杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

出雲との茶文化交流と酒造起源探訪(その2)佐香神社どぶろく祭と出雲の酒

2018-11-08 14:42:42 | 地酒

  10月12日~14日の駿河茶禅の会「出雲との茶文化交流と酒造起源探訪」レポートの続きです。

 

●松江藩の維新秘話を伝える「玄丹おかよ弁当」

 13日は午前中に出雲焼樂山窯、茶室明々庵での茶文化交流の後、明々庵のある塩見縄手の風情ある街並みを散策し、武家屋敷や田部美術館を見学。お昼時でしたが17名まとまって入れる食事処が近くになく、時間もタイトだったので、バス車中でお弁当を食べてもらいました。

 そういうことなら、ぜひ松江の歴史にちなんだ特別なお弁当をと、明々庵の森山支配人がわざわざ手配してくださったのが『玄丹おかよ弁当』です。

 お加代さんというのは元松江藩士で鍼医・錦織玄丹の娘。明治維新の慶応4年(1868)、新政府側は徳川親藩の松江藩に不信を抱き、3か条の難問題を突き付け、家老大橋茂右衛門を切腹寸前に追い込むのですが、この時、新政府側との酒席で白刃に貫いたかまぼこを平然と紅唇に受け、幹部に迫って家老の命を助け、出雲女の義侠心を発揮という勇ましい女性です。その武勇伝にちなんだ特製弁当で、紅い実をかんざしのように楊枝で刺した「赤板かまぼこ」が入っています。千鳥城と謳われた松江城にちなんだ「千鳥長芋」、日本海で獲れた「スズキの酒蒸し」、島根和牛そぼろを添えた「赤貝飯」など、手の込んだ上品な味付け。出雲の食といえばシジミか蕎麦ぐらいしかピンとこなかったので、事前に現地の有識者に教えてもらって本当に良かったと思いました。

 

●出雲の酒造起源探訪―佐香神社(松尾神社)秋季大祭

 前々回のブログ記事で紹介したとおり、今回、偶然参拝できた佐香神社(松尾神社)秋季大祭。茶禅研修としては想定していなかったプログラムながら、アドバイスをいただいた山陰中央新報社文化事業局の担当者より、神話の国出雲で体験できる唯一無二の酒の神事であり、年に1度の大祭日に出雲に来る偶然を活かしてほしいと勧められたものです。

 

 出雲の酒といえばヤマタノオロチ伝説。弥生時代の初め、大陸から出雲に渡ってきたスサノオは、村人を苦しめる八岐大蛇を八醞折の酒で泥酔させ、退治しました。私は2009年に東京で備中神楽のヤマタノオロチ退治を取材しこちらを)、東京新聞タブロイド紙『暮らすめいと』で紹介したことがあるので、そのときの軽妙な演舞が懐かしく甦って来ました。

 

 以下は前々回記事と重複しますが、日本醸造協会機関誌『醸協(1987)』に掲載された速水保孝氏(元島根県立図書館長)の論文によると、スサノオの八醞折の酒は縄文文化の名残で果実を噛んで醗酵させ、造っていたようですが、弥生時代に稲作がさかんになると米を噛んで造るようになり(アニメ映画『君の名は』にも登場)、やがて大量生産に不向きな口噛み酒から、大陸伝来のコウジカビの活用へと転換していきます。これも、大陸からまず出雲地方に伝わったもの。『播磨国風土記』によると、出雲大神が播磨に遠征したとき軍隊の携行食の乾米が水に濡れてカビが生えたので、そのコウジを使って酒を醸造したという記録が残っています。

 

 『出雲国風土記』によると、佐香神社はもともと天平5年(733)に建てられた佐加社。現在、平田市に含まれるこの地の字は楯縫郡佐香郷と記されてきましたが、佐加・佐香とも、サカ=サケの古名を意味するもので、文字通り、古代に大陸から渡来した人々がコウジカビを用いて大規模な酒造を行い、この神社にお神酒を奉納したということ。室町末期、山津波で崩壊した神社を再建する際、「九社明神社」と名称が変わり、酒の神様としてのイメージが薄まってしまったところ、京の都へ酒造りに出稼ぎに出ていた出雲杜氏が松尾大社の分霊を勧請し、松尾神社を併存するようになったということです。

 そんな、日本酒発祥の聖地といえる佐香神社、素朴な村の鎮守のお社といった風情ですが、日本の神社でどぶろく醸造を行っているのは現在ここだけ。地元出雲市小境地区で収穫された米と水を使い、氏子を務める出雲杜氏経験者がこの日のために1石だけ醸造し、神社内にてこの日一日限定で飲み切る(酒造免許の規定で神社外持ち出し禁止)。新米で造られる新酒のどぶろくは今年の米の出来を推し量るものとされていました。

 

 予定よりも早く14時すぎに到着し、どぶろくの振る舞い開始時間(15時30分)までどうしようかと思っていたら、どぶろく配布の氏子さんが機転を利かせてフライングサービス。今回の参加者の一人・青島孝さん(青島酒造蔵元杜氏)に即興でどぶろく解説をしてもらいました。

 15時30分からは奉納舞踊の神楽が始まり、我々は楽殿の前に敷かれたブルーシートに座り、笛や太鼓の音色に身をゆだねながら、どぶろくを味わいました。三々五々集まった人々はお花見宴会のように酒肴を詰めた重箱弁当を広げ、楽しそうに歓談しています。

 どぶろくを配っていた氏子のおやっさんは地元でネギの栽培をしていると言い、「ネギ栽培で成功している浜松の農業法人を視察してきたばかりだ、いやあ遠くからよく来てくれたなあ」と大盤振る舞いしてくれました。他の参拝者からも「こんな片田舎の祭りに飛行機で来てくれるなんて、こんなに嬉しいことはない」と声を掛けられ、つい「来年も来ますよ!」と返事。青島さんは「想像以上に出来の良いどぶろくだった」と言い、他の参加者からも「祭礼といっても形式ばることなく、ゆるくて心地よい。それがある意味、出雲大社よりも神を身近に感じさせた」という声が上がりました。

 どぶろく祭は日が落ちてからが本格的に盛り上がるそうなので、次回は夜通し飲む覚悟で来なければ・・・!

