5月17日、はままつフラワーパークの花博2014会場「花みどり館」にて、しずおか地酒サロン特別トークセッション『杜氏と樹木医 自然の育ちによりそう力』を開催しました。当日は天候にも恵まれ、花博会場は入場者トータル80万人の記録を突破するなど大変賑わっていました。そんな中、屋内での酒のトークイベントにどれくらいの人が関心を持ってくれるのか心配でしたが、フラワーパーク側のPRや、きき酒師でフリーアナウンサー神田えり子さんのプロ仕立ての呼び込み&試飲接客が奏功し、100名を超えるお客様に集まっていただけました。本当にありがとうございました。
喜久醉の蔵元杜氏・青島傳三郎さんと、はままつフラワーパーク理事長の塚本こなみさん。お2人の素晴らしいトークセッションを2回に分けてご紹介します。
(鈴木真弓)みなさまこんにちは。本日はこのように大勢の皆様にお集まりいただき、たいへん感激しております。ではこれより浜松フラワーパーク特別トークセッション「杜氏と樹木医~自然の育ちによりそう力」を開催いたします。
今日は藤枝の地酒『喜久醉』の蔵元・青島傳三郎さん、そしてみなさまおなじみのフラワーパーク理事長の塚本こなみさんに来ていただきました。フラワーパークで何でお酒のイベントをやるの?と不思議に思われた方も多いと思いますが、追々ご説明するとして、まずは青島さん、今日は50年の人生で初のフラワーパーク入りだったそうですね?(笑)。
(青島傳三郎)今日は早めに来て少し園内を廻らせていただきました。まだまだ見足りないのですが、本当にお天気もよく、素晴らしいお花見日和ですね。ふだんなかなか花を愛でる生活をしていないので、これを機にそういう時間を持ちたいなと思います。
(鈴木)ついこないだまで酒造りが続いていたんですよね。
(青島)ええ、例年ですと3月一杯ぐらいでひと段落するのですが、それまではまったく外に出ず、蔵の中に籠もった生活をしています。ちょうど蔵の裏山にフジが自生しているところがあって、それを見ると酒造りも終わったな、と一息つくところです。
(鈴木)こなみさんとお酒、苦い思い出でも甘い思い出でも構わないんですが(笑)、どういうご縁がありましたか?
(塚本こなみ)若い頃、お酒はまったく嗜まなかったのですが、(造園業の)主人の代わりに会合に出たりして少しずつ飲むようになりました。いつのまにか外では日本酒を1升瓶飲むくらいの酒豪になってしまいまして(笑)、外で飲むのはほとんど日本酒です。30歳を過ぎた頃から、ポツンポツンと記憶喪失になることがあり(笑)、嗜む×2ぐらいでおさめるようになり、今では1~2合というところでしょうか。いずれにしても、お酒がなければ人生楽しめないというくらい、お酒大好き人間です。
(鈴木)静岡のお酒はこだわって飲まれていたんでしょうか?
(塚本)昔は節操もなく、何でも飲んでいたのですが、21~22年前、樹木医になりたてのころ、真弓さんが私を取材しに来てくれて、そのとき、「静岡のお酒は全国に誇れるほど美味しいんですよ」と教えてもらいました。それ以来、真弓さんを酒の師匠と仰ぎ、現在に至っております。
(鈴木)過分なご紹介ありがとうございます(笑)。取材というお話が出ましたが、私はフリーのライターとして静岡県内の産業・文化・歴史などを取材しており、お酒の取材は25年ぐらい、自分のライフワークとして取り組んできました。この間、活字情報を提供するだけでなく、せっかく地元に造り手がいるのだから、我々飲み手が造り手とともに、お酒の未来を語り合える場があればいいな、と思い、1996年にしずおか地酒研究会という異業種交流会を作りました。
その、しずおか地酒研究会で、10年前の花博の庭文化創造館というパビリオンで、こなみさんのお膳立てでお酒の試飲会を半年間、やらせていただいたのです。蔵元さんよりどりみどりで、花見の庭、雪見の庭、月見の庭など季節に合わせたディスプレイの中で地酒テイスティングサロンと銘打ってやらせていただきました。
オープニングセレモニーのときの乾杯の酒を青島さんのお酒でやらせていただき、6ヶ月間の会期中も2回参加してくださったのです。無料の試飲会でしたので本当に大勢のお客様に来ていただき、今思うと、よく何の事故もなく無事開催できたなと胸を撫で下ろす思いです。
そして10年後の今年、こうしてまた、こなみさんに素晴らしいステージをご用意いただきました。こなみさんとは、足利の大フジを移植をされた頃から取材を通しておつきあいをさせていただき、青島さんとも、お手元のプロフィールにありますように、ニューヨークでのファンドマネージャーというお仕事から一念発起し、実家の酒蔵を継ぐため帰国した直後からのおつきあいです。長く長く応援し続け、お2人のファンでもあります。そんなお2人に来ていただくなら、ただ単に試飲して終わり、ではあまりにももったいない。植物園を創る仕事、樹木を治療する仕事、麹や酵母という微生物と向き合う酒造りの仕事の魅力をお伝えする・・・おこがましい言い方になりますが、花育、酒育のようなトークイベントに出来たらなと考えました。
浜松は製造業のまちですが、単にモノを造って動かして売る、情報をやりとりする、という仕事とは違い、お2人の仕事は、自然の命と向き合い、人に感動を与え、対価をいただくという、とても難しい、でも大変やりがいのあるお仕事だと思います。
まずはこういう、誰にでもなれそうでなれないお仕事に就かれたきっかけからお聞かせいただけますか?
