海外のニュースより

政治・経済・社会の情勢について書かれた海外の新聞や雑誌の記事を選んで翻訳しています。

「日本の陰の将軍、小沢一郎」と題する『フォーリン・ポリシー』の論説。

2009年09月02日 | 国際政治
(前略)
1990年代初め、小沢は、自民党の利益誘導型政治に失望した。彼は日本の安全保障政策を「正常化」すること、つまり、日本の国外での軍事的参加を弁護し始めた。何よりもまず、彼はこの国にはもっと活力のある民主主義が必要であり、政党が最善の政策を作ることによって投票を競い合うことが必要だと確信した。小沢は、彼の考えを共有する同士の一群を集めた。
小沢は内閣に入らなかったが、短命だった非自民党政府のキー・パーソンだった。彼は脆弱な連立政権を舞台裏から支えた。彼は『新しい日本の青写真』を公刊した。それは選挙法改正とより積極的な外交政策と防衛政策とを要求する高度に影響力のあるマニフェストだった。
「青写真」を実現するため、彼は90年代の間中、安定して強力な野党を作ろうと努力した。彼は「新進党」の創立を助けた。この党は、1997年に解散するまで、一度だけ普通選挙を競った。次に彼は「自由党」を支持した。それは自民党と連立したが、政治的な牽引力はなかった。
最後に、小沢の自由党は、2003年に未熟な民主党と合同した。彼はこの党を騙して中心に食い込み、さまざまなイデオロジーをもった党員の間で外交政策について合意を作り上げ、事務局に将来性のある候補者を募集した。長い間の自民党の支持者に訴えるために、党の農業政策を大きくした。2006年から今年春まで、彼が党代表を務めた三年間に、民主党は規律があり、よりはっきりした目標をもった政党になった。
この彗星のような政治的経歴のせいで、小沢は、問題の多い評判を得た。彼は右から左まで敵には不足してない。政治家や評論家の多くは、彼のマキャヴェリ風の振る舞いや秘密主義のせいで彼を嘲っている。彼は自分の決断の背後にある推論を説明することはめったにせず、信奉者たちが彼の指導を無条件に信じるものと思っている。悪名高いのは、2007年には、彼が多くの民主党の上位のメンバーに相談しないで、自民党と大連立をしようという話し合いをしたことである。
他の人たちは、小沢が政策よりも政治により神経を使う点を非難している。小沢は田中角栄の副官だった時代から変わっていないということである。つまり、彼は権力をどう使うかを考えるよりも、権力を奪取することにもっと興味があるということだ。彼の批判者たちの激しい憎しみと信奉者たちの同様に激しい忠誠とは、結びついている。小沢はインタービューをすることが少なく、舞台裏で仕事をしているから、彼には不可解さの雰囲気が付き纏っている。(後略)
[訳者のコメント]筆者は、トビアス・ハリスという人です。小沢一郎という政治家がどういうタイプの政治家かよくわかって書いていると思いました。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「失われた知識を追い求める... | トップ | 「駐アフガン米国大使館、警... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

国際政治」カテゴリの最新記事