても追い付けない現実……」
すべてがあまり昔と変わらない気分だった。だけど、こんな気分もやがて秋風のように通りすぎてしまうのも、また確かだった。そして、彼の耳に訃報がまいこむ。
一九二五年三月十三日、革命思想家・孫文が死亡したのだ。
「革命いまだならず」
孫文はこういい残したという。
周恩来との出会い
フランスに来て、学校へいって、工場で働いて、希賢は一生懸命やった。しかし、がんばりがたりなかった。授業についていけず、フランス語もなにをいってるのかもわからずに落ちこぼれ、わずか三週間で学校をやめてしまったのだ。
それで、希賢ことのちのとう小平は工場で一日を過ごすようになる。
「くそっ。孫文先生のように……か。くそったれめ!」
希賢はくやしくてほぞを噛んだ。なにが孫文先生…だ!なんてこった!
彼はくやしくてくやしくてしょうがなかった。しかし、腐ってばかりもいられない。食べるためには働かなくてはならない。希賢は何時間も重労働をすることになる。この当時、フランスは第一次世界大戦で働き手を数多く失っており、中国人はその「穴埋め」として安い給料で働かされていた。少し偏見になるが、現在の日本でいうなら、在日イラン人や在日フィリピン人といったポジションだ。
彼は工場の宿舎に仲間の中国人30人と寝泊まりをしていた。そして、やけっぱちからだろうか?仲間とトランプでカケをすることが多くなったという。のちに仲間のひとりは、「小平にはユーモアがあった」
と語っている。
やり場のない焦り、工場のジメジメしたふとん…。それらは希賢を失望させるのに充分だった。もう、なにもかもくそっくらえだ!そんな気分だった。
月のとても高い夜だ。
希賢はひと気のない街の歩道を、ふらふらとひとりで歩いていた。ふらふらとは、アルコールがかなりはいっているためで、彼は、酒瓶を片手にもってラッパ飲みしながら歩いていたのだった。
希賢はふらふら歩きながら、やがて誰かにぶつかって尻餅をついた。
「だいじょうぶかね?君」
「この野郎」
希賢はろれつがまわらない口調のまま、おきあがると肩をいからせた。
しかし、ぶつかった青年…たぶん20代前半であろう青年は、希賢に反論することもなかった。どちらかが悪いとしても、それは希賢の方であろう。なにせ酒にぐでんぐでんに酔っ払い…勝手にひとにぶつかったのだから…。しかし、相手は文句はいわなかった。相手は紳士だった。そして、彼は、冷静に、と自分にいいきかせてもいた。
「だいぶ酔っ払っているようだね?君も中国人かい?」
「あぁ。」
希賢は男を注意ぶかく観察した。その紳士は二十四歳くらいの堂々たる中国人男性で、インテリ風の髪と、もの静かな、好感をもてる顔をしていた。しかし、目は、知的だった。「僕も酒をだいぶ飲むが…君のように酒に酔われたりはしない。君は酒をやめたほうがいいね」
「よけいなお世話さ」
「ははは…そりゃあそうだ。僕は…周恩来だ。君の名は?」
周恩来が知りたいのは、このイモのような顔をした酔っ払いの名前だった。彼はそれを礼儀ただしく尋ねた。
「……希賢」
「ほう。」周はそういい続けて、「とてもいい名前だね」といった。
名前をきいてどうするんだ?!こっちは機嫌が悪いんだ!あばれるぞ!腹立ちまぎれにその言葉が希賢の喉まで出かかったが、ぐっとのみこんだ。
「だいぶ嫌なことがあったようだね?どうだろう……僕の支部へこないかい?」
周恩来はおだやかにいった。
この優しい言葉に希賢はおそれいった。この男は紳士だ!しかも自分と比べて、はるかに知的で親切のようだ。しかし、「支部」ってなんだろう?まぁ、いいか。いってやるよ。
これが周恩来と小平の運命的な出会いだった。こののち四十年にも渡って続く友情の始まりだった。そして、「支部」とはまちがいなく中国共産党の仏支部のことだった。
次の日より、希賢は「支部」へ出入りすることになった。フランス語もろくに話せないとうは、フランス人とも優雅に渡りあう周にひかれた。周恩来は中国共産党の仏支部の若きリーダー…。希賢は工場をやめて、周の所へ出入りするようになっていった。
彼に与えられた仕事は「ガリ版刷り」だ。そう、共産党の機関紙を刷るのだ。
希賢は「ガリ版刷り」が非常にうまかったという。そのため、周恩来や仲間たちから「ガリ版博士」と呼ばれ、愛されるようになる。
一九一九年、ロシアでレーニンによる共産主義革命が成功する。
そして、希賢は、20歳で、周に勧められて共産党に入党するのである。のちに小平はその時のことをふりかえり、娘の毛毛にいっている。
「あのころ入党するのはたやすいことではなかった。あんな時代だったから共産党に入るのは重大なことだった。それこそすべてを捧げたんだ。何もかもをね」
一方、北京では学生や労働者たちの集会が開かれていた。北京の天安門広場には何万人もの人々が集まっていた。ざわつく聴衆…。
ある男がさっそくアジ(煽動論説)をはりだした。
「諸君!我々はいま激しい屈辱と怒りにうちふるえている!