(塚本)造園業を営む主人に嫁ぎ、主人の仕事を見ているうちに、ああ、お庭ってこういうふうにできるんだな、こういう虫が着くんだな、それにどうやって対応するのか、主人の仕事を見ながら学んできました。
35歳のとき、庭というのは工事完成=庭の完成ではなく、これからこの庭がどんな風情を醸し出し、樹木と樹木が融合してひとつの景色を創り出すのか、守って育てて、もっと美しい庭になってほしいという思いに駆られました。主人は私が心から尊敬する素晴らしい造園家です。その主人が造った庭を守り育てる会社を創りたいと言いましたら、「いいよ」って言ってもらいまして、別会社を作りました。
掛川市に秋葉路という住宅団地があります。造成前、そこに樹齢1000年のモッコクの木があり、所有者からこの木を移植して欲しいと相談されました。「名古屋の大学の先生に相談したら、移植は出来ないからベンチにでも作り直せと言われたが、1000年もの悠久の時を生きた木を宅地造成の名目で伐採することはできない」と。これをお受けしたのが27~28年前のことで、それから木の移植の仕事が増え始めました。おかげさまでこれまで1本も枯れずにきております。
そうこうしているうちに、平成3年度、樹木医制度が出来ました。国や県の天然記念物に指定されている樹木をどんなふうに守ったらいいか、林野庁が考えて生まれた制度です。この制度が出来るまで、木の医者というのは存在しませんでした。庭屋さんが自分の仕事の延長上で、樹木が弱ったらなんとかしなければという状況だったのです。
樹木医になるには学問不問、樹木の診断治療経験7年以上という条件がありました。私には浜松市役所のソテツを治療したり、掛川のモッコクを移植したりという経験がありまして、十分資格の対象になるので受けたら?とお誘いをいただいたのが、樹木医になるきっかけでした。ですから樹齢1000年の掛川のモッコクは、私の人生を変えた木ともいえますね。
(鈴木)こなみさんといえば、なんといっても足利の大フジですが、これはどういうきっかけで?
(塚本)平成3年に樹木医になったときはキャリアとしては未熟でしたが、思いがけず、女性樹木医第1号という肩書きが付きまして、いろいろなメディアで紹介されました。平成6年1月前でしたか、全国紙に【女性樹木医第1号塚本こなみ、巨樹巨木を100本以上治療し、1本も枯らさず】という記事が載りまして、それを見たあしかがフラワーパークのオーナーから連絡をいただきました。「今まで4年、大フジの移植をしてくれる人を探していたが、東京農大の先生にもムリだといわれ、地元造園者何十社にも断られ、わらにもすがる思いで電話しました」と言われ、見に行ったのがフジとの出会いでした。
(鈴木)私がこなみさんと出会ったのがちょうどその頃でした。周囲の専門家がみな無理だと匙を投げたものを受けるとは、すごい度胸のある女性だなあと・・・。
(塚本)おんなは度胸ですから(笑)。
(鈴木)でも実際にご覧になって出来ると思われたんですよね。
(塚本)動く、と思ったんです。そのフジに素晴らしい生命力を感じ、動くと思った。私の直感です。
(鈴木)直感力というのはときに本当に大きな原動力になるものですね。直感といえば、青島さんも、端から見れば無謀なキャリアといいますか(笑)、ニューヨークで巨額マネーを動かしていた生活から、杜氏への転職。杜氏になるというだけでも大変な選択なのに、当時、我々はそんな世界にいる人が帰ってくるはずないだろうと思っていました(笑)。
(青島)自分でもよく帰ってきたなと思います(笑)。酒蔵で生まれ育ちましたが、土日休みもなく早朝から汗を流して働きづめで、イヤなところばかり目に付いて、一日も早く家を出てやろうと思っていました。酒造業は当時、構造不況業といいますか、大手メーカーが市場を席巻しており、地方の中小酒蔵は下請けで何とか生き延びていたという状況でしたから、社長である父も、蔵を継がなくてよい、学校だけは出してやるから自分の道は自分で決めろと言っていました。
