杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

南蛮船駿河湾来航図の謎

2009-04-12 11:48:04 | 朝鮮通信使

 昨日(11日)は清水テルサ(JR清水駅前)の8階レストラン「ブランオーシャン」で、静岡県朝鮮通信使研究会第4回定例会が開かれ、朝鮮通信使研究家・北村欽哉先生の講話を傾聴しました。

 清水テルサは、07年5月19日、映像作品『朝鮮通信使~駿府発二十一世紀の使行録』の完成披露上映会が開かれた思い出の場所。訪れるのはそれ以来です。

 

2009041111030000  昨日、定例会会場になったのは、なにも上映会の思い出の場所だからではなく、8階レストランから駿河湾~清見潟~清見寺の眺望が楽しめるから。今から402年前の1607年5月18~20日、まさにこの地で、徳川家康が第1回通信使一行をもてなしたのです。昨日の定例会は、家康がそのとき使った遊覧船や、沖合に停泊していたといわれる南蛮船についての謎解きで大いに盛り上がりました。こういう知的刺激が得られる場ってたまりません・・・!

 

 

 第1回朝鮮通信使(回答兼刷還使)の使行録『海槎録』によると、

〇慶長12年(1607)5月19日、曇りまたは雨。清見寺に逗留していた通信使一行を、家康が船5隻で清見潟の遊覧に誘った。

〇海上には南蛮船が1隻停泊していた。その構造はきわめて壮大で、先端に黄金獅子の座像、船首の両側に大きな柱のような錨2個、船の中には2層の板屋、船尾には華麗な2階の望楼、船の外側は雲・龍・花・草・人・鬼神などの鮮やかな彫刻、船の長さは三百余尺(900m?)、南蛮人6~7人が日本人を帯同して警護していた。南蛮人の一人が綱を渡って帆柱に上がるのが平地を歩くようで、蜘蛛が糸を伝って歩くようで、島主はすぐに来ていた着物を脱いで賞としてこれを与えた…

と、南蛮船の描写が事細かに書かれています。

 

 この地は、当時、富士山、清見寺、駿河湾&松林の絶景3点セットで、日本随一の景勝地といわれていました。

 2009041112080000  

 富士山本宮浅間大社に残る『富士山詣曼荼羅』(室町時代・重文)に描かれたこの3地点が、まさに当時の日本のベストビュー。だからこそ家康もこの地で通信使をもてなそうと大盤振る舞いをしたわけですが、肝心の通信使の日記には南蛮船のことばかり。天気が悪く、富士山の眺めが楽しめなかったのかもしれませんが、それにしても南蛮船は、通信使一行の眼に強烈な印象を残したようです。

 ところが日本側の記録には、当時、南蛮船が清見潟に停泊していたという記述は一切ありません。

 

 『朝鮮通信使』の脚本執筆時、山本起也監督と私は、通信使研究の第一人者である仲尾宏先生(京都造形芸術大客員教授)から、九州国立博物館に『南蛮船駿河湾来航図屏風』があることを教えていただき、九博まで再三、足を運びました。

 

 博物館の見解は、

 「図面の松原、塔のある寺院と関所は、それぞれ三保の松原、清見寺、清見関を示すと考えられ、本図は駿河湾に来航した南蛮船を主題にすると考えられる。史実との関連から見れば、慶長12年、駿河湾滞在中の朝鮮通信使慶七松が海上に一隻の南蛮船を観たと記録することが注目され、本図はまさにその様子をテーマとする可能性が高い。特定の場所と出来事が絵画化された作品として貴重であり、さらに日本を舞台とした国際的な交流の広がりを理解する上で不可欠な南蛮屏風である」

というもの。実際に見せていただいた屏風も、状態がよく、ハイビジョン映像向きの迫力ある図柄だったので、私たちは喜んで撮影させてもらいました。Img_2610

 九州国立博物館のホームページで拡大図を見ることができますので、こちらをどうぞ。

 

 

 一方で、北村先生はかねてからこの屏風が、本当に駿河湾を描いたものなのか、確信が持てずにおられたそうです。

 

 左隻の屏風には、屋根に十字架がかかった荘厳な南蛮寺(教会?)が描かれていますが、これを清見寺と解釈するにはあまりにも無理があります。反対側に、山に沿って小さな寺らしき建物と塔、入口には関らしき門が描かれています。これを清見寺とするならば、清見寺の塔は1500年代にはあったものの、家康の時代にはなかったので、確証はありません。