パリで開かれた世界大戦の講和会議において、当然、敗戦国ドイツのもっていた山東省における利権はわが国に返還されるものと期待していた!
しかし、どうか?!
講和会議はわが山東省青島をドイツから日本へゆずることを決議したのだ!
このままではやがて中国は世界地図から消え去り、我々は外国の奴隷にされてしまう!もはや、我々中国人が頼れるのは、我々自身でしかないのだ!
諸君、
いまこそ決起すべきときなのだ!
われわれの手でわが中国を守ろう!!
立て、同志諸君!」
津波のような喚声があがった。こうしてアジの成功によって、北京大学を中心とする北京の大学19校・約三○○○名の学生はデモ行進をおこない、日本との秘密協議に協力した交通総長公邸を襲い、警官隊と激しく衝突した。
「諸君、北京のニュースを聞いたか?!」
周恩来はいささか興奮ぎみに、仲間の中国共産党員にきいた。ここは中国共産党フランス支部のアジトだった。
「えぇ!」ひとり同志が答えた。そして続けて「北京で大学生たちが行った五・四運動の火は上海・天津・南京にも広がり、一般の市民や労働者もこれに同調していっせいにストライキにはいったって聞きました!」
「いままで中国では革命運動はなんども試行錯誤を重ねてきたが、こんどの五・四運動は重大な意義があると思う!」
周恩来は胸を熱くしながら言った。そして、
「つまり今度の運動は、反帝国主義、反封建主義の旗印のもと一致団結してたちあがったということだ!
諸君、時はきたれりだ!!」
といい、周につられて希賢も拳を天にふりあげていた。
それはのちの小平の革命精神へのはじまりの時であった。
北 伐
1925年。奨学金の打ち切りに抗議して、中国人がパリ中国公使館に押しかけ、占拠するという事件が勃発した。それによりフランス政府は国内の中国共産党員らを指名手配。そのリストの中には、21歳の希賢の名前もあった。彼はこのころより共産ゲリラのレッテルを貼られることになる。……
一九二六年七月。
将介石は国民党総司令官として北方軍閥打倒のため軍をおこした。これを北伐という。 八月、漢陽・漢口占領。
十月、武昌占領。
十一月、九江・南昌占領!
国民党軍の北伐は、軍閥の圧政に苦しむ民衆に歓呼をもってむかえられた。北伐軍の行くところ農民・労働者は積極的に協力し、道案内や食糧運搬から暴動やストによる後方 乱も行った。そのため、北伐軍は、江西・湖南・湖北・安薇…とく各省で軍閥軍をやぶる快進撃をつづけ、十一月には国民党の中央政府が武漢に成立した。
「将将軍!このようすでは三月には上海へ入城できますな!」
将介石の部下がニヤリといった。それに対して将は、
「ウム。予想外の快進撃だったな」としらじらしく答えた。
「はっ!」部下はニガ虫を噛み潰したような顔になり、「しかしですよ将軍……共産党のやつらはこの北伐の成功は、自分達の大衆組織の圧力によるところが大きいと宣伝していることをご存じですか?」
「知っておる」
「共産党勢力はここ一年でいちじるしく拡大しております。このままのさばらせておくのは危険と考えますが……」
「うむ。」将介石は狂喜の微笑を口元に浮かべてから「時期がきたということだな」
といって、腰のサーベルを抜いて空をきってから、
「共産党との鎖を断つのだ!!」
と断言した。
もはや共産党など国民党にとって邪魔でしかない。すべて駆逐してしまうのだ!
一九二七年。将介石による上海クーデターが勃発する。
三月二十六日、将介石のひきいる国民党北伐軍上海入城。そして四月十二日午前四時、将介石は反共クーデターをひきおこした!
四月十三日正午。市内宝山路にて抗議行進をする共産党員・労働者に北伐軍第二師団が急襲をくわえて三○○名を虐殺。おりからの豪雨で宝山路に血の河が流れたという。
”北方軍閥と通じ、革命を破壊せんとする反動分子を一掃した!
これを煽動した共産党と袂をわかつ!!”
