海外のニュースより

政治・経済・社会の情勢について書かれた海外の新聞や雑誌の記事を選んで翻訳しています。

「普通でないたぐいの民主主義」と題する『ワシントン・ポスト』紙の6月20日の記事。

2005年06月21日 | 中国の政治・経済・社会
定州発:知り合いが5月19日の朝李・フチェンの小さなスナックの店に立ち寄って、思いがけず50ドル相当のお金を渡したとき、李・フチェンは、お好み焼きを作っていた。
そのお金は中国東部のこの農村の経済ではかなりの額だった。李は引き換えに何かが期待されていることを知っていた。取引の対象は、次の日の村の選挙での彼の家族の投票だった。
彼の友人は、「こういう風に投票してくれ」と言って、彼に候補者のリストを手渡した。その朝起こったことについての李の話は、地方の共産党幹部と彼らの村の新しい指導者を欲する農民達のグループの間の酷い争いの一部となった。李のお好み焼きの店での投票買収は、農民達の主張によれば、党の指導層と一致する人たちが定員7名の評議会に選ばれることを確実にするために何千ドルもが費やされたキャンペーンの中の一つのエピソードに過ぎない。
定州における暴動、北京の南320キロにあるジンアン市の郊外にある人口3,200人の村は、中国が経済的発展をその主な使命にする場合に、農民の間の支持を得ることが共産党にとってどれほど困難であるかを象徴している。対立は、また、政府が草の根の民主主義と表現しているが、地方の共産党支部や伝統的幹部がしばしばコントロールしている中国の農村の選挙の限界を劇的にしている。
選挙は、実験が1987年に始まって以来、70万の村で行われてきた。過去10年間に村は、いくつかの委員会を選挙した。だが、農民達は普通でない種類の民主主義について述べている。彼らの言うところによると、投票は、共産党書記のジン・ヤンシによって組織され、彼の手下の一人が投票箱を家から家へと運んでいき、村人に投票用紙を手渡して箱に入れさせるのである。
村の委員会が従順であることを確信しているので、ジンは、新しいビルを建てるために、定州の耕された土地を8百万平方メートルから160万平方メートルまで減らした。1990年代に、100家族の農民が土地を失い、代価としてたった1万円を得た。彼らの畑の代わりに、石切場と私立の高等学校が作られた。
彼自身の4800平方メートルの土地でトウモロコシや小麦を植えたチャンは、彼と他の農民のグループが2000年の夏に石切場へ行き、農地の喪失に抗議して壁を引き倒した。同時にチャンは、村の選挙が秘密の投票箱によって組織され新しい指導者が選ばれることを要求した。
「われわれは土地を護ることを望んだが、彼らは土地を発展させようとした。それがジンや彼の支持者達がわれわれを権力の中に入れようとしなかった理由だ」とチャンは言う。
ジンと彼の家族は何年も村を運営した。彼の従兄弟は、十年以上も党書記であり、ジンは彼の代理であった。ジンは、1996年に従兄弟が死ぬと、党書記になった。
チャン達のアジテーションによって、2002年4月の選挙では、投票所は、集会所に移された。郡の責任者は、「今度は、法律に定められた通り、投票は秘密である」と言った。しかし、チャンや他の村人は、誰も投票しないのに、投票箱は半分投票用紙で一杯だったとチャンは言う。抗議のため、村人達は手続きをボイコットし、選挙は無効であると宣言されねばならなかった。
2002年にジンは党書記を辞めさせられた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする