杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

福岡・聖一国師の足跡と博多茶禅文化探訪(その3)

2019-11-09 22:46:52 | 駿河茶禅の会

 博多研修レポートの続きです。研修3日目は朝9時より筥崎宮を正式参拝しました。

 蒙古襲来のとき、筥崎八幡神の神風が日本を守ったといわれ、厄除け・勝運の神として名を馳せる筥崎宮。足利尊氏、大内義隆、小早川隆景、豊臣秀吉など名だたる武将が参詣し、江戸時代には福岡藩主黒田長政以下、歴代藩主の崇敬も集めた社です。

 仁治2年(1241)、留学先の宋から戻る途中、嵐に遭遇した聖一国師は、筥崎八幡神のご加護で九死に一生を得たといわれ、国師は毎年筥崎宮に参詣し報恩の読経を行いました。以来、現在に至るまで承天寺の僧による「報賽式」が執り行われ、僧侶が神社で納経する珍しい行事として知られます。

 

 

 正式参拝の後、安武権禰宜のご案内で本殿・拝殿をじっくり見学しました。神殿の回廊には筥崎宮ゆかりの偉人が残した墨跡が掲げてあり、パッと目に付いたのがこれ。

 大河ドラマ『いだてん』で役所広司さんが熱演した柔道の創始者・嘉納治五郎の書です。『いだてん』は視聴率で苦戦しているようですが、私は毎回楽しみに視聴しています。金栗四三と嘉納治五郎と田端政治と古今亭志ん生をあれだけ複雑に絡めながら、近現代史をしっかり描いている。人見絹枝メインの回、嘉納治五郎が亡くなる回、志ん生が満州で富久を演じた回などは1本の映画にしてもいいくらい素晴らしかったですね。

 

 話は逸れましたが、安武権禰宜が我々の目的を知ってぜひ、とご案内くださったのが、千利休奉納の石灯籠でした。天正15年(1587)、九州平定を終えた豊臣秀吉が箱崎茶会を催した際、随行した千利休が奉納したものです。

 この灯籠の火袋底裏刻銘の終末に「観応元年庚寅六月弐八日、勧進尼了法」「大工井長」とあり、観応元年(1350)作成の灯籠と判ります。平成17年(2005)3月の福岡県西方沖地震の際、この灯籠が倒れ、火袋底裏刻銘を再確認できたとのこと。一般に奉納物には寄進者の名前を印することが通例ですが、利休がなぜ200年以上も前の古い灯籠を奉納したのか―そこに、自分の名を刻んだ真新しい灯籠を置くよりも、利休らしい侘びの美学から時を経た趣のある古灯籠を置いたのではないか等など、興味は尽きませんでした。

 

  次いで訪ねたのは崇福寺。ここも聖一国師開山の名刹です。当時は太宰府にあり、駿河井宮生まれの大応国師(南浦紹明)、そして大応国師の弟子で大徳寺を開いた大燈国師(宗峰妙超)が入寺。博多滞在中の古渓宗陳も訪ねています。その後、黒田長政によって博多に移され、黒田家歴代藩主の菩提寺となりました。臨済宗大徳寺派の3大修行道場の一つで、拝観はできませんでしたが、静岡出身の聖一国師、大応国師の足跡を訪ねる上で欠かせない寺です。

 門前茶屋の女将さんから、崇福寺のある博多区千代の千代流(ちよながれ)が記念すべき令和元年の博多祇園山笠で一番山笠を務めたとうかがいました。千代流の山笠はここ崇福寺の門前で願文を奏上し大いに盛り上がった、また大河ドラマで黒田官兵衛を演じた岡田准一さんが再三訪れ、沸き立ったことなどを誇らしげに話してくれました。

 

 

 研修の締めくくりは、茶祖栄西禅師が日本で最初に開いた禅寺・聖福寺での写経奉納です。

 

 建久6年(1195)、源頼朝を開基に創建され、蒙古襲来時に焼失。再建後、室町期には五山十刹制度の十刹第二位に序され、38院の塔頭を擁する大伽藍を誇りました。戦国~江戸期にかけ幾度か焼失と再建を繰り返し、江戸後期の第123代仙厓義梵禅師が禅の修行道場として再興し、今日に至っています。仙厓禅師は駿河の白隠禅師と並んで禅画の名手として知られる禅僧です。

 崇福寺同様、修行道場のため拝観はできませんでしたが、希望すれば写経や坐禅の体験ができるということで、一同、写経堂にて心静かに般若心経をしたためました。写経初体験の参加者が多く、貴重な体験になったようです。

 

 

 

■参加者の声

○UIAメンバーが鹿児島、宮崎からも遠路参集してくれたことにより、交流が 盛り上がった。各訪問先は初回ではなかったが、寺社関係者からの解説により新たな情報を頂き、また再認識の事項も多く非常に有意義であった。博多の地下街の規模、人口増などを見聞し、東京・大阪とは一味異なる活動的な文化を感じたが、神仏・祭礼を基盤とした精神性が背景にあるものと強く感じた。「茶の湯」という観点からは、昨年訪問の出雲は城下町としての歴史を抱く「静」、福岡は海外交易の窓口として活動してきた博多商人のパワー「動」が印象的であった。(M)

