また昨日の続きです。
このキャンプの本来の定員は千二百名。しかし、収容人数は三千人に達しようとしている。北アフリカ━━もっぱらリビア━━からの移民受け入れを縮小するとおいう方針が示されても、レイプや貧困、犯罪、ISISをはじめとする過激派組織の常軌を逸したイデオロギーによって国を追い払われた人々は続々とやってくる。(中略)
そのとき、誰かの声が聞こえて、ラニアの心をわずらわせていた思考は中断した。
「ぜひやりたいことがあるんです。お願いします」
振り返ると、アラビア語でそう話しかけてきた女性が立っていた。(中略)ああ、そうだ、ファティマだ。ファティマ・ジャブリル。後ろに夫もいた。夫の名前は、と少し考えて、思い出した。ハーリドだ。(中略)
「娘のムナです」
「ああ、そうでした━━すてきな名前ね」(中略)
「一つ教えてもらいたいことがあって来ました。トリポリでは医療関係の仕事をしていました。助産婦の資格を持っていて、解放後は看護師をしていました」(中略)
「このキャンプでも役に立ちたいんです。こんなに大勢いるし、お産を控えた妊婦もたくさんいる。病気の人もいます。やけどをしてる人も」(中略)
医療センターのあらましをファティマに説明しながら何気なくフェンスの外に目をやって、ラニアはふと身動きを止めた。
フェンスの向こうに集まった数百人━━記者、難民の家族や友人たち━━のなかに、一人ぽつんと立っている男がいた。影になったところに立っていて、顔はよく見えない。しかしラニアのほうをじっと見つめていることは間違いなかった。(中略)ラニアはその男の姿勢に何か不穏なものを感じ取った。(中略)
(中略)
「ガリーも眠気を感じたのは」サックスが言った。「薬が混ぜこまれたフリーダのワインを飲んだからね。フリーダのグラスからガリーのDNAが検出されてる」(中略)
ライムは言った。「検察の主張には一つ問題がある。フリーダの膣から採取されたDNAだ。ガリーのものとは一致しなかった」(中略)
ライムは言った。「いいか、エルコレ。ナターリアのアパートを捜索し直す必要がある。なかでも屋上の喫煙エリア周辺だ。ミスターXはそこでフリーダの動向をうかがいながらチャンスを待っていたのだろう。隣接する建物の屋上も捜索したい。ガリーの自宅アパートも調べたいな━━薬物の痕跡は、ガリーを陥れるための偽装だったのかどうか、確かめたい……たった二箇所、簡単な捜索をするだけだ。二時間もあれば終わるだろう。(中略)」(中略)
レイプ事件が起きたパーティの会場になったのは、ナポリのヴォメロ地区に建つアパートの一室だった。(中略)サックスはラテックスの手袋を着けて、強姦事件の現場とそこに至る道筋から砂利やタールのかけらのサンプルを集めた。(中略)
「あのビルは何?」(中略)
「ホテルですね」(中略)「そこにあるのは駐車場?」
「ええ、そうみたいです」
「この屋上とほぼ同じ高さね。あそこに監視カメラがないか、調べてみましょうよ。ちょうどこっちを向いてるかもしれない」
「ああ、いいアイディアです。(中略)あとで確認しておきます」(中略)
「残念でした、エルコレ。NVホテルに監視カメラは設置されてるけど、あいにく事件発生時には作動していなかったみたい。録画が残ってないって」(中略)
さあ、動け。
早く!
カビ臭い家のカビ臭い寝室で体を丸めていたステファンは、己に鞭(むち)打って体を起こすと、習慣に従ってまずラテックスの手袋をはめた。(中略)次に薬を口に入れた。オランザピン。十ミリグラム錠。医師たちは、試行錯誤の末、ステファンをもっとも“正常”な状態にできる薬剤はオランザピンだという結論に達した。(中略)
オランザピン。この“非定型”の━━または第二世代の━━抗精神病薬は、ふだんは威力を発揮する。しかし今日はどうにも落ち着かない。〈ブラック・スクリーム〉がステファンの思考の尻尾に食らいついて離れずにいた。(中略)
酒を飲む人間なら、一杯注ぐところだろう。
女好きなら、ベッドに女を連れこむだろう。
しかしステファンはそのいずれでもない。だから〈ブラック・スクリーム〉に対抗する唯一の手段に飛びつく━━新たなワルツの次の“志願者”を捜すことだ。(中略)
さあ、行けよ!(中略)
バックパックに黒い布のフードを入れた。クロロホルムを入れた密封の小袋、ダクトテープ、替えの手袋、猿ぐつわも。それに、忘れてはいけない。名刺代わりのもの━━チェロの弦で作った小さな首吊り縄。(中略)外に出て分厚いドアに鍵をかけ、古い四駆のメルセデスを車庫から出す。三分後には、荒れた田舎道を走り出していた。この先の自動車専用道路に乗れば、中心街まで行ける。(中略)
(また明日へ続きます……)
