海外のニュースより

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「ムスリムの味方は、無神論者」と題するジージェクの論説。

2006年03月14日 | イスラム問題
ロンドン発:何世紀もの間、われわれは宗教がなかったら、われわれは自分の分け前をもとめて争う利己的な動物以上のものではないと言われてきた。宗教だけがわれわれを精神的なレベルへと高めることができると言われた。宗教が世界中で殺人的な暴力の源泉であることが明らかになりつつある今日、キリスト教やイスラム教やヒンズー教の原理主義者達は、彼らの信仰の高貴な霊的メッセージを悪用し、転倒している。ヨーロッパの最大の遺産であり、恐らく平和のためのわれわれのただ一つの機会である無神論の尊厳を回復するのはどうだろう?
 一世紀以上前に、『カラマゾフの兄弟』や他の作品で、ドストエフスキーは、無神論的な道徳のニヒリズムの危険に対して警告した。もし、神が存在しないとしたら、一切がゆるされている。フランスの哲学者アンドレ・グリュックスマンは、ドストエフスキーの無神論的ニヒリズムの批判を、9.11事件に応用した。『マンハッタンのドストエフスキー』という彼の著書の表題は、そのことを示唆している。
 この主張は間違っているとは言えないだろう。今日のテロリズムの教訓は、もし神が存在するとしたら、何千人もの罪のない第三者を吹き飛ばすことを含めて何でも許されているということである。少なくとも神のために直接に行動していると主張している人たちにとっては、神との直接の結びつきが暴力行為を正当化するがゆえに、何でも許されている。要するに原理主義者達は、無神論的なスターリニストの共産主義者と違わなくなった。彼らにとって、すべてが許されていたわけは、彼らが自分自身は彼らの「神」、つまり、「共産主義に至る過程の歴史的必然性」の直接の道具であると見なしたからである。
 聖王ルイに率いられた第七回十字軍の遠征中、イーヴ・ル・ブルトンは、次のような出来事を報告している。彼は右手に火の燃える鉢を持ち、左手に水の一杯入った鉢を持って通りを下ってくる老婆に出会った。なぜ二つの鉢を持っているのかと聞かれて、彼女は次のように答えた。右手の火で、私は天国を何も残らないほど燃え上がらせるだろう。だが左手の水で、私は地獄の火を、何も残らないほど消すだろうと。「なぜならば、私は誰も天国の報酬を受け取るために、あるいは地獄を恐れて、善をして欲しくない。ただ、神に対する愛からだけ、善をして欲しい。」今日、このキリスト教的なスタンスは、たいていは無神論の中で生き続けている。
 原理主義者達は、神の意志を満足させ、救いをえるために、善行だとみなすことをしている。無神論者達が善行をするのは、それが正しいことであるからである。これは道徳性についてのわれわれの最も基本的な経験ではないだろうか?私が善行をする場合、私は神に気に入られるためにそうするのではない。私が善行するのは、もしわたしがそれをしなければ、私は鏡の中の自分を見ることができないからである。道徳的行為は、定義によるとそれ自身が報酬である。神を信じていたデービッド・ヒュームが、「神に本当の尊敬を示す唯一の仕方は、神の存在を無視しながら、道徳的に行為することである」と述べたとき、彼は非常に感動的な仕方で、このことを強調したのだ。
二年前、ヨーロッパ人は、ヨーロッパ憲法の前文がヨーロッパの遺産の鍵となる構成要素そとしてキリスト教に言及するべきかどうか議論していた。いつものように、妥協が図られ、ヨーロッパの「宗教的遺産」という形で言及されることになった。だが、ヨーロッパの最も貴重な遺産である無神論は、どうなったのか?近代ヨーロッパをユニークにしているのは、そこでは無神論が完全に合法的な選択であって、いかなる公職に対しても障害ではないことになった最初の唯一の文明であると言うことである。
 無神論は、そのために戦う値打ちがあるヨーロッパの遺産の一つである。それが信者に足して安全な公共的空間を作り出すからではない。憲法論争が沸騰したとき、私の祖国であるスロベニアの首都リュブリアナで、荒れ狂った議論を考えて欲しい。「(旧ユーゴスラビアからの移住者である)モスレムに、モスクを建てることを許すべきか」という議論である。保守派は、文化的政治的建築的理由まで持ち出して、モスク建設に反対した。リベラルな週刊誌『ムラディナ』は、終始一貫、モスク建設に賛成の意見を表明し続けた。他の旧ユーゴスラビアからの移住者の権利に対する配慮も持ち続けた。
 驚くべきことではないが、『ムラディナ』は、ムハンマドの風刺画を印刷した数少ないスロベニアの刊行物の一つだった。そして、反対に、これらの風刺画に対するモスレムの暴力的な抗議に対して最大の「理解」を示したのは、ヨーロッパにおけるキリスト教の運命に常々関心を示す人たち(例えば、ローマ教会の枢機卿)だった。
 これらの奇妙な同盟者は、ヨーロッパのモスレムに困難な選択を迫る。彼らを二級市民に格下げせず、彼らが宗教上のアイデンティティを表現する余地を認める唯一の政治的勢力は、「神を信ぜぬ」無神論的リベラルであるが、モスレムの宗教的社会的実践に最も近いのは、彼らの最大の政治上の敵である。パラドックスは、モスレムの唯一の同盟者は、ショックの価値のために、風刺画を最初に印刷した保守派ではなくて、表現の自由の理想のためにそれをリプリントした人たちである。
 本当の無神論者は、信者を冒涜によって挑発することによって自分自身のスタンスを強調する必要がなかったが、彼はムハンマドの風刺画の問題を他人の信仰に対する尊重の一つに還元することを拒んだ。最高の価値として他人の信仰を尊重することは、二つの事物の内の一つしか意味しない。つまり、われわれは他人をパトロン的な仕方で扱い、彼の幻想を壊さないように彼を傷つけることを避けるか、あるいは、多元的な「真理体制」という相対主義的スタンスを取って、真理に対するどんな明確なスタンスも暴力的な押しつけとして拒否するかどちらかである。
 しかしながら、すべての他の宗教と一緒に、イスラム教を敬意に満ちた批判的分析に従わせるのはどうだろうか?これだけが、イスラム教徒に本当の敬意を示す道である。つまり、彼らを彼らの信仰に対して責任を持った真剣な成人として扱う道である。
[訳者の感想]スラヴォイ・ジージェクは、バークベック大学の「人文学研究所」の所長です。無神論的リベラルだけが、イスラム教徒に対して寛容であり得るという主張だと思います。しかし、大多数のイスラム教徒にとっては、キリスト教徒も無神論的リベラルもどちらも信仰の敵だということになるのでしょうが。ジージェクの論文の中では珍しく論旨が分かりやすいと思いました。
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