杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

シズオカ文化クラブ例会~静岡ハリストス正教会訪問

2011-09-22 10:07:04 | 歴史

 1週間遅れの報告になりますが、9月15日(木)18時30分から、シズオカ文化クラブの例会があり、静岡ハリストス正教会聖堂を訪問しました。

 

 

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 静岡鉄道「春日町駅」の近くにある、エキゾチックなロシア聖堂。私、10年ちょっと前、この駅の近くに2年ほど住んでいたことがあるんですが、教会があるな~程度の認識しかなく、もちろん入ったこともありませんでした。静岡市内にロシア正教の教会があるというのも意外でした。東京神田の大聖堂は観光気分で見学した経験はあるけど・・・。

 

 そもそも、静岡とロシアの関係って、伊豆の下田や戸田ならわかるけど旧駿府城下の静岡市内であったっけ・・・?というレベルでした。これって“歴史好き”を公言する身としてはすごーく恥ずかしいレベル・・・ でもこういう機会を得られ、静岡市民としての自覚が深まったというのか、自分の足元をしっかり見つめる意義と価値を再確認できた気がします。

 

 

 

 日本にロシア正教が入ってきたのは幕末。文久元年(1861)に修道司祭ニコライ師がシベリアを単身、馬車で渡って、函館ロシア領事館付司祭として来日したのがきっかけです。明治元年には函館ロシア領事館で澤辺琢磨らが受洗し、日本人初のロシア正教信者になりました。

 澤辺琢磨って土佐藩脱藩浪士で、坂本龍馬の従兄弟なんですよね。確か大河ドラマ『龍馬伝』にも登場し、神田大聖堂の建築に尽力したってエピソードが紹介されていました。何でも彼は最初、ロシア領事館に剣術指南役でやってきて、攘夷論者としてニコライ師を暗殺するつもりだったのが、問答をかわすうちに改心したとか。勝海舟と坂本龍馬のなれそめに似ていますね。

 

 

 静岡で布教が行われたのは、明治10年頃から。東京本会から伝教者が派遣されて、今の静岡市葵区上石町にあった伊勢屋という宿を静岡教会(仮)として布教活動が始まって、教えを受けた飯海篤太郎という人が東京本会でニコライ師より直接受洗され、静岡教会受洗第一号になりました。

 

 明治16年には、その後執事長を務めた近藤伊作が受洗し、教会の建築資金をねん出して人宿町に『静岡生神女庇護会堂』を造りました。その後、会堂は火事で焼けてしまい、信者の住まいのある通研屋町、本通2丁目、東草深、西草深、北安東を転々とします。・・・うちのご近所にもあったなんて、すごく親近感を覚えますね。

 

 明治37年2月、日露戦争が始まると、日本国内のロシア正教会は窮地に立たされます。ニコライ大主教はロシアへ帰国するよう再三促されながらも「日本に骨をうずめる」「日本勝利のために祈る」という姿勢を断固貫かれたそうです。

 

 

 同年12月には、ロシア人俘虜120人が静岡へ送られてきて、旧徳川邸俘虜収容所に入ります。翌明治38年1月には、ロシア人俘虜将校7人が初めて静岡教会の主日祈祷に参加し、その後も再三参祷するようになりました。そして同年4月には静岡県から『静岡ハリストス正教会』設立の許可が正式におりて、明治44年、本通5丁目に新会堂が竣工されました。

 

 ニコライ大主教は明治45年に永眠しますが、このときまでに、日本国内には大聖堂1、聖堂8、教会276、会堂175が造られ、信徒は3万4千人余り。静岡県内には浜松、静岡、三島、伊豆修善寺に教会が置かれ、大正9年の記録では県知事あてに信徒総数142名が届けられていたとのことです。

 

 

 

 昭和に入り、ふたたび戦争が影をおとします。昭和15年の静岡大火で信徒の多くが亡くなり、昭和16年に太平洋戦争が始まると、時の大主教セルゲイ師が軍部に幽閉されます。師は終戦の日(昭和20年8月15日)の直前、8月10日に亡くなり、2年後の昭和22年1月、アメリカ系ロシア人のベニアミン主教がアメリカからやってきます。・・・ロシア正教会の指導者がアメリカからやってくるなんて、いかにも戦後って感じですね。

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 静岡教会は昭和20年6月の静岡大空襲で焼夷弾の直撃を受けてしまいましたが、信徒たちの努力によって昭和34年、ようやく現在地春日町に『静岡ハリストス正教会生神女庇護聖堂』が竣工します。昭和57年には静岡ハリストス正教会開教100周年を迎え、147名の信徒数が記録されています。

 

 

 

 築50年余り経った聖堂は、耐震上の問題があって、残念ながら年内に取り壊されることになりました。そこで今回、シズオカ文化クラブさんの企画で特別礼拝に参加させてもらうことに。

 

 

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 初めて入った聖堂の内部は、高い天井や壁に所狭しとイコンが飾られ、一瞬にして「ここはホントに静岡かっ!?」気分。しかもイコンの中には、幕末から明治にかけて活躍した女流画家山下りんが、ニコライ大主教から「日本人のために、日本人の貴女に描いてもらいたい」と直に頼まれた作品が数多く含まれています。

 

 イコンは「美術品ではなく信仰を助ける道具」であり、遠近法等の絵画手法を用いないものが多かったようですが、山下りんはサントペテルブルクに留学し、エルミタージュ美術館で中世ルネサンス絵画を観て感銘を受け、今までのイコンにはなかったルネサンス的表現で美しいイコンを数多く残しました(国内のロシア正教会に残っている山下りんの作品リストはこちら)。

 

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 今では“重要文化財級”の山下りん作品が、何気なく、ごく自然に飾られている聖堂内。宗教は違うけど、私が大好きだった東大寺法華堂(三月堂)に一千年余り、ごく自然に立ち続けておられたみ仏がたを思い出しました。法華堂も修復工事が始まり、み仏がたは専用の展示館に移されてしまいました・・・。

 

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 聖堂の機能は、とりあえず敷地内に建てられた信徒会館に移されるそうです。この信徒会館、建築家近藤一郎の代表作で(くわしくはこちら)、木目調のデザインと音響の良さから、室内コンサート等もたびたび開かれているそうです。この日もバイオリンユニットMio Stringsのミニコンサートを堪能させてもらいました。

 

 

 静岡とロシアの知られざる国際交流と、あまり馴染みのなかったロシア正教会の文化に触れることのできた、本当に得難い一夜でした。貴重な学習の場を用意してくださったシズオカ文化クラブの幹事のみなさま、本当にありがとうございました。


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