将介石、上海声明 一九二七年四月
「諸君、静まれ!」
朱徳・南昌軍将軍は多数の兵に告げた。「ただいまより、わが南昌鉄軍は国民党政府に対して武装蜂起する!」
一同は静まりかえる。朱徳は続けた。
「諸君ら連隊もこれに加わってもらう!いいか?!」
これにたいして、すぐさま、「おーっ!」という怒号のような歓声があがった。
”1927年8月1日早朝。
南昌において、朱徳・賀竜らに指揮された一万の鉄軍が歴史的な南昌蜂起を行った! これが中国赤軍の始まりである”
毛沢東
こうして国民党と共産党の内戦が勃発することになる。この内戦は37年までつづくが、結果は国民党の退敗。…国民党の将介石らは台湾に逃げ延びて独立政府をつくることになる。台湾と中共(中国共産党)の仲の悪さも、原因はここにあるといってもよい。
とにかく泥沼の内戦の始まりであった。
毛沢東という男
一九二七年上海。
小平は6年ぶりに欧州より帰国した。中国は泥沼の内戦の真っ直中にあった。そして、この頃より希賢は名前を「希賢」から「小平」へと名乗りだす。小平とは、小さな平和という意味である。
いつ殺されてもおかしくない中、フランス帰りのエリートとみられていた小平は上海湾に浮かぶ船に呼び出された。この船の中で中国共産党の秘密会議が開かれるのだ。
船室で繰り返される激しい議論。ソ連で教育を受けた党執行部、王明らの主張は労働者による「都市からの革命」であった。しかし、中国の都市労働者などたった1割。小平には机上の空論に思えた。そんな中、ひとりの男が立ち上がっていった。
「都市からの革命など無意味だ。中国の9割を占める農民を主体とした「農村からの革命」をおこなわなくては勝つことができない。現実から学ばなくては真実はみえてこないのだ」 この男こそ、のちの中国の国家主席となる毛沢東そのひとであった。
現実から学ばなくては真実はみえてこない……その言葉はの胸に深く響いた。その通り!現実から学ばなくては真実はみえてこないのだ。
中国共産党の政治局員となったに、ソ連幹部から命令が下る。国民党を懺滅し、共産党の支配地を拡大せよ。この頃、小平は張という女性と結婚したばかり。しかし彼は、妻を実家に帰し、戦いに明け暮れるようになる。彼の作戦は単純で卑劣だった。
負けるとわかればすぐに撤退し、その上、アヘン業者からアヘンを奪いとり市民に売りつけた。それで得た金をもとに兵を集めたのだ。とにかく生き残るためになんでもやった。 しかし、やがて訃報が小平のもとに届く。妻・張が死産により死んだというのだ。わずか十八か月の結婚生活だった。……
寂しさからだろうか?小平はすぐに幼なじみの共産党員・金維映と結婚している。彼にとっては二度目の結婚だった。彼はふたたび戦争へ。
だが非現実的なことをしいるソ連派に嫌気がさして、小平は毛沢東の農民軍に参加するようになる。
現実から学ばなくては真実はみえてこない……。小平は毛沢東に急速に接近していく。
長 征
戦いは国民党軍の一方的優勢のうちに一年間続いた。長期包囲作戦のため、ソビエト区内の戦死者・飢餓者は百万人を越した。
一九三四年七月十五日、瑞金。
毛沢東ら共産党軍は、敗退し、会議を開いていた。毛は机をたたいて主張した。
「このままでは座して死ぬのみだ!
我々のとる道はただひとつ、敵の包囲網を破って、この江西根拠地から全軍撤退することだ!」
「しかし……コミンテルンからはソビエト政権地区を死守せよとの指令がきていますが…」 その部下の言葉を遮るように毛は、
「われわれはコミンテルンのために戦ってるのではない!われわれは中国解放のために戦っているのだ!」
と怒鳴りちらした。
「毛沢東同志、支持!」
そういって椅子から立ち上がったのは、誰あろう、革命に身を投じて毛と合流した小平そのひとであった。
小平、ときに二十九歳。
「おぉっ、小平同志」
「毛同志のいうとおり、我々は中国人民の解放のために戦っているのだ!!その解放のために着実に努力してきた!しかし、このままソビエト政権地区にとどまれば、敵軍にすべて蹂躙されてしまう!それをさけるために、紅軍は転進すべきだ!」
「そうだ」毛はいきまいて早口のままいった。「同志諸君、このままむざむざと解放の芽を踏み躙られてはならない!この解放の芽を守り、さらに中国全土にその花を咲かせるためには紅軍はあらたな転生の進軍に出動するのだ!」
こうして一九三四年、十月十六日。毛沢東以下約10万の紅軍主力は長征の第一歩をふみだすのだった。
国民党の包囲網を破って、瑞金から呉起鎮までの一万二千キロの進軍……この怒濤のような進軍こそが「長征」と呼ばれるものである。
そんな中、小平は「一度目の失脚」を味わうことになる。
「小平同志を政治局員から一党員に後格する」
毛沢東がソ連派幹部との政治闘争にやぶれたのだ。失脚にうちひしがれていると、妻・金維映から手紙が届いた。それは、あまりいいものではなかった。
「……私と別れてほしい……」
彼はダブル・パンチをうけた思いだった。妻・維映が自分にみきりをつけ、ソ連帰りのエリートのもとへ走ったのだ。妻を寝取られる…なんてこった!くそったれめ!