 三保の松原らしき岸で、多くの人々が南蛮船や南蛮人を見物している様子が描かれています。こんなに大勢の人が見ていたのなら、日本側の文献にも何らかの記述が残っていてもいいのに、それがない。

 

 なによりも、日本のベストビューである富士山が、この屏風には描かれていないのが、北村先生の最大の疑問。通信使の行列を描いた『朝鮮通信使駿州行列図屏風』には、富士山がはっきり描かれています。

 2000年に、徳川家康と国際都市駿府をテーマにしたシンポジウムが開かれたとき、北村先生はパネリストの五野井隆史氏(東大史料編纂所教授)に、「1607年に南蛮船が日本に来たのは清水港か?」と質問されたところ、「自分は確認していない。1602年にスペイン船サント・スピリット号が高知の土佐清水港に漂着しているので、それと混同したのではないか」と言われたそうです。東大の先生が、『海槎録』に記述に言及しなかったというのも不思議ですが…。

 

 一方、郷土史家・法月俊郎氏の『朝鮮使節と清水市』には、

 「海槎録の記述は今までほとんど郷土史料として注意されて居らぬが、慶長中期に清水港に南蛮船が停泊してゐたことは種々の意味で静岡市史・清水市史の上に興味ある示唆を与えるのである…南蛮船は或いは長崎からでも廻航したロドリゲスの乗って来た船ではなからうか」

とあります。

 『海槎録』の南蛮船の記述はかなりリアルで疑いはないと、素人の私もナットク。ゆえに、この記述の映像化に最適なこの屏風を採用したわけですが、北村先生のご指摘どおり、家康の時代の駿河湾を描いたと断定するには矛盾が多い。九博側も「屏風自体は桃山時代の作ではないか」と言います。

 

 

 信長~秀吉~家康の生きた時代は、世界史的にはスペイン・ポルトガルの大航海→世界侵略時代。少なくとも日本国の首長の自覚を持っていたこの3人は、遠い島国のハンディを負いながらも国際情勢について懸命に情報収集していたことでしょう。志半ばで亡くなった信長がさておき、秀吉も家康も、国内情勢と照らし合わせ、少ない判断材料の中で外交戦略を立てなければならなかった。家康は、秀吉の朝鮮出兵の後始末という負の遺産まで負っていた…。

 

 『海槎録』には、「玄蘇(日本側の僧)が言うには、老関白(家康)が新関白(秀忠)に通知して、“(通信使の)接待の際に、往年の無礼な規例に従うことなく、ただ誠信をもって互いに接し、回答の書契もまた、すべからく温順を旨とすべきである”と言ったとのことだ」という記述があります。朝鮮側の記録に、家康が誠信の態度で迎えていたという一節があるというのは、彼の外交戦略が平和に基づいていたリアルな証拠だと思えます。

 

 家康の平和外交の精神が次代へ拡大継承され、アジアに一定の貿易・経済圏が形成されていたら、歴史は間違いなく変わっていたでしょう。しかしそうはならず、家康の時代の国際交流の証しまで消されてしまったかもしれない…。朝鮮側の記録に誠信という言葉や南蛮船の駿河湾来航がはっきり記され、日本側にまったくそれがないというのは、作為的な匂いがプンプンします。

 前回の通信使研究会でも北村先生が指摘してくださったように、今、残っている史料や絵画とは、当時の首長にとって都合のいいものだけなんだということを差し引いて読み解かねばなりません。

 

 

 この屏風が、いつ、誰が、何の目的で描かせたのかはわかりませんが、科学的な立証でもされない限り、これを「駿河湾に南蛮船が来ていた絵」と国立の博物館が断定するのも、それを見た我々が「家康が駿河湾で通信使をもてなした絵」と解釈するのも、今の時代の“都合”というのか、時代の風なんだということも、どこかで自覚しなければいけませんね。

 

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1 コメント

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南蛮船駿河湾来航図 (秦野北斗)
2016-01-08 15:31:28
駿河湾来航図の場所は河湾でなく堺です。
私も九州に行ったのですが、時間が無く断念しました。図中の馬と武士は三好三人衆です。
黒マントは千利休、今井宗久・津田宗及、武野紹鴎・・・・。
1550~60年頃の堺の記録風景です。
無学のアマチュア古代史研究家です。
詳細はメールでVYS06030@nifty.ne.jp
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