 

●国宝松江城の天守閣茶会

 夕刻、松江市内に戻って不昧公200年祭の一環で開催された国宝松江城水燈路(ライトアップ)を観賞。天守閣に登り、国宝の城内で初めて催された茶会に参加しました。狭い天守閣に茶道各流派のボランティアや一般観光客が押し合い圧し合いの賑やかなイベント茶席でしたが、不昧公がこの光景を見たら何とおっしゃるのか、想像すると楽しくなりました。「国宝をこういう形で利用できるのは、これが最初で最後かもしれません」という関係者。どぶろく酔いが回る中で天守閣まで必死に登って、そんな貴重な茶席を体験できて感激でした。

 この後、しまね地酒マイスター福島将美さんが経営する居酒屋『朔屋』にて、神代からの出雲の酒文化についてたっぷりご教授いただきました。

 

●歴史を拓いた島根の酒造技術

 島根では東部で出雲杜氏、西部で石見杜氏が活躍していました。出雲杜氏は組合結成100年余の歴史を持ち、今の杜氏国家試験が出来る前から独自に資格試験や研修制度を設けて優秀な技能者を輩出してきました。それもこれも指導機関に日本酒造史に残る逸材がいたからです。

 

 明治37年、滝野川(東京都北区)に大蔵省醸造試験所が開設されたとき、技士として赴任したのが松江税務署鑑定科長の嘉儀(かぎ)金一郎氏。氏は松江税務署時代、松江局の清酒の大半が腐敗した苦い経験を経て、「山卸廃止試験」に挑戦し、滝野川に赴任した後、試験報告書を発表。これが「山廃酛」の誕生でした。嘉儀氏は40歳で会津若松の「末廣」に技術者として招かれ、末廣を山廃造りの銘醸に育て上げます。

 

 さらに特筆すべきは、協会9号酵母生みの親の野白金一氏が松江市出身だということ。醤油醸造家に生まれた野白氏は明治34年に東京高等工業学校(現東京工業大学)を首席で卒業し、松江税務署鑑定部へ着任。2年後に熊本税務監督局へ転任し、当時「赤酒」から脱皮しようとしていた熊本の酒造業界を指導。明治42年に熊本県酒造研究所を設立し、熊本酵母を開発したのでした。これが協会9号として吟醸酒酵母のスタンダードになり、静岡酵母もこれをベースに開発されたのです。

  

 東広島の全国新酒鑑評会前日に行なわれる(独)酒類総合研究所研究発表会に行くと、毎回会場から鋭い質問を浴びせる聴講者がいて、発表者の若手研究員とのやり取りを毎回楽しく拝聴します。その質問者とは元島根県立工業技術センター食品科長で酒類技術コンサルタントの堀江修二先生でした。以前、会場にいた青島さんに先生を紹介してもらい、きちんと取材にうかがおうと思いつつ日が経ってしまいましたが、島根の酒を呑むと、真っ先に「出雲にも河村傳兵衛先生みたいな人がいたなあ」と思い起こします。

 

 現地で購入した地酒ガイドムック『さんいんキラリ~神々を魅了した出雲の酒』の巻頭に、堀江先生の寄稿文が掲載されていました。その中の一節を紹介させていただきます。

「佐香神社での酒造りは奈良天平20年(748)頃から始まったとされ、その造りは長屋王遺跡から出土した天平元年(729)の木簡の酒造りにきわめてよく似ており、天平の頃奈良から伝わった酒造りではないかと思われる。出雲地伝酒は木灰添加による微アルカリ性にした酒で、日本では熊本、宮崎、鹿児島、出雲地方だけに見られる「灰持酒」と云われる珍しい酒である。この酒は古墳時代、筑紫国の熊本から海の道を通って石墓文化とともに直接出雲に伝わった酒と考えられ、ルーツは中国浙江省地域である」

  

 前掲の速水氏の論文と併せて出雲の酒のルーツを考えようと思ったら、日本の古代史学習が必須だ・・・!と頭を抱えてしまいます。登呂遺跡が残るわが静岡では当時、どんな酒を造っていたんでしょうね。

 それにしても、古代は熊本と出雲が酒のルーツで結びつき、近代以降、松江では山廃造の嘉儀先生と熊本酵母の野白先生を輩出し、現代の堀江先生や河村先生に連なる。出雲、熊本、静岡は、茶道三斎流で不思議なつながりがあると前回記事で紹介しましたが、酒においても酒造技術を切り拓いた指導者の不思議な縁を感じます。

・・・自分がこの地に呼ばれたのも、何かの縁に違いないと、ますます妄想が膨らみます。(つづく)

 

 

 

 

 


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