小平、ときに二十九歳…。それは、あまりにもつらい出来事だった。
父の死
「長征」の最中、小平のもとへ一通の電報が届いた。それはあまり好ましいものではなかった。
”父・文明 死ス”
小平の同志は息をのみ、小平をみつめた。しかし、彼はそれっきり表情を変えず、一言も喋らなかった。
彼は電報の紙をくしゃっとしてポケットにしまいこんだ。その目はまっすぐと前方をみていたが、どこかこわばった様子があって、同志は哀れみで胸が痛んだ。父親が!なんとむごい!しかし、小平は父親が死んだことについては、それほどショックも受けていなかったという。当然だ!きらいな父親が死んだ……ただそれだけだ。
「同志」彼の仲間は声をかけてきた。「すぐに故郷へ帰りたまえ」
彼は同志の方を向いた。「ありがとう」
「同志……大丈夫かね?」
はしばらく押し黙り、それからニヤリと皮肉な笑みをうっすら浮かべて
「あぁ、だいじょうぶ」といった。
その数日後の晩、小平と三番目の妻・卓淋は故郷へ帰った。中国の中央部分、四川省。そこの広安県協興郷牌坊村。
近所のひとが喋りあい、たがいの台所に出入りする、そういうところなのだ。
「ひさしぶりのわが家だ」
彼は皮肉たっぷりにいった。
家に入ると、弟の先治に案内されて、彼は棺おけが置いてある部屋までいくことができた。棺おけの中にはいっぱいの花がしきつめられて、その中央に死んだ彼の父親、文明が横たわっていた。
硬直した”デスマスク”。
それは、地主として生き、革命家として生き、そして死んだ父親の最期の表情だった。小平はこの父親に、自分だってやれるんだ、ということを見せたかったのかも知れない。だが、残念ながら遅すぎた。父親が彼の成功を認めることはもうないのだ。
失敗を咎めることも、息子のことを誇りに思うことも、もうないのだ。
農民の、地主の父親。ただの農民で、革命の夢ばかり追っていたと決め付けていた父親。しかし…。
小平の実家は地主階級であり、建物は平屋である。家の敷地は六○○坪ほどで、現在は「小平記念館」となっている。そこには質素なお土産屋があり、そこでは、毛沢東バッチや小平バッチ、ステッカー、写真などが売ってある。しかし、けして華やかなものではない。申し訳なさそうに売っているだけだ。「個人崇拝」を嫌った小平らしく、実家には銅像さえないのだ。
暗い雲がたちこめ、やがて、その隙間から、ぽつんぽつんと冷たい雨が降り出した。そして、それはどんどんと多くなり、ざあざあと辺りを黒く濡らしていった。なんとも物悲しいような午後の時だ。
希賢(小平は16歳のころより先望から希賢と名を変えている)は実家の軒下で、降り落ちる大粒の雨をみていた。母・淡氏は忙しく洗濯物をとりこんでから、一息ついた。そして、息子のとなりに「よっこいしょ」と座った。
「雨ね」
「雨だね」
当たり前のことを言ってみた。そう、雨…だ。みればわかる。
それからしばらくして、母・淡氏は、
「希賢、将来は何になりたいの?」と、突然のように尋ねた。
希賢はすぐに「孫文先生のようになりたいと思ってるんだ」
とあたりまえのように答えた。そして、にこりと微笑んだ。
「そう。じゃあ…よっぽど勉強しないとねぇ」
「うん。わかってる。だから、今、一生懸命やってるんだ。いい成績をとって賞をもらうのが目的なんだ。偉くなるには、まず自分がひとより抜きんでることが大事だからね。そのためにはなんでもするよ」
「そう」
母・淡氏は深く頷いた。そして、
「じゃあ、フランス行きの話しもOKね?」
と尋ねた。客家(はっか)系の人間として教育に熱心だった母も父・文明も、息子にフランス行きを勧めていた。この当時、欧州へ留学するのは一種の流行りであり、この一家も例外ではなかったのである。これは「勤工留学」と呼ばれるもので、ヨーロッパなどで働きながら学ぼうという中国人の運動であった。フランスに渡ったのは1万3千人ほど。その運動の中には、のちの「長兄」・周恩来もいた。(毛沢東は留学試験に落ちていけなかったという)
「うん。もちろんさ」希賢はうなずいた。
そして続けて、「きっと母さん達の期待に答えるよ。そして、自分自身の夢をかなえるよ。試してみたいんだ……自分がどこまで出来るかを、ね」
といった。
「お父さんの期待も…?」
母の問いに、希賢の顔が暗く沈んだ。お父さんの期待……か。どうだっていいよ!あんなひとのことなんて!思わずイヤな経験が頭の中をよぎり、吐き気がした。しかし、彼はそのことは言わずに、ただ、
「まぁね」とだけ答えていた。そして、続けて
「とにかくやらなければならないんだ!」
希賢は、気をとりなおして、その胸の中にある思いを熱っぽく語った。母・淡氏は、しばらく自信に満ちあふれた息子の横顔をジッとみていた。孫文先生のようにか……。まぁ、夢をもつのはいいことね。いずれ挫折やもっと苦しいことに直面したとしても、この息子ならばやっていけるかも知れない。
母・淡氏は、暖かく包み込むような甘い笑顔で、
「そう、とにかくがんばって」
と、白い歯をみせた。
「うん。一生懸命努力して…きっと、いつか、母さん達が誇れるような偉い人間になるよ。孫文先生のようなね。とにかく、フランスにはいくよ!なにかのチャンスが掴めるはずだからね、きっと」
あどけない表情のまま、希賢は母に笑顔をみせていた。
一九二○年、9月11日。上海。
物憂げな秋の陽射しに照らされた上海のポピュラ並木が微風でゆらゆら揺れていた。聞こえてくるのはカモメのカン高い鳴き声ばかりである。
しかし、平穏な時代ではなかった。中国の上海などには日本やイギリスなど外国列強が支配し、わがもの顔でのさばっていたのだ。希賢はショックを受けていた。上海の店や街のあちこちに「犬と中国人入るべからず」という看板がたっていたからだ。犬と中国人…?われわれは犬と同じ扱いか?
