杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

京都で坐禅三昧

2008-05-06 14:24:22 | 吟醸王国しずおか

 5月1日から5日まで、テレビとパソコンのない時間を過ごしました。映像作品『朝鮮通信使』の撮影でお世話になり、その後、たびたび坐禅に通うようになった京都・堀川寺ノ内の興聖寺の長門玄晃住職から、開山禅師及び盛永宗興禅師の報恩接心にお誘いいただき、禅寺の本格的な坐禅を体験したのです。

 

  開山禅師というのは興聖寺を創建した茶人・古田織部に招かれた初代住職。盛永宗興禅師は、現住職の師にあたる高僧で、妙心寺大珠院住職や花園大学学長を務められた方。そのご恩に報いるため、5日間、集中坐禅を行う寺の大切な年間行事です。私ごときが参加してもいいのか、ついていけるのか不安はありましたが、なぜか小学生の頃から、お寺めぐりや仏像鑑賞が好きで、仕事を通してこういう機会を得たことも、不思議な仏縁のような気がして、思い切って挑戦してみました。

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 仕事仲間に「京都に坐禅に行く」と話したら、「へぇ、いいねぇ」「そんなツアーがあるの?」と観光旅行にでも行くのかと思われたようですが、フタを開けてみれば、ツアーとはほど遠い、大変な5日間でした。

 5日間泊りがけで参加した一般人は、私と、東京から参加した中国人OLだけ。後は、朝晩だけとか、泊まりでも2~3日だけという人で、若い修行僧4~5人を合わせると総勢10~12人程度。「初めてでいきなり通しで参加するなんてすごいですね」と言われ、あれ、ヤバイところに来たかも…とすぐに不安に。スケジュールや作法など一切教わる間もなく、いきなり本番突入でした。

 

  まず朝4時に本堂に入り、朝課といって90分ぶっ通しでお経を読みます。その後、休みまもなく坐禅。30分ごとに足をほぐす1~2分のインターバルがあるだけで、これを約180分。

 7時に粥座といっておかゆと漬物だけの食事を取りますが、食事もすべて修行なので、お経を読んで、無言で物音を一切立てずにさっさと腹に入れます。箸を置くタイミング、使ったお椀を1杯の湯で清める作法なども、修行僧の方々の仕草の見様見真似。緊張の連続で、食べた気がしません。

 続いて掃除。木造の床の雑巾がけなんて、たぶん小学校卒業以来です。木目に逆らって拭き始めたら修行僧に叱られ、真っ赤になりました。

 9時からは、盛永禅師の著書『お前は誰か』の朗読会。まもなく得度するお弟子さんの一人に20代のアメリカ人がいて、彼の日本語訓練を兼ねた読み下しの時間です。お茶とお菓子をいただきながら、ご住職から禅師の文の解説を聞いたり世間話をする、1日の中で唯一、日常会話のできる貴重な時間でもあります。

 私が読むように指示されたのは、白隠禅師が若い頃、天狗になって、その鼻をへし折られたという箇所。のちに白隠が民衆のためにやさしく説いた『坐禅和讃』の素晴らしさを伝える一節でした。2月にしずおか地酒研究会で白隠正宗の蔵元と松蔭寺を訪ねたことを思い出し、白隠さんってやっぱり富士山と並んで「駿河に過ぎたるもの」なんだと実感しました。

 “過ぎたる”と言われるのは、もともと松蔭寺が妙心寺派の中でも地方の末寺で、寺格の低い寺だったこともあるようです。白隠さんは全国を修行で歩き、その高名は響きわたっていましたが、大寺院の名誉職に就いて終わるのではなく、この松蔭寺の住職として一生をまっとうしました。それはそれでスゴイことですね。

 松蔭寺には白隠さんを慕って全国から修行僧が集まり、原の宿場は大変なことになっていたとか。「近隣の家に収まりきれず、原の網元や漁師の家や、浜辺で野宿する僧もいた。静岡人なら知っとらんか?」と長門住職に突かれ、うつむいてしまいました…。こんなことになるなら、2月に訪れたとき、松蔭寺住職にちゃんと聞いておくべきだったと反省反省。

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 10時から12時まで坐禅。12時から斎座(昼食)で麦ご飯と味噌汁と漬物をいただきます。この麦ご飯が、なんともたまらなく美味しく感じます。食事中は変わらず緊張し続けますが、粒飯が食べられることの有難さは格別でした。

 14時までは随座といって、坐禅を続けるなり部屋で休むなり随意に過ごします。どう過ごしたらいいのか迷っていると、「夜が長いから、休めるうちに休んだほうがいいですよ」と言われ、1時間ちょっとの仮眠を取りました。といっても、あてがわれた部屋は勝手場とトイレのすぐ横で、なかなか休めません。1時間はあっという間に過ぎ、14時から午課(午後のお経読み)と坐禅。16時から開浴といって一人15分ずつ交替で入浴をします。お風呂場に入る前にも、ちゃんと仏さまに三拝して入るんです。入浴時間はわずかですが、痺れきった足を湯船の中で伸ばしたときの心地よさといったらたまりません。入浴できることが、これほど有難いと思える経験も滅多にないでしょう。