私はこれ幸いと、家を出て、外へ外へと目を向け、そういう仕事に就きました。最初は東京で就職し、転職してニューヨークに行き、これで実家から逃げ切った、もう二度と戻ることはあるまいと思いました。20代前半の自分にとっては、刺激や醍醐味があって、金銭的にも余裕がある仕事でしたから、さらにその世界でステップアップしようと無我夢中でしたね。
ニューヨークというのは世界中からいろいろな人種が集まり、自分たちの居場所を必死に創ろうともがく街です。自分たちのアイデンティティといいますか、自分たちが何者かを探る、そんな毎日です。自分も振り返って日本という国、藤枝という故郷について外から見直すようになり、今まで気がつかなかった、山野の豊かさや四季の美しさ、蛇口からひねる水をそのまま飲める・・・そんな、土地の宝といったものに価値を見出すことができたのです。
さきほどこなみさんが1000年のモッコクの木のことをおっしゃっていましたが、うちで親父がやっている酒蔵というのも、その土地の長い歴史に育まれ、ああいう酒が出来るんだなあと思うと、地域の恵をいただいて造る酒というものに愛おしさを感じました。そういうものを、自分の代で簡単に無くしてしまってよいものだろうかと。
お金というものは資本主義の世界では大切な血液のような存在です。しかしこれは他の人にも任せられる仕事です。日本人が100年1000年単位で続けてきた仕事というのは誰しも出来るものではないし、おこがましいのですが自分に与えられた使命ではないかと思うようになりました。私はそれまで酒のサの字も知らなくて、知らないどころかまったく飲めないのです。そのおかげか味覚と嗅覚には自信があるので、家に戻って酒造りを継ごうと決意しました。
(鈴木)私は最初、青島さんが戻ってこられると聞いたとき、そういう世界にいた方ですから経営に専念されるだろうと思ったら、製造現場に入って杜氏の弟子になった。これは驚きました。一般の方はあまりご存知ないかもしれませんが、酒蔵のオーナーが杜氏になるというのはかなりレアなケースだったのです。よく考えると、教えるほうも教わるほうも難しい状況ではなかったのですか?
(青島)会社経営も大事なことですが、酒造りをちゃんと引き継いで、つないでいくということが最も大切だと考えました。それがなくては青島酒造は継続しないだろうと。父にも「酒造りをやりに戻ってきた」と言いました。それまで盆や正月も家に帰らない自分でしたから、父からは「お前、ニューヨークで何かやらかして居づらくなって逃げ帰ってきたのか」と言われました(苦笑)。
酒造りの職人を束ねる棟梁・杜氏とは、伝統的な徒弟制度の世界の人ですから、そこに経営者の息子が入るというのは杜氏や蔵人たちも非常にやりにくかったと思います。父も心配して「それはやめとけ」と強く言いました。今でも酒蔵で技術を継承する上でネックになる点ですね。それがうまくいかずに、その蔵独特の味が途絶えてしまった酒蔵さんも少なくありません。
ただ、うちの場合、少人数が幸いしたといいますか、私が戻ってきた当時、杜氏と蔵人2名に両親、総勢5名で造っていて、私が多少なりとも戦力になることで現場が助かるという状況でした。杜氏さんは私が生まれる前の年、私の母が嫁いだ年に蔵入りした人で、「奥さんとは同期入社だ」というのが口癖でした。ですから私が「杜氏さん、ボクも酒造るよ」と言ったとき、とても喜んでくれました。
(鈴木)家族の一員のような存在だったんですね。
(青島)そうですね。杜氏さんに弟子入りしてからは、母屋ではなく、蔵人の寝所に布団を持ち込んで、杜氏さんたちと文字通り寝食を共にしました。社長も我慢してくれただろうし、杜氏さんや蔵人さんたちもずいぶん我慢してくれたろうと思いますが、その中で力をつけ、周囲に認めてもらわないと酒造りを継ぐことはできないと、自分としてはかなり困難な選択をしたと思っています。
(鈴木)ある意味、青島さんは酒造りに没頭できる環境に恵まれたともいえますが、酒造業にしろ造園業にしろ、端から見ると保守的で古い常識や慣習がときにはカベになったのではないかと思います。お2人はどうやってそのカベを乗り越えられたのでしょう?
(塚本)私は、30歳の頃から造園業界の中では「クソババア」と言われてきました。
(鈴木)えー!?