「この野郎め!」
希賢は、そんな罵声を浴びせ掛けられてステッキで殴られる中国人の男を目撃したりもした。その男は何をした訳でもない。ただ中国人というだけで殴られたのだ。これは彼にとって屈辱以外のなにものでもなかった。「このままでは中国は外国の植民地になる」孫文の言葉を、希賢は思い出していた。このままでは…中国は……。
やがて港についた。
広安の景色は、あまりにも身近いにあり過ぎて、毎日歩いた道や草の匂いもあらためておもうこともなかった。だけどこれからは、この土地を離れて、中国さえも離れて、友達や両親とも別れてくらさなければならないのだ。
だが、希賢はこの上海の土地をも心にとどめようとはしなかった。はやくフランスへ渡って認められたい。…それらのことで胸がいっぱいだったのだ。期待と焦り、情熱と野心……青年時代に誰もがもつものである。
「がんばって……しっかりやりなさい」
父・文明は船に乗り込もうとする希賢に言った。
しかし、希賢は父親を嫌っていたので、それには答えなかった。いや、「おしつけがましい」という顔をつくらないように苦労した。
「体に気をつけて、しっかりやるのよ。けして諦めたりしちゃダメよ」
母は寂しそうに言った。
「だいじょうぶだよ。ここまできたんだ、僕はけして諦めたりしないし、逃げたりしないよ」
と希賢は自信たっぷりな微笑みのままいった。
彼の頬は少しほてり、瞳だけがきらきらと輝いてもいた。
「生モノに気をつけろ。生水は飲むなよ」
一瞬の静寂をやぶるように父・文明はすっとんきゅうなことを呟くように息子にいった。「あぁ」
希賢ことのちの小平はなんとなく答えた。山に山菜とりにいくんじゃないんだから。…近代都市国家のフランスにいくのだ。まったく…何もわかっちゃいないんだから!
彼は船に乗り込んで、大声で「じゃあ、元気で!」
と、手をふった。
こうして希賢ことのちのとう小平は、叔父・紹聖ら八十四名の四川省出身の青年とともにフランスへ渡るべく上海を出発していった。
数週間後…。
フト、希賢はフランスの工場のうす汚いジメジメした従業員宿舎の窓から外を見た。ひとびとが歩き、通り過ぎていく。秋の匂い……それらすべてが芸術的に思えて、ぽーっとなっていた。広安で生活していた毎日なんて、平凡とはいかないがまぁそんなようなものだった。朝起きて、夜眠って、食事をして、学校にいって、川をみて、友達とおしゃべりをして……そんなことの繰り返しだった。でも、それはそれでほのかなぬくもりのように、懐かしい思い出だった。そして、むしょうに故郷が恋しくなるのだった。
彼はなんとなくぼうっとした感じで、夜空にぽっかりと浮かぶ青白い月をジッとみた。うららかな夜風が頬に当たり、心地よかった。
「人生はバランスで、何かを勝ち得て何かを失っていく。…走っても走っても追い付けない現実……」
すべてがあまり昔と変わらない気分だった。だけど、こんな気分もやがて秋風のように通りすぎてしまうのも、また確かだった。そして、彼の耳に訃報がまいこむ。
一九二五年三月十三日、革命思想家・孫文が死亡したのだ。
「革命いまだならず」
孫文はこういい残したという。
周恩来との出会い
フランスに来て、学校へいって、工場で働いて、希賢は一生懸命やった。しかし、がんばりがたりなかった。授業についていけず、フランス語もなにをいってるのかもわからずに落ちこぼれ、わずか三週間で学校をやめてしまったのだ。
それで、希賢ことのちのとう小平は工場で一日を過ごすようになる。
「くそっ。孫文先生のように……か。くそったれめ!」
希賢はくやしくてほぞを噛んだ。なにが孫文先生…だ!なんてこった!