 

○福岡・聖一国師足跡めぐりとUIAの方々と交流茶会はお天気にも恵まれてすばらしい旅となった。博多山笠は福岡ではいまでも経済活性の柱の一つであり、博多の伝統行事として人々の生活に溶け込んだ非常に意義があるものと再認識した。UIAの方々の茶席でのおもてなしや、福岡の見どころや情報を用意していただく等、見習うべきところがたくさんあり、本当のおもてなしを学び、大変有意義な研修旅行だった。(I)

 

○UIA九州エリアの皆さまの心づくしのおもてなしには感激した。会場の松風園の保存管理も行き届いていた。承天寺や櫛田神社を通して聖一国師が博多の人々の日々の生活の中に、文化として根付いていると実感できた。とくに櫛田神社の阿部宮司の気さくで明るいお人柄に、博多っ子の心意気を感じた。(A)

 

○福岡市文化交流公園「松風園」茶室でのUIAとの交流茶会&昼食会は、駿河茶禅の会とUIAのメンバーが交互に座ることで、自然に隣の方と話が盛り上がり、交流が深まった。自己紹介をして行く中で、UIAの方々は、鹿児島、宮崎等九州遠方からこの茶会のために集まって頂いたことが分かり、心からのおもてなしに本当に感謝・感激した。(D)

 

○博多祇園山笠は重さ1トンの曳き山笠が町中を勇壮に疾走する。その際、承天寺前に聖水が設けられ、山笠を担ぐ若衆に勢水が盛んにかけられる。真夏の山曳きで熱くなった曳手を冷やす冷却水の役目を果たすという。私の住んでいる場所は静岡市郊外の安倍川の近くで、上流側に上った処に足久保がある。聖一国師が中国から茶の種を持ち帰り、初めて蒔いた場所だ。聖一国師が生まれたのは静岡市葵区栃沢の地。その生家の庭先にて沸き出る清く澄み切った聖水を福岡の博多に運び、承天寺に献水し、祇園山笠の勢水として掛けられている。なんと素晴らしいことだ。駿河茶禅の会ではお茶と禅に通じる心、作法を学んでいるが、この会を機会に、少しではあるが静岡と福岡お互いの発展に繋がれば良いと思わずにいられない。お茶の心得は何かに繋がり、気分が円やかになることである。たった1時間40分の飛行時間だ。九州に飛行機を利用して旅に行こう。そしてもっと盛んに交流しよう。(S)

 

○UIAの皆さんとの交流茶会、小生の右隣りは久留米から、左隣りは大宰府から、皆さん「茶道」の精神をしっかりと生活をしていらっしゃるのを感じた。大宰府からいらしたご婦人はミッション系の女学校を卒業されたとのことで、今のこの大変な世の中、いかに生きるべきかを自分で考える「禅」の心が大事ではないかと話した。最後、栄西禅師が開山の日本で最初の禅寺・聖福寺での般若心経の写経体験はこの研修旅行の締めくくりとして相応しい体験だった。聖一国師とその業績についてその誕生の地静岡から、もっともっと発信すべきであると実感した。(I)

 

○博多では静岡より聖一国師のことをよく知っているという話は聞いていたが、実際に訪れてみて街の真ん中にある櫛田神社の何百年も続く市民の祭り、祇園山笠の生みの親なのだからこれはもっともだと思った。暮らしの中に聖一国師が今も息づいている博多と、生まれ故郷というだけの静岡とでは比べようもなく、彼我の差にため息が出るばかりだった。UIA九州地区の皆様には、素晴らしい庭園と茶室の松風園でお茶会を開いていただき、まさに一期一会を感じた一日だった。茶会前の鈴木さんの聖一国師物語の講話も茶室の雰囲気とあいまってとてもよかった。研修旅行とはいえ、やはり旅は人との出会いや交流あってこそ。いつか皆様を静岡へお招きしたい。(U)

 

 

  今回の研修旅行は、企画段階で静岡県茶業会議所、聖一国師顕彰会(静岡商工会議所内)のご担当者より有益な情報をいただきました。また乳峰寺の平兮正道和尚様には事前の資料送付やスケジュール調整等きめ細やかなお心遣いをいただきました。心より感謝申し上げます。

 茶禅を学ぶ者の夢としては、今後、聖一国師を介在に、静岡ー京都ー博多を巡る茶禅の旅を「お茶三都物語」として定例化できたらと願っています。また国内外で活動されている裏千家インターナショナルアソシエーションの方々と、様々なテーマで交流茶会を企画できたらと思います。なお駿河茶禅の会は毎月1回静岡市内で定例会を開いていますので、興味のある方はご一報ください。

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