ロシアの民衆は、ゴルバチョフよりも、エリツィンを信じた。彼は民衆の一人だった。彼は酒を飲み、思っていることを口に出した。だが、それは全くの錯覚だった。われわれは身体的な巨人を政治的巨人と取り違えた。民衆に民主主義を与えるために、彼は何でもやった。その後で彼は民衆に背を向けた。国民がその蓄えを失った経済改革のショック療法の意味を誰も人々に説明しなかったが、それは国民を憤激させた。
旗をなびかせながら、民衆は、共産主義者やジリノフスキー型の煽動的なナショナリストに走った。改革派には、内心ロシアの民衆を馬鹿者の集まりだと説明する以外にましなことは思いつかなかった。民衆に落胆して、改革者達は、むしろ自分の物質的繁栄を心配した。他方でチェチェン戦争に首を突っ込んだエリツィンは、オリガルヒやチェキスト達に味方を求めた。彼が彼の大統領職の終わりまで、ロシアのメディアの自由に手を触れなかった点は高く評価されるべきだ。
今日、1990年代の混乱の時代を振り返ると、どれほど多くのチャンスが見逃されたかが分かる。時間が経つほど、それだけナイーブなゴルバチョフの高貴さがエリツィンの間抜けさ加減が明らかになる。民衆は、強力な手腕を、法と秩序とを希求し始めた。
エリツィンが政治的に瀕死だったとき、彼はプーチンを自分の個人的安全を保証する人物だと感じた。自分自身の保護ばかり考えていたエリツィンには、もはや国のことは念頭になかった。ソビエト時代、KGBは、巧みにソビエトの秘密警察は、国家の最良の息子であるという神話を世界中に広めた。民衆はプーチンの中に、この神話の権化を見た。
プーチンの下での7年間の政治の後で、今日、大統領の長所と弱点は、彼が分析家である点にあるように見える。分析家プーチンの長所は、複雑で矛盾した現象を合理的に把握する用意がある点にある。彼は、ロシアの民衆と多くの共通した性質を持っている。それは強い国家権力、強力なロシアに対する信念、あらゆる役立つものを西欧から引き継ごうとする努力、だが、その際、自分のロシア魂を売らないでおくという性質である。古いチェキストの学校に多くを負っているプーチンの分析は、ロシアの価値や利害とは区別される価値や利害の防衛が問題になる場合には、陰謀や挑発をかぎつけがちである。
結局、ロシアの官僚的保守主義の伝統では、禁止政策が健全な常識に打ち勝つ。従順な議会は、急いですべてに「ニエット(否)」と言う。知事の自由な選挙であれ、カジノの禁止であれ。自由は常に恣意や、違った考えと同一視される。高い原油価格は、確かに経済の安定に貢献すが、中国やインドで見るように、生産の発展には貢献しない。ロシアの労働者が冷静に非常に動機づけられて工場でコンピューターを組み立てることを想像するのは難しい。国家権力は、選挙民に愛国主義を呼びかけることによって、ただ、外面的にしか選挙民をコントロールできない。共通の国民的理念が欠けているから、選挙民は、自分たちの利己的な利害の中に取り込まれており、排他的な性格を持っている。この国は、民主主義的な道からは外れ、円を描いて動いている。
この円環の中には、恐怖の塊がとぐろを巻いている。人口上の破局、拙劣な医学的看護、「デドウシュチーナ」、酒浸り、麻薬中毒、老人の貧困、外国人嫌いなどなど。
だが、肯定的な契機もある。プーチンのロシアにおける重要な功績は、中間層の成立である。そのことを証言しているのは、大量の建築と外国旅行である。最後にだれが勝利を担うのか。社会の近代化の象徴である中間層か、それとも、より貧困な社会階層の古くさい意識の怠慢さか。真の権力政党か、それとも腐敗した官僚階級か。
このことに、ロシアの未来が懸かっているだけでなく、ロシアの未来の存在が懸かっている。私の国の未来は予言できないのに、過去の教訓は明白だ。20年前には、ロシアは、正しい選択をした。しかし、自由に至る複雑な道の途中で、それは、残念ながら自分の両足に気付いた。
