海外のニュースより

政治・経済・社会の情勢について書かれた海外の新聞や雑誌の記事を選んで翻訳しています。

「カリカチュアは、モスレムの間に民主主義論争を引き起こしている」という『ヴェルト』の記事。

2006年02月15日 | 国際政治
イスタンブール発:カリカチュア騒動における最初のイデオロギー的な衝突の後で、あちこちで、より繊細な議論が際だっている。イスラム諸国では、より憂慮した声が声高になりつつある。彼らは、自分の国の独裁政治や政治家の腐敗に対して抗議する勇気を奮い起こすことは稀であるのに、なぜ何百万ものイスラム教徒が数枚のカリカチュアのために街頭に繰り出す用意があるのかと問う。
答えは、一見簡単である。とのような独裁政治に反対するようなデモは、治安部隊によってたたきのめされるが、手にレシーバーを持った、同じ治安部隊がカリカチュアに抗議するデモ隊を自分で組織したからである。
かなり多くのアラブ系新聞や特にウエッブログに見られるカリカチュアによって引き起こされた憂慮は、注目すべき知的な抗議である。その間に、多くのイスラム教徒がカリカチュアを見た。ヨルダン、イェーメン、エジプト、アルジェリアのいくつかの新聞は、カルカチュアをリプリントした。そのために、編集長が告訴され、首になった。しかし、特にカリカチュアは、イターネット上のアラビア系のブログで見ることができ、そこで何百万回もしげしげと見られた。一万人のインターネット利用者がそれをイーメイルを使って互いに送りあった。
レバノンの新聞『アス・サフィール』には、同国のシーア派のイスラム教徒75万人がデモをした後で、アリ・マフディと名乗る読者の手紙が掲載された。「われわれがカリカチュアに対して抗議するために、これらの連帯を目にしている。まるでこれらのカリカチュアだけが予言者ムハンマドを侮辱したかのように。一体不正義や拷問や文盲や自由の制限は予言者に対する侮辱ではないのだろうか?」印刷されたメディアは、たいていのアラブの国々では検閲を受けるから、このような読者の手紙は、大胆さの限界である。これに対して、インターネットでは、エジプト人ブロッガーによる「愚かな行動に反対するキャンペーン」が形成された。あるイスラム教徒の読者がイスラム教を平和と知識と民主主義の宗教として西欧にも広めることが重要であると彼を非難したとき、彼の答えはこうだった。「それは、確かだ。だが、われわれ自身の国からそれを広め始めるべきだ。一体、どのイスラム国が民主制なのか?」
「愚行に反対するモスレムの革命家達に属しているのは、「エジプトに自由を」というブログを管理する一女性である。「イスラム教徒は、腐敗した政府が彼らの金を盗み、彼らを悲惨に追いやっているときに、あるいは毎日搾取されている何百万もの子供達がいるときに、なぜこのように激昂しないのか?」そしてなぜ法律に守られた自由のなかの生活のためにイスラム教徒はデモをしないのか?
もう一つのエジプトのブロッガーは、「万人のための正義」というウエッブサイトを管理している。彼は次のように書いている。「警察の車が私のそばを通るたびに、怖じ気づくとしたら、預言者を賛美するために何百万もの手紙を書くことが何の役に立つのか?」
これらのブログの中の最も目立つものは、文化の対話の場所になった。それはこれまでカリカチュア論争において欠けていたものである。何百もの西欧とイスラムの読者は、書き込みに反応した。必ずしもいつも理解が成り立ったわけではないが、イスラム教徒には、民主主義理解と寛容を、西欧の読者には他の宗教に対する尊敬を要求する対話が展開される。
ロンドンで出ている汎アラブ主義の新聞『アル・ハヤト』のコラムニストであるジハド・アル・カーゼンは、カリカチュア論争のパラドックスを指摘する。彼が遺憾とする点は、「十億のモスレムが皆カリカチュアは、彼らを侮辱していると考えているが、民主主義というテーマについては、それと比較できる同意は存在しない。民主主義なんて西欧の産物だと非難する者が多い」ことである。
[訳者の感想]最後のアル・カーゼンの指摘するパラドックスは、ある意味でイスラム世界のパラドックスではないでしょうか。民主主義が西欧の産物であってイスラム教国には相応しくないと考えている限り、西欧とイスラム世界との間に、本当の理解は成り立たないように思われます。
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