マルコ・ベロッキオ監督・脚本の2019年作品『シチリアーノ 裏切りの美学』をDVDで観ました。
サイト「映画ウォッチ」のあらすじに加筆修正させていただくと、
「1980年9月4日、シチリアの都市パレルモ。
麻薬取引をめぐって抗争が激化したコーザ・ノストラのパレルモ派とコルレオーネ派。とある豪華なパーティに停戦した2つのファミリーが集結した。
表向きは穏やかにふるまっていたそれぞれの幹部だったが、“新旧世界のボス”と呼ばれるパレルモ派の大物幹部トンマーゾ・ブシェッタは不穏な空気を感じていた。
ブシェッタはその日のうちに、前妻との息子たちアントニオとベネデットを、長年の親友でありパレルモ派のボスでもあるピッポ・カロに預け、現在の妻クリスティーナを連れ、海外ビジネスの拠点であるブラジルのリオデジャネイロへ向かった。
ブシェッタの不吉な予感は的中した。彼が不在の間シチリアでは、冷酷無比なトト・リイナ率いるコルレオーネ派がパレルモ派の主要メンバーを次々に残虐な手口で抹殺していったのだ。
息子のアントニオとベネデットは行方不明。息子たちを託したカロとはなぜか連絡が取れない。彼は対決するコルレオーネ派へ寝返っていた。ブシェッタもイタリアに戻る決断を迫られた。
しかしそこへ突然リオデジャネイロの地元警察に踏み込まれ、ブシェッタは麻薬取引容疑で拘束され、拷問に会う。
1984年、ブラジルからイタリア政府へ身柄を引き渡されることになったブシェッタは、同年7月15日にローマに送還された。
サン・ヴィターレ警察署で出会ったジョヴァンニ・ファルコーネ判事は、捜査への協力を迫った。これに対してブシェッタは「私は改悛者でもなければ、密告者でも恥知らずでもない」とプライドで突き返した。
ファルコーネ判事はマフィア撲滅に人生を捧げたような男だった。ブシェッタは判事の聴取を受けるうちに畏敬の念を抱くようになった。さらには厳しい血の掟を守ってきたコーザ・ノストラが麻薬ビジネスで金儲けに堕落したことへの失望を告白するなど、判事に心を開いていった。
その後コルレオーネ派から狙われて、からくも逃れたトトゥッチョ・コントルノも捜査協力者となり、ブシェッタは腹をくくり、組織の凶悪犯罪の詳細をファルコーネに伝えていった。その供述から作られた調書は487ページにもおよんだ。
これを機にイタリアでは全土にわたってマフィアが一斉に逮捕された。コーザ・ノストラは司法当局に身を売ったブシェッタへの報復として、組織に属さない彼の親族までも殺害した。
1986年2月10日、コーザ・ノストラの幹部を裁く初公判が行われた。しかし野次や暴言が飛び交う法廷は大混乱となった。
同年4月3日、検察側証人として初めて出廷したブシェッタは「コーザ・ノストラに入ったときの精神と今も変わらない。彼らこそ改悛者です」と述べ、法廷内に設けられた檻の中から憎悪の目を向ける被告のマフィアたちへ対決姿勢を示した。この檻の中にはブシェッタのかつての親友でコルレオーネ派に寝返ったカロの姿もあった。
4月10日、ブシェッタはついにカロと直接対峙した。カロはブシェッタと知り合いではないとシラを切ったが、ブシェッタは二人が仲良く映っている写真を公開。すべての証言を終えたブシェッタはファルコーネと固い握手を交わし、アメリカで保護されている家族のもとへ発った。
大裁判は結審した。被告たちには重罪が言い渡され、カロには禁固23年と罰金2億リラが宣告された。
1990年代初頭、ブシェッタはアメリカ当局に保護され、米国国内の隠れ家を転々として暮らしていた。それは買い物や食事に出かけても、常にコーザ・ノストラの報復の影におびえる生活だった。
1992年5月23日、撃的なニュースが飛び込んできた。ファルコーネが高速道路に仕掛けられた爆弾によって殺害されたのだ。喜ぶ囚人たち。暗殺の首謀者コルレオーネ派の大ボス、トト・リイナはその翌年に逮捕された。
その後、ブシェッタはアメリカ某所でトトゥッチョと会った。彼もまたアメリカ当局に保護され車を売って細々と生計を立てていた。トトゥッチョは復讐の機会を狙って、近々シチリアへ帰ろうとしていることを打ち明けた。
時はさかのぼり若かりし頃のブシェッタ。16歳でコーザ・ノストラに入りボスに命じられた初めての殺しを何度も試みるが成し遂げられないブシェッタは相手の息子が結婚式で親元を離れたその夜、ついにミッションを達成した。この名もなき男は月光がさす中庭でひとり、すでに死期を知っているかのようにゆっくり煙草に火をつけた。そして突然現れたブシェッタの凶弾を浴びて静かに息絶えたのだった。
裁判では338人が有罪判決。
その後ブシェッタは穏やかに過ごし、願っていた通りベッドの上で最期を迎えたのだった。」
