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杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

しずおか地酒研究会20周年記念酒完成!

2016-12-21 15:52:29 | しずおか地酒研究会

 しずおか地酒研究会の20周年記念酒が完成しました。藤枝の杉井酒造で造っていただいた杉錦生酛純米酒。当会の記念酒ラベルで杉井酒造の取引先に売っていただくことになりました。

 

 原料は静岡県産誉富士で酵母ももちろん静岡酵母HD-1。20周年記念事業の一環として10月2日に会員有志の皆さんと生酛の酛摺り体験をし、11月5日に仕込み、12月5日に上槽となりました。年内先行発売となった生原酒はアルコール度数18.3%、酸度1.9、日本酒度+8。今年は全般的に米が溶けにくいといわれ、もろみの前半は想像以上に発酵がスローペースだったようですが、誉富士&生酛の底力でしょうか後半はグーンと上がってきて結果的に日本酒度+8、アルコール度数が18度以上と堂々たる酒になりました。 

 今回の仕込は米の総量1000㎏で原酒が1800㍑ほどできたそうで、うち生酒で約600リットル詰めて年内に生原酒で発売。残りは加水・火入れし、一升瓶で780本ほど詰め、年明けに発売する予定です。

 

 蔵元杜氏杉井均乃介さん曰く「日本酒度は切れていますが、酸度も高めで生酛の純米らしいコクがあると思います。搾ったあと日数が若いうちは渋く感じますが、生酒はだんだん甘味が出てくるので、それからのほうが呑みやすいかもしれません。吟醸香は高くはありませんが、含香にHD-1らしい香りを感じます。甘すぎずしっかりした味わいの生酒です」とのこと。いち早く入荷し、試飲された酒屋さんからも「華やかな香りとほどよい旨味があってわかりやすい美味しさ。幅広くおススメできそう!」とお褒めのメールをいただきました。

 ラベルは、10月2日の酛摺り体験に参加してくれた会員さんが寄せ書きしてくれた手書きメッセージを、参加者の一人でグラフィックデザイナーの山中恵美子さんがデザインし、オフィストイボックスさんが加工処理してくれました。最近の若者や外国人を意識したスタイリッシュな日本酒ラベルとは、ある意味対極的かもしれませんが、造り手&売り手&飲み手の自然発酵な酒縁をモットーにしてきた地酒研らしいでしょう。杜氏の杉井さん直筆のサインもちゃんと入ってます!

 

 お値段は4合瓶で1,728円(税込)、一升瓶で3,240円(税込)で各サイズとも限定150本。販売先は以下のとおりです。

 

◆ 静岡県西部地区

旭屋酒店(浜松市中区)HPはこちら

原口酒店(牧之原市)HPはこちら 

酒のバオオ(浜松市北区三方原)HPはこちら

 
 
◆静岡県中部
 
とみた屋 (静岡市葵区駒形通り)HPはこちら
 
松永酒店 (静岡市葵区五番町)HPはこちら
 
篠田酒店 (静岡市清水区入江岡)HPはこちら
 
アヴォートルサンテ (静岡市葵区茶町)HPはこちら
 
野中酒店 (静岡市駿河区鎌田)HPはこちら
 
松永酒店 (焼津市中港1丁目)TEL 054-628-5116
 
萩原酒店 (焼津市小土)TEL 054-628-4017
 
万都酒店 (藤枝市岡出山)TEL 054-641-6513
 
ときわストア (藤枝市岡部)TEL 090-3953-4395
 
 
◆静岡県東部
 