[訳者の感想]最近のロシアの情勢が知りたくて、このヴィクトル・イェロフェーエフの論説を訳してみました。「自分の両足に気付いた」というのは、過去のロシアの非民主的で個人の自由を認めない伝統のことを言っていると解釈しました。この論文は、日本人にとっても教訓的であると思います。
旗をなびかせながら、民衆は、共産主義者やジリノフスキー型の煽動的なナショナリストに走った。改革派には、内心ロシアの民衆を馬鹿者の集まりだと説明する以外にましなことは思いつかなかった。民衆に落胆して、改革者達は、むしろ自分の物質的繁栄を心配した。他方でチェチェン戦争に首を突っ込んだエリツィンは、オリガルヒやチェキスト達に味方を求めた。彼が彼の大統領職の終わりまで、ロシアのメディアの自由に手を触れなかった点は高く評価されるべきだ。
今日、1990年代の混乱の時代を振り返ると、どれほど多くのチャンスが見逃されたかが分かる。時間が経つほど、それだけナイーブなゴルバチョフの高貴さがエリツィンの間抜けさ加減が明らかになる。民衆は、強力な手腕を、法と秩序とを希求し始めた。
エリツィンが政治的に瀕死だったとき、彼はプーチンを自分の個人的安全を保証する人物だと感じた。自分自身の保護ばかり考えていたエリツィンには、もはや国のことは念頭になかった。ソビエト時代、KGBは、巧みにソビエトの秘密警察は、国家の最良の息子であるという神話を世界中に広めた。民衆はプーチンの中に、この神話の権化を見た。
プーチンの下での7年間の政治の後で、今日、大統領の長所と弱点は、彼が分析家である点にあるように見える。分析家プーチンの長所は、複雑で矛盾した現象を合理的に把握する用意がある点にある。彼は、ロシアの民衆と多くの共通した性質を持っている。それは強い国家権力、強力なロシアに対する信念、あらゆる役立つものを西欧から引き継ごうとする努力、だが、その際、自分のロシア魂を売らないでおくという性質である。古いチェキストの学校に多くを負っているプーチンの分析は、ロシアの価値や利害とは区別される価値や利害の防衛が問題になる場合には、陰謀や挑発をかぎつけがちである。
結局、ロシアの官僚的保守主義の伝統では、禁止政策が健全な常識に打ち勝つ。従順な議会は、急いですべてに「ニエット(否)」と言う。知事の自由な選挙であれ、カジノの禁止であれ。自由は常に恣意や、違った考えと同一視される。高い原油価格は、確かに経済の安定に貢献すが、中国やインドで見るように、生産の発展には貢献しない。ロシアの労働者が冷静に非常に動機づけられて工場でコンピューターを組み立てることを想像するのは難しい。国家権力は、選挙民に愛国主義を呼びかけることによって、ただ、外面的にしか選挙民をコントロールできない。共通の国民的理念が欠けているから、選挙民は、自分たちの利己的な利害の中に取り込まれており、排他的な性格を持っている。この国は、民主主義的な道からは外れ、円を描いて動いている。
この円環の中には、恐怖の塊がとぐろを巻いている。人口上の破局、拙劣な医学的看護、「デドウシュチーナ」、酒浸り、麻薬中毒、老人の貧困、外国人嫌いなどなど。
だが、肯定的な契機もある。プーチンのロシアにおける重要な功績は、中間層の成立である。そのことを証言しているのは、大量の建築と外国旅行である。最後にだれが勝利を担うのか。社会の近代化の象徴である中間層か、それとも、より貧困な社会階層の古くさい意識の怠慢さか。真の権力政党か、それとも腐敗した官僚階級か。
このことに、ロシアの未来が懸かっているだけでなく、ロシアの未来の存在が懸かっている。私の国の未来は予言できないのに、過去の教訓は明白だ。20年前には、ロシアは、正しい選択をした。しかし、自由に至る複雑な道の途中で、それは、残念ながら自分の両足に気付いた。
[訳者の感想]最近のロシアの情勢が知りたくて、このヴィクトル・イェロフェーエフの論説を訳してみました。「自分の両足に気付いた」というのは、過去のロシアの非民主的で個人の自由を認めない伝統のことを言っていると解釈しました。この論文は、日本人にとっても教訓的であると思います。