なかなか見ごたえのある2時間30分でした。
サイト「映画ウォッチ」のあらすじに加筆修正させていただくと、
「1980年9月4日、シチリアの都市パレルモ。
麻薬取引をめぐって抗争が激化したコーザ・ノストラのパレルモ派とコルレオーネ派。とある豪華なパーティに停戦した2つのファミリーが集結した。
表向きは穏やかにふるまっていたそれぞれの幹部だったが、“新旧世界のボス”と呼ばれるパレルモ派の大物幹部トンマーゾ・ブシェッタは不穏な空気を感じていた。
ブシェッタはその日のうちに、前妻との息子たちアントニオとベネデットを、長年の親友でありパレルモ派のボスでもあるピッポ・カロに預け、現在の妻クリスティーナを連れ、海外ビジネスの拠点であるブラジルのリオデジャネイロへ向かった。
ブシェッタの不吉な予感は的中した。彼が不在の間シチリアでは、冷酷無比なトト・リイナ率いるコルレオーネ派がパレルモ派の主要メンバーを次々に残虐な手口で抹殺していったのだ。
息子のアントニオとベネデットは行方不明。息子たちを託したカロとはなぜか連絡が取れない。彼は対決するコルレオーネ派へ寝返っていた。ブシェッタもイタリアに戻る決断を迫られた。
しかしそこへ突然リオデジャネイロの地元警察に踏み込まれ、ブシェッタは麻薬取引容疑で拘束され、拷問に会う。
1984年、ブラジルからイタリア政府へ身柄を引き渡されることになったブシェッタは、同年7月15日にローマに送還された。
サン・ヴィターレ警察署で出会ったジョヴァンニ・ファルコーネ判事は、捜査への協力を迫った。これに対してブシェッタは「私は改悛者でもなければ、密告者でも恥知らずでもない」とプライドで突き返した。
ファルコーネ判事はマフィア撲滅に人生を捧げたような男だった。ブシェッタは判事の聴取を受けるうちに畏敬の念を抱くようになった。さらには厳しい血の掟を守ってきたコーザ・ノストラが麻薬ビジネスで金儲けに堕落したことへの失望を告白するなど、判事に心を開いていった。
その後コルレオーネ派から狙われて、からくも逃れたトトゥッチョ・コントルノも捜査協力者となり、ブシェッタは腹をくくり、組織の凶悪犯罪の詳細をファルコーネに伝えていった。その供述から作られた調書は487ページにもおよんだ。
これを機にイタリアでは全土にわたってマフィアが一斉に逮捕された。コーザ・ノストラは司法当局に身を売ったブシェッタへの報復として、組織に属さない彼の親族までも殺害した。
1986年2月10日、コーザ・ノストラの幹部を裁く初公判が行われた。しかし野次や暴言が飛び交う法廷は大混乱となった。
同年4月3日、検察側証人として初めて出廷したブシェッタは「コーザ・ノストラに入ったときの精神と今も変わらない。彼らこそ改悛者です」と述べ、法廷内に設けられた檻の中から憎悪の目を向ける被告のマフィアたちへ対決姿勢を示した。この檻の中にはブシェッタのかつての親友でコルレオーネ派に寝返ったカロの姿もあった。
4月10日、ブシェッタはついにカロと直接対峙した。カロはブシェッタと知り合いではないとシラを切ったが、ブシェッタは二人が仲良く映っている写真を公開。すべての証言を終えたブシェッタはファルコーネと固い握手を交わし、アメリカで保護されている家族のもとへ発った。
大裁判は結審した。被告たちには重罪が言い渡され、カロには禁固23年と罰金2億リラが宣告された。
1990年代初頭、ブシェッタはアメリカ当局に保護され、米国国内の隠れ家を転々として暮らしていた。それは買い物や食事に出かけても、常にコーザ・ノストラの報復の影におびえる生活だった。
1992年5月23日、撃的なニュースが飛び込んできた。ファルコーネが高速道路に仕掛けられた爆弾によって殺害されたのだ。喜ぶ囚人たち。暗殺の首謀者コルレオーネ派の大ボス、トト・リイナはその翌年に逮捕された。
その後、ブシェッタはアメリカ某所でトトゥッチョと会った。彼もまたアメリカ当局に保護され車を売って細々と生計を立てていた。トトゥッチョは復讐の機会を狙って、近々シチリアへ帰ろうとしていることを打ち明けた。
時はさかのぼり若かりし頃のブシェッタ。16歳でコーザ・ノストラに入りボスに命じられた初めての殺しを何度も試みるが成し遂げられないブシェッタは相手の息子が結婚式で親元を離れたその夜、ついにミッションを達成した。この名もなき男は月光がさす中庭でひとり、すでに死期を知っているかのようにゆっくり煙草に火をつけた。そして突然現れたブシェッタの凶弾を浴びて静かに息絶えたのだった。
裁判では338人が有罪判決。
その後ブシェッタは穏やかに過ごし、願っていた通りベッドの上で最期を迎えたのだった。」
なかなか見ごたえのある2時間30分でした。