 17時30分から晩課(夜のお経読み)と坐禅。20時30分に後展鉢といって夜食をいただきます。禅宗の正式な食事は朝と昼の2回だけなので、夜のために軽い食事を取るそうです。

  このお寺ではおろしそばをいただきます。正式な食事ではないので、お経は読みませんが、無言で襟を正していただくのは変わりありません。そして21時からふたたび坐禅。23時に解足(かいちん)となり、長かった一日が終わります。

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 5日間のうち、5月4日の日中だけ中座して、東京から来た松崎晴雄さんと待ち合わせをして姫路の全国菓子博覧会と姫路の酒蔵・灘菊の見学に行きましたが、後はこのスケジュール。初日は覚えることに必死で、2日目は覚えても意味が解らないため気持ちが落ち着かず、肉体の苦痛も加わり、早く終わらないかなぁ、なんでこんなところに好んで来ちゃったのかなぁと後悔の念が立ち始め、3日目の開浴が終わったあたりで、この場にいることもきっと意味があると思い直し、少し落ち着いてきました。

 

  疲れがたまって神経麻痺になったせいか、自分が木か花か虫にでもなったような想像をします。風にそよがれる新緑を見ると、モノを言えず、体も動かせず、アタマが働かなくなっても必死に姿勢をただし、美しい立ち居振る舞いをすることで、この美しい自然の一部になれるんじゃないかと…。そんな境地になるなんて、坐禅の効果が多少は出てきたのかもしれません。

 

 4日目に姫路菓子博会場で30度近い暑さの中、数万人の人込みにのまれたときは、松崎さんから「こっちのほうが苦行でしょう」と笑われました。時計を見ても、今は坐禅、今は晩課と、寺でのスケジュールを思い出し、夜、戻ったときは自宅へ戻ったような安堵感。不思議なもので、最終日の夕方には、もう数日居てもいいかなと思えてきます。21時過ぎの新幹線最終に乗るため、夜の坐禅の途中で帰りましたが、なんだか後ろ髪が引かれる思いでした。

 

 

  初体験の私に所作をあれこれ教えてくれたのが、20代の中国人女性とアメリカ人修行僧だったことも忘れがたいことでした。他に、レゲエヘアの20代バックパッカー、スクールカウンセラーの男性、ほとんどのお経を暗記している日本画家、50代のサラリーマン、近所の主婦、一見ホームレス風の高齢者など実にさまざまな人々がやってきました。自由に会話をする時間がほとんどなかったので、どんないきさつで参加したのかよくわかりませんでしたが、禅寺が、老若男女国籍問わず、現代人の心の拠り処になっていることは確か。彼らと過ごした5日間は、ドキュメンタリー映画にでもなりそうです。

 

  私は、どちらかといえば興味本位での参加だったわけですが、思えば、ふだん、自宅で独りで仕事をし、どんな格好で、どんな手順で仕事しようと、出来上がった原稿だけで評価をされる暮らしをしている自分にとっては、意味の解らない作法やしきたりにがんじがらめになり、この年齢になって、他人から、姿勢が悪いとか、掃除や箸の持ち方が悪いと叱られることなど皆無です。それだけでも貴重な体験でした。

 

 

  修行を重ねた人の姿勢や所作は、文句なく美しい。どんな習い事でも、道を究めるには、まず形から、といいますが、美しい形をキープすることの辛さを乗り越えなければ、何も始まらない、と実感しました。私は恥ずかしながら、これまで道と名のつく伝統的なお稽古事とは一切縁がなかったので、この年齢でようやくそのことを学べたわけです。

 

  お経も、最初はふりがなを目で追うのに必死でしたが、よく読むと含蓄のある熟語のオンパレード。言葉を扱うことを生業とする身であれば、一度はしっかり学ぶ価値があります。

 

 

  わずか5日間の坐禅体験ながら、帰路の挨拶をして、ご住職や修行僧の方々から「よく最後まで務めましたね、感心しました」と言われたときは、叱られることはあっても褒められるなんて想像もしなかったので、子どものように嬉しくなりました。

 

  帰りの新幹線の中、5日間を振り返るうちに、寺で出会った人々と、酒蔵で必死に働く若者たちの姿が重なりました。蔵人の、どんな作業も手を抜かずに向き合う姿は、まさに修行僧そのもの。自分にこの蔵は合わないとか、下働きや雑用に嫌気がさして蔵を去る若者も過去にはいましたが、今、映像で追いかけている酒蔵には、道を究めようとしている素晴らしい蔵人がいます。蔵元や杜氏のささいな褒め言葉が、厳しい労働に耐える力になることもあるでしょう。まったく世界は違いますが、5日間の坐禅は、酒蔵で働く彼らの精神状態をほんの少し疑似体験できたような気がします。

 

 

 「修行というのは坐禅をしたり、経典の解釈をすることだけではなく、風呂を炊くことも、飯を作ることも、掃除をすることも、師匠から見事に叱られるということまでひっくるめて、すべて修行でないものはない。そのとき、そのとき、自分がぶつかったものに一所懸命、逃げ隠れせずに対応していくことこそ、修行の入り口なのだ」(『お前は誰か~若き人びとへ』 盛永宗興著 禅文化研究所刊より)

 

 


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