(塚本)造園業は99.9%男社会なんです。社長の女房だから、親方の奥さんだからというのもあったと思いますが、同業者からの風は厳しかったですね。職人さんは親方の奥さんという遠慮もあったと思いますが、それでも現場で私から口出しするのは許されませんでした。
聞けばいろいろなことを教えてくれますが、造園業界や土木業界では「女のくせに」という目で見られました。設計事務所に打ち合わせに行くと、どこの誰だ?という顔をされます。「お前ら下請けだから」とか「最後に植えりゃいいんだよ」とか、ここは日陰になるから植えないほうがいいと言っても「デザイン上ここでいいんだ。黙って植えろ」と命令される。「お前らが口を出す立場ではない」と。
ですから、造園業は下請けになってはいけないとつくづく思いました。下請けではなくコンサルタントになるべきだと。女性が自分の意思で造園会社を造り、造園設計を担当したのは、私の前にはいませんでした。今ではずいぶん増えましたが、私が起業した30年前には、何を言っても「女のくせに」と言われましたね。
ただ、青島さんと違って、私は現場で丁稚奉公のような修業はまったくしなかったので、従来の常識とは違う発想で木を見ることができました。まったく新たな発想で治療ができたのです。たとえば石膏でギブスをして幹の切り口を養生をするとか、移植が困難な巨木ならばくの字の鉄板を打ち込んで鉢植えに移植し、鉢植えごと移動させるというように、今までにない手法を自分で考えて出来たのです。伝統技術も大切ですが、自分でその枠にとらわれない、ということを心がけました。
(鈴木)確か、フジの治療に日本酒を使われましたね。
(塚本)フジはお酒が大好きなんですよ。フジが弱ったら酒粕を、マツが弱ったらスルメを煎じたものを入れなさいという通説はあったのですが、土壌に有効な微生物にアミノ酸等の栄養分を与えるということなんですね。フジを移植した後、治療に苦労したときは、國香さんの酒粕を使わせてもらいました。
(鈴木)木をいのちあるものとして、子どもが怪我したときに手当てをするように治療されたんですね。
(塚本)自然のメカニズムを人間と同じように考えます。この木が自分だったら、どうしてほしいかと。
足利の大フジ移植当時、、私はまだ40代でした。お手伝いしてくれる地元足利の造園関係者はほとんどが50~60代です。移植工事の前、みなさんに集まっていただいたとき、「自分が指揮をとらせていただきますが、成功したらみなさんのおかげ。失敗したら私個人の責任です。その上でどうぞご協力ください」「私の指示には従っていただきます。そのお約束をしていただけますか?」と確認をとりました。そうしないと、ベテラン職人の中には自分の経験上、塚本こなみが言っていることは間違ってるからと、自分のやり方をされてしまったらチームワークが取れなくなります。最初にその確約をとりました。
(鈴木)青島さんにも、ご自分がお生まれになった頃から勤めておられた杜氏さんに教わったことと、その教えから離れる瞬間があったかと思いますが・・・。
(青島)私は蔵に入ってすぐに杜氏さんの下につきました。喜久醉の味を継承するには杜氏さんの技術をマスターしなければという思いがあり、杜氏さんがやっていることをすべて学び取ろうと。杜氏さんも、これでもか、というくらい、しっかり教えてくれました。
ただ、今だから言えますが、(杜氏の部下である)蔵人さんたちからは「経営者の息子が1~2年、お遊びのつもりでやっているんだろう」という目で見られていたと思います。たいした扱いもされず、逆に、自分が試されていると思える場面もありました。それでも、いつか自分が杜氏になれたとき、その蔵人さんたちに戦力になってもらわなければならないと思ったら、とにかく自分は本気で酒造りを継ぐんだという意思を理解してもらわなければならない。何でもがむしゃらに取り組みました。10を言われたら、15~20やる。これは違うなと思ったことでも黙って言われたとおりにやる。最初の3年間はそうでした。
4~5年経ってから一人頭に数えてもらえるようになり、5~6年目ぐらいからきちんと教えてもらえるようになり、一人の職人として認めてもらえるようになったのです。
(鈴木)お2人のお話をうかがっていると精神力が強いというか、こういうのを人間力というんでしょうか、周りの圧力をしっかり受け止め、乗り越えてこられたんですね。
(青島)ただ、辛いと思ったことはないですね。単なる仕事として、カネを得るためにやっているんじゃなくて、思いを持って取り組んでいましたから。以前はパソコンの前に座ってまったく動かない仕事でしたから、重いものを背負って階段を昇り降りするような現場仕事にカラダが慣れるまでは確かにきつかったけど、辛いとは思いませんでした。
(鈴木)目指す目標がしっかりしているからですね。(つづく)