海外のニュースより

政治・経済・社会の情勢について書かれた海外の新聞や雑誌の記事を選んで翻訳しています。

「中国警察は、最近の暴動の後、村民を屈服させる」と題する『ワシントン・ポスト』紙の記事。

2005年12月22日 | 中国の政治・経済・社会
中国・汕尾発:発砲と流血で頂点に達した抗議から二週間経って、東州村の反抗的な農民と漁民は、屈従するように強いられている。当局は、海岸の村を立ち入り禁止にし、その道路と小路は警察のパトロールであふれていると住民は言った。不明の数の男達は、ドアのノックで召喚され、尋問のため家から引きずり出された。
その結果、12月6日に数千名の村民を暴動警察と武装警察との衝突へと導いた抵抗の精神は、恐怖と胸騒ぎと反感に置き換えられた。村落の内部では、普通の生活は中断させられた。今週月曜日に到着した外部の人間は、障害物のところで警察によって停止させられた。そこには、「立ち入り禁止」の表示がされていた。
電話で連絡のとれた村民の話では、「われわれはもはや家から外には滅多に出られない。」警察が四六時中村の中をパトロールをしているので、「他の村人と話すことは滅多にない。われわれが集まると、彼らが何らかの理由でわれわれを逮捕することを恐れている。」
香港の北東、125マイルにある汕尾市の南東に位置する東州村は弾圧の波を被っている。汕尾市の役人は、隣人達を暴動へとそそのかせた「首謀者」であると見なした三人の男に注目している。三人は、12月9日以来、拘留されている。
捜査開始後、警察は、典型的なやり方で彼らの隣人を密告する意志のある者に褒賞を払っている。抗議者達は拘留され、暴動の最中の犯罪的行為を認めるように尋問者の手で激しい苦痛を加えられていると述ている。
 東州村とその周辺地域を管轄している汕尾市役所は、村民に対する公共サービスを改善すると約束したが、暴動の原因となった議論に関しては何らの譲歩も見せなかった。役人は、繰り返し、街頭のスピーカーを通じて、警察に協力し、行政を信頼し、抗議の指導者に惑わされないようにとのメッセージを流した。
白い乗用車に乗った警官は、チェック・ポイントに止まって、住民が村をを離れたり、他の住民が村に張り込むのを妨げている。街路は非武装警官の少人数のグループによってパトロールされている。彼らの使命は明白である。巨大な赤い横断幕が東州村のメイン・ストリートに掲げられた。それには「犯罪分子を厳しく処罰し、正常な社会秩序に戻れ!」と書かれている。
何年間も、国家の権威に挑戦する人たちに対する容赦ない迫害は、反政府運動の展開を妨げてきた。だが、国家に対する忠誠心は、最近、農民の間で減退し、抑圧的な戦術はあまり効果がなくなってきた。それでも地方的な暴動に対する挑戦に限られてきた。
国家公安局は、暴動の数は中国では増大し、2004年には7万件に登ったということを認めた。東州村の暴動が際だった理由は、警察が銃を使用した点にある。
電話で連絡できた目撃者によると、東州村で殺された人の数は、10人から20人に達する。市当局は最初、12月6日には、警察が銃を使用したことを否定した。次に市当局は、12月10日の声明では、警察が警告のために銃を発射し、偶然に3名が死んだと述べた。
中国の反体制派は、東州市の事件を1989年の天安門事件と比べたがる。だが、違いは大きい。東州村では、人民武装警察は、軍と役人の命令の下で、国家の指導なしに、配置された。これに対して、天安門事件では、人民解放軍は数千人を殺した。更に東州村の抗議者は、中国の政治生活の真ん中で自由の女神の像の周りに集まった学生ではない。彼らは、人口4万人の村にある警察に火炎瓶を投げつけた農民であった。
にもかかわらず、類似性がある。両方の出来事の公式バージョンは、反政府の首謀者を非難し、党や政府の指導者が重大な決断をして、それが暴力につながった。年長の共産党員のキャリアに影響を及ぼした。
中国人の情報源によると、市政府は、危機の初めから省政府の役人と緊密な連絡を取っていた。12月6日の発砲事件の後、広東省の省長であるチャン・デジャヤンは、汕尾市に出かけ、12月8日には指揮をした。
東州村の村民は、一年以上前から、彼らの土地の収用について苦情を述べていた。汕尾市の役人は、大規模な発電所建設のために、水田を売却し、その補償は不釣り合いに少なかった。村民は汕尾市の役人が腐敗していると考えている。(以下省略)
[訳者の感想]東州村の暴動について、天安門事件との相違点や類似点がの述べられていて面白いと思いました。地方官僚の腐敗が背後にあるようです。
コメント (3)
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