彼はくやしくてくやしくてしょうがなかった。しかし、腐ってばかりもいられない。食べるためには働かなくてはならない。希賢は何時間も重労働をすることになる。この当時、フランスは第一次世界大戦で働き手を数多く失っており、中国人はその「穴埋め」として安い給料で働かされていた。少し偏見になるが、現在の日本でいうなら、在日イラン人や在日フィリピン人といったポジションだ。
彼は工場の宿舎に仲間の中国人30人と寝泊まりをしていた。そして、やけっぱちからだろうか?仲間とトランプでカケをすることが多くなったという。のちに仲間のひとりは、「小平にはユーモアがあった」
と語っている。
やり場のない焦り、工場のジメジメしたふとん…。それらは希賢を失望させるのに充分だった。もう、なにもかもくそっくらえだ!そんな気分だった。
月のとても高い夜だ。
希賢はひと気のない街の歩道を、ふらふらとひとりで歩いていた。ふらふらとは、アルコールがかなりはいっているためで、彼は、酒瓶を片手にもってラッパ飲みしながら歩いていたのだった。
希賢はふらふら歩きながら、やがて誰かにぶつかって尻餅をついた。
「だいじょうぶかね?君」
「この野郎」
希賢はろれつがまわらない口調のまま、おきあがると肩をいからせた。
しかし、ぶつかった青年…たぶん20代前半であろう青年は、希賢に反論することもなかった。どちらかが悪いとしても、それは希賢の方であろう。なにせ酒にぐでんぐでんに酔っ払い…勝手にひとにぶつかったのだから…。しかし、相手は文句はいわなかった。相手は紳士だった。そして、彼は、冷静に、と自分にいいきかせてもいた。
「だいぶ酔っ払っているようだね?君も中国人かい?」
「あぁ。」
希賢は男を注意ぶかく観察した。その紳士は二十四歳くらいの堂々たる中国人男性で、インテリ風の髪と、もの静かな、好感をもてる顔をしていた。しかし、目は、知的だった。「僕も酒をだいぶ飲むが…君のように酒に酔われたりはしない。君は酒をやめたほうがいいね」
「よけいなお世話さ」
「ははは…そりゃあそうだ。僕は…周恩来だ。君の名は?」
周恩来が知りたいのは、このイモのような顔をした酔っ払いの名前だった。彼はそれを礼儀ただしく尋ねた。
「……希賢」
「ほう。」周はそういい続けて、「とてもいい名前だね」といった。
名前をきいてどうするんだ?!こっちは機嫌が悪いんだ!あばれるぞ!腹立ちまぎれにその言葉が希賢の喉まで出かかったが、ぐっとのみこんだ。
「だいぶ嫌なことがあったようだね?どうだろう……僕の支部へこないかい?」
周恩来はおだやかにいった。
この優しい言葉に希賢はおそれいった。この男は紳士だ!しかも自分と比べて、はるかに知的で親切のようだ。しかし、「支部」ってなんだろう?まぁ、いいか。いってやるよ。
これが周恩来と小平の運命的な出会いだった。こののち四十年にも渡って続く友情の始まりだった。そして、「支部」とはまちがいなく中国共産党の仏支部のことだった。
次の日より、希賢は「支部」へ出入りすることになった。フランス語もろくに話せないとうは、フランス人とも優雅に渡りあう周にひかれた。周恩来は中国共産党の仏支部の若きリーダー…。希賢は工場をやめて、周の所へ出入りするようになっていった。
彼に与えられた仕事は「ガリ版刷り」だ。そう、共産党の機関紙を刷るのだ。
希賢は「ガリ版刷り」が非常にうまかったという。そのため、周恩来や仲間たちから「ガリ版博士」と呼ばれ、愛されるようになる。
一九一九年、ロシアでレーニンによる共産主義革命が成功する。
そして、希賢は、20歳で、周に勧められて共産党に入党するのである。のちに小平はその時のことをふりかえり、娘の毛毛にいっている。
「あのころ入党するのはたやすいことではなかった。あんな時代だったから共産党に入るのは重大なことだった。それこそすべてを捧げたんだ。何もかもをね」
一方、北京では学生や労働者たちの集会が開かれていた。北京の天安門広場には何万人もの人々が集まっていた。ざわつく聴衆…。
ある男がさっそくアジ(煽動論説)をはりだした。
「諸君!我々はいま激しい屈辱と怒りにうちふるえている!
パリで開かれた世界大戦の講和会議において、当然、敗戦国ドイツのもっていた山東省における利権はわが国に返還されるものと期待していた!
しかし、どうか?!
講和会議はわが山東省青島をドイツから日本へゆずることを決議したのだ!
このままではやがて中国は世界地図から消え去り、我々は外国の奴隷にされてしまう!もはや、我々中国人が頼れるのは、我々自身でしかないのだ!
諸君、
いまこそ決起すべきときなのだ!
われわれの手でわが中国を守ろう!!
立て、同志諸君!」
津波のような喚声があがった。こうしてアジの成功によって、北京大学を中心とする北京の大学19校・約三○○○名の学生はデモ行進をおこない、日本との秘密協議に協力した交通総長公邸を襲い、警官隊と激しく衝突した。
「諸君、北京のニュースを聞いたか?!」
周恩来はいささか興奮ぎみに、仲間の中国共産党員にきいた。ここは中国共産党フランス支部のアジトだった。
「えぇ!」ひとり同志が答えた。そして続けて「北京で大学生たちが行った五・四運動の火は上海・天津・南京にも広がり、一般の市民や労働者もこれに同調していっせいにストライキにはいったって聞きました!」
「いままで中国では革命運動はなんども試行錯誤を重ねてきたが、こんどの五・四運動は重大な意義があると思う!」
周恩来は胸を熱くしながら言った。そして、
「つまり今度の運動は、反帝国主義、反封建主義の旗印のもと一致団結してたちあがったということだ!