このキャンプの本来の定員は千二百名。しかし、収容人数は三千人に達しようとしている。北アフリカ━━もっぱらリビア━━からの移民受け入れを縮小するとおいう方針が示されても、レイプや貧困、犯罪、ISISをはじめとする過激派組織の常軌を逸したイデオロギーによって国を追い払われた人々は続々とやってくる。(中略)
そのとき、誰かの声が聞こえて、ラニアの心をわずらわせていた思考は中断した。
「ぜひやりたいことがあるんです。お願いします」
振り返ると、アラビア語でそう話しかけてきた女性が立っていた。(中略)ああ、そうだ、ファティマだ。ファティマ・ジャブリル。後ろに夫もいた。夫の名前は、と少し考えて、思い出した。ハーリドだ。(中略)
「娘のムナです」
「ああ、そうでした━━すてきな名前ね」(中略)
「一つ教えてもらいたいことがあって来ました。トリポリでは医療関係の仕事をしていました。助産婦の資格を持っていて、解放後は看護師をしていました」(中略)
「このキャンプでも役に立ちたいんです。こんなに大勢いるし、お産を控えた妊婦もたくさんいる。病気の人もいます。やけどをしてる人も」(中略)
医療センターのあらましをファティマに説明しながら何気なくフェンスの外に目をやって、ラニアはふと身動きを止めた。
フェンスの向こうに集まった数百人━━記者、難民の家族や友人たち━━のなかに、一人ぽつんと立っている男がいた。影になったところに立っていて、顔はよく見えない。しかしラニアのほうをじっと見つめていることは間違いなかった。(中略)ラニアはその男の姿勢に何か不穏なものを感じ取った。(中略)
(中略)
「ガリーも眠気を感じたのは」サックスが言った。「薬が混ぜこまれたフリーダのワインを飲んだからね。フリーダのグラスからガリーのDNAが検出されてる」(中略)
ライムは言った。「検察の主張には一つ問題がある。フリーダの膣から採取されたDNAだ。ガリーのものとは一致しなかった」(中略)
ライムは言った。「いいか、エルコレ。ナターリアのアパートを捜索し直す必要がある。なかでも屋上の喫煙エリア周辺だ。ミスターXはそこでフリーダの動向をうかがいながらチャンスを待っていたのだろう。隣接する建物の屋上も捜索したい。ガリーの自宅アパートも調べたいな━━薬物の痕跡は、ガリーを陥れるための偽装だったのかどうか、確かめたい……たった二箇所、簡単な捜索をするだけだ。二時間もあれば終わるだろう。(中略)」(中略)
レイプ事件が起きたパーティの会場になったのは、ナポリのヴォメロ地区に建つアパートの一室だった。(中略)サックスはラテックスの手袋を着けて、強姦事件の現場とそこに至る道筋から砂利やタールのかけらのサンプルを集めた。(中略)
「あのビルは何?」(中略)
「ホテルですね」(中略)「そこにあるのは駐車場?」
「ええ、そうみたいです」
「この屋上とほぼ同じ高さね。あそこに監視カメラがないか、調べてみましょうよ。ちょうどこっちを向いてるかもしれない」
「ああ、いいアイディアです。(中略)あとで確認しておきます」(中略)
「残念でした、エルコレ。NVホテルに監視カメラは設置されてるけど、あいにく事件発生時には作動していなかったみたい。録画が残ってないって」(中略)
さあ、動け。
早く!
カビ臭い家のカビ臭い寝室で体を丸めていたステファンは、己に鞭(むち)打って体を起こすと、習慣に従ってまずラテックスの手袋をはめた。(中略)次に薬を口に入れた。オランザピン。十ミリグラム錠。医師たちは、試行錯誤の末、ステファンをもっとも“正常”な状態にできる薬剤はオランザピンだという結論に達した。(中略)
オランザピン。この“非定型”の━━または第二世代の━━抗精神病薬は、ふだんは威力を発揮する。しかし今日はどうにも落ち着かない。〈ブラック・スクリーム〉がステファンの思考の尻尾に食らいついて離れずにいた。(中略)
酒を飲む人間なら、一杯注ぐところだろう。
女好きなら、ベッドに女を連れこむだろう。
しかしステファンはそのいずれでもない。だから〈ブラック・スクリーム〉に対抗する唯一の手段に飛びつく━━新たなワルツの次の“志願者”を捜すことだ。(中略)
さあ、行けよ!(中略)
バックパックに黒い布のフードを入れた。クロロホルムを入れた密封の小袋、ダクトテープ、替えの手袋、猿ぐつわも。それに、忘れてはいけない。名刺代わりのもの━━チェロの弦で作った小さな首吊り縄。(中略)外に出て分厚いドアに鍵をかけ、古い四駆のメルセデスを車庫から出す。三分後には、荒れた田舎道を走り出していた。この先の自動車専用道路に乗れば、中心街まで行ける。(中略)
(また明日へ続きます……)