海外のニュースより

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「東京の素晴らしい味」(シドニー・モーニング・ヘラルドの掲載記事)

2005年02月16日 | 日本文化
オーストラリアの新聞『シドニー・モーニング・ヘラルド』紙2005年2月11日号の旅行欄に載せられた記事から。
現在、東京と呼ばれている江戸は、徳川家康が将軍になったことで、事実上日本の首都になった。江戸っ子達の胃袋を満足させたのは、「そば」と「寿司」と「ウナギの蒲焼き」と「天ぷら」だった。今日の東京の町を歩くと、この和食の四天王のルーツが分かるだろう。
江戸時代、庶民は、下町に住んでいた。江戸っ子の半分は、商人か労働者か職人だった。住まいは、ごみごみした町の中にあり、通りは徒歩で行き交う人々で混み合っていた。(江戸は、1750年には人口100万人で、当時のロンドンやパリをしのいでいたのだ。)
いわゆる江戸っ子達は、一生懸命働いたが、同時にレジャーを求める人たちだった。彼らは稼いだ金はその日の内に使ってしまう癖があり、朝晩は家で食事をするが、昼は外食をするのが常であった。驚くべきファースト・フード文化はここで生まれたのだ。酒屋で一杯引っかけた後で彼らは「そば」を流し込んだ。「天ぷら」は、串ざしされた。「寿司」は、堅く握られた後、一瞬で呑下された。焼かれたウナギは、酷暑の夏には、精をつけるために食べられた。
「うどん」は既に京都では人気があったが、「そば」は、1664年に江戸の屋台で売られたのが始まりとされている。
ウナギは、江戸で醜い魚から見事な魚に変身した。今日では、浅草と両国にウナギ専門店が集まっている。5月から11月にかけて、地方の川で捕られたウナギは、栄養価に冨み、暑い夏に元気がなくなった労働者に元気をつけさせた。
江戸前の蒲焼きは、背開きされ、たれをつけて焼かれる。前後に蒸される。ウナギの油は、分解され、柔らかい肉が残る。タレは、醤油とミリンを合わせたもので砂糖は加えない。山椒が付け合わされるが、それは、レモングラスのような匂いがする。「ウナギの蒲焼き」は、変わることなく単純で並はずれた料理だ。
もう一つの江戸の発明は、ファースト・フードの「握り寿司」である。発明者は、1824年頃、両国に住んでいた「花屋与兵衛」だと言われている。当時、江戸湾には魚が沢山いたし、白米は、一般的になりつつあった。「すぐできる」ということは、気の短い「江戸っ子」にとってはキーワードだった。実際、それ以前の1000年ほどの間、「寿司」は、できるまでに一番時間のかかる食べ物だった。「すし」は、もともと塩をたっぷり振りかけた魚をご飯の間に挟み込んで、6ヶ月から2年間寝かせたものを意味した。米がゆっくり発酵することによって、魚を長期間保存することができた。
「天ぷら」だけは、ポルトガル人によって練り粉をつけた魚として、長崎からやってきたのだが、それを大衆的料理にしたのは江戸である。江戸っ子は、江戸湾で採れた魚をごま油で揚げ、焼き串にさして、屋台で売った。江戸時代からの伝統を誇る店が、まだ三つか四つある。彼らの最善の献立は、江戸前の(東京湾で採れた)クルマエビとホタテ貝とニベ(whiting)である。
東京は、最近、開府400年祭を祝ったがこの都市を偉大にしたもののリストにはこの四種類の料理が含まれる。それは今や日本(を宣伝する)大使なのだ。
訳者注[この後に、東京の代表的な「そばや」さん、「うなぎ屋」さん、「寿司屋」さん、「天ぷら屋」さんの名前が、6軒、住所と電話つきで列挙されていますが、店の名前を日本語で誤記する可能性があるので、やめておきます。著者は寿司を「ファースト・フード」だと言っているが、日本人の感覚から言えば、そんな安物料理ではなくて、店によっては高級料理ではないでしょうか。原文に書いてあるwhitingというのは、何という魚か、ご存じの方は、「コメント」で教えて頂けると有り難いです。]


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