諸君、時はきたれりだ!!」
といい、周につられて希賢も拳を天にふりあげていた。
それはのちの小平の革命精神へのはじまりの時であった。
北 伐
1925年。奨学金の打ち切りに抗議して、中国人がパリ中国公使館に押しかけ、占拠するという事件が勃発した。それによりフランス政府は国内の中国共産党員らを指名手配。そのリストの中には、21歳の希賢の名前もあった。彼はこのころより共産ゲリラのレッテルを貼られることになる。……
一九二六年七月。
将介石は国民党総司令官として北方軍閥打倒のため軍をおこした。これを北伐という。 八月、漢陽・漢口占領。
十月、武昌占領。
十一月、九江・南昌占領!
国民党軍の北伐は、軍閥の圧政に苦しむ民衆に歓呼をもってむかえられた。北伐軍の行くところ農民・労働者は積極的に協力し、道案内や食糧運搬から暴動やストによる後方 乱も行った。そのため、北伐軍は、江西・湖南・湖北・安薇…とく各省で軍閥軍をやぶる快進撃をつづけ、十一月には国民党の中央政府が武漢に成立した。
「将将軍!このようすでは三月には上海へ入城できますな!」
将介石の部下がニヤリといった。それに対して将は、
「ウム。予想外の快進撃だったな」としらじらしく答えた。
「はっ!」部下はニガ虫を噛み潰したような顔になり、「しかしですよ将軍……共産党のやつらはこの北伐の成功は、自分達の大衆組織の圧力によるところが大きいと宣伝していることをご存じですか?」
「知っておる」
「共産党勢力はここ一年でいちじるしく拡大しております。このままのさばらせておくのは危険と考えますが……」
「うむ。」将介石は狂喜の微笑を口元に浮かべてから「時期がきたということだな」
といって、腰のサーベルを抜いて空をきってから、
「共産党との鎖を断つのだ!!」
と断言した。
もはや共産党など国民党にとって邪魔でしかない。すべて駆逐してしまうのだ!
一九二七年。将介石による上海クーデターが勃発する。
三月二十六日、将介石のひきいる国民党北伐軍上海入城。そして四月十二日午前四時、将介石は反共クーデターをひきおこした!
四月十三日正午。市内宝山路にて抗議行進をする共産党員・労働者に北伐軍第二師団が急襲をくわえて三○○名を虐殺。おりからの豪雨で宝山路に血の河が流れたという。
”北方軍閥と通じ、革命を破壊せんとする反動分子を一掃した!
これを煽動した共産党と袂をわかつ!!”
将介石、上海声明 一九二七年四月
「諸君、静まれ!」
朱徳・南昌軍将軍は多数の兵に告げた。「ただいまより、わが南昌鉄軍は国民党政府に対して武装蜂起する!」
一同は静まりかえる。朱徳は続けた。
「諸君ら連隊もこれに加わってもらう!いいか?!」
これにたいして、すぐさま、「おーっ!」という怒号のような歓声があがった。
”1927年8月1日早朝。
南昌において、朱徳・賀竜らに指揮された一万の鉄軍が歴史的な南昌蜂起を行った! これが中国赤軍の始まりである”
毛沢東
こうして国民党と共産党の内戦が勃発することになる。この内戦は37年までつづくが、結果は国民党の退敗。…国民党の将介石らは台湾に逃げ延びて独立政府をつくることになる。台湾と中共(中国共産党)の仲の悪さも、原因はここにあるといってもよい。
とにかく泥沼の内戦の始まりであった。
毛沢東という男
一九二七年上海。
小平は6年ぶりに欧州より帰国した。中国は泥沼の内戦の真っ直中にあった。そして、この頃より希賢は名前を「希賢」から「小平」へと名乗りだす。小平とは、小さな平和という意味である。
いつ殺されてもおかしくない中、フランス帰りのエリートとみられていた小平は上海湾に浮かぶ船に呼び出された。この船の中で中国共産党の秘密会議が開かれるのだ。
船室で繰り返される激しい議論。ソ連で教育を受けた党執行部、王明らの主張は労働者による「都市からの革命」であった。しかし、中国の都市労働者などたった1割。小平には机上の空論に思えた。そんな中、ひとりの男が立ち上がっていった。
「都市からの革命など無意味だ。中国の9割を占める農民を主体とした「農村からの革命」をおこなわなくては勝つことができない。現実から学ばなくては真実はみえてこないのだ」 この男こそ、のちの中国の国家主席となる毛沢東そのひとであった。
現実から学ばなくては真実はみえてこない……その言葉はの胸に深く響いた。その通り!現実から学ばなくては真実はみえてこないのだ。
中国共産党の政治局員となったに、ソ連幹部から命令が下る。国民党を懺滅し、共産党の支配地を拡大せよ。この頃、小平は張という女性と結婚したばかり。しかし彼は、妻を実家に帰し、戦いに明け暮れるようになる。彼の作戦は単純で卑劣だった。
負けるとわかればすぐに撤退し、その上、アヘン業者からアヘンを奪いとり市民に売りつけた。それで得た金をもとに兵を集めたのだ。とにかく生き残るためになんでもやった。 しかし、やがて訃報が小平のもとに届く。妻・張が死産により死んだというのだ。わずか十八か月の結婚生活だった。……
寂しさからだろうか?小平はすぐに幼なじみの共産党員・金維映と結婚している。彼にとっては二度目の結婚だった。彼はふたたび戦争へ。
だが非現実的なことをしいるソ連派に嫌気がさして、小平は毛沢東の農民軍に参加するようになる。
現実から学ばなくては真実はみえてこない……。小平は毛沢東に急速に接近していく。
長 征
戦いは国民党軍の一方的優勢のうちに一年間続いた。長期包囲作戦のため、ソビエト区内の戦死者・飢餓者は百万人を越した。
一九三四年七月十五日、瑞金。
毛沢東ら共産党軍は、敗退し、会議を開いていた。毛は机をたたいて主張した。
「このままでは座して死ぬのみだ!
我々のとる道はただひとつ、敵の包囲網を破って、この江西根拠地から全軍撤退することだ!」
「しかし……コミンテルンからはソビエト政権地区を死守せよとの指令がきていますが…」 その部下の言葉を遮るように毛は、
「われわれはコミンテルンのために戦ってるのではない!われわれは中国解放のために戦っているのだ!」
と怒鳴りちらした。
「毛沢東同志、支持!」
そういって椅子から立ち上がったのは、誰あろう、革命に身を投じて毛と合流した小平そのひとであった。
小平、ときに二十九歳。
「おぉっ、小平同志」
「毛同志のいうとおり、我々は中国人民の解放のために戦っているのだ!!その解放のために着実に努力してきた!しかし、このままソビエト政権地区にとどまれば、敵軍にすべて蹂躙されてしまう!それをさけるために、紅軍は転進すべきだ!」
「そうだ」毛はいきまいて早口のままいった。「同志諸君、このままむざむざと解放の芽を踏み躙られてはならない!この解放の芽を守り、さらに中国全土にその花を咲かせるためには紅軍はあらたな転生の進軍に出動するのだ!」
こうして一九三四年、十月十六日。毛沢東以下約10万の紅軍主力は長征の第一歩をふみだすのだった。
国民党の包囲網を破って、瑞金から呉起鎮までの一万二千キロの進軍……この怒濤のような進軍こそが「長征」と呼ばれるものである。
そんな中、小平は「一度目の失脚」を味わうことになる。
「小平同志を政治局員から一党員に後格する」
毛沢東がソ連派幹部との政治闘争にやぶれたのだ。失脚にうちひしがれていると、妻・金維映から手紙が届いた。それは、あまりいいものではなかった。
「……私と別れてほしい……」
彼はダブル・パンチをうけた思いだった。妻・維映が自分にみきりをつけ、ソ連帰りのエリートのもとへ走ったのだ。妻を寝取られる…なんてこった!くそったれめ!
小平、ときに二十九歳…。それは、あまりにもつらい出来事だった。
父の死
「長征」の最中、小平のもとへ一通の電報が届いた。それはあまり好ましいものではなかった。
”父・文明 死ス”
小平の同志は息をのみ、小平をみつめた。しかし、彼はそれっきり表情を変えず、一言も喋らなかった。
彼は電報の紙をくしゃっとしてポケットにしまいこんだ。その目はまっすぐと前方をみていたが、どこかこわばった様子があって、同志は哀れみで胸が痛んだ。父親が!なんとむごい!しかし、小平は父親が死んだことについては、それほどショックも受けていなかったという。当然だ!きらいな父親が死んだ……ただそれだけだ。
「同志」彼の仲間は声をかけてきた。「すぐに故郷へ帰りたまえ」
彼は同志の方を向いた。「ありがとう」
「同志……大丈夫かね?」
はしばらく押し黙り、それからニヤリと皮肉な笑みをうっすら浮かべて
「あぁ、だいじょうぶ」といった。
その数日後の晩、小平と三番目の妻・卓淋は故郷へ帰った。中国の中央部分、四川省。そこの広安県協興郷牌坊村。
近所のひとが喋りあい、たがいの台所に出入りする、そういうところなのだ。
「ひさしぶりのわが家だ」
彼は皮肉たっぷりにいった。
家に入ると、弟の先治に案内されて、彼は棺おけが置いてある部屋までいくことができた。棺おけの中にはいっぱいの花がしきつめられて、その中央に死んだ彼の父親、文明が横たわっていた。
硬直した”デスマスク”。
それは、地主として生き、革命家として生き、そして死んだ父親の最期の表情だった。小平はこの父親に、自分だってやれるんだ、ということを見せたかったのかも知れない。だが、残念ながら遅すぎた。父親が彼の成功を認めることはもうないのだ。
失敗を咎めることも、息子のことを誇りに思うことも、もうないのだ。
農民の、地主の父親。ただの農民で、革命の夢ばかり追っていたと決め付けていた父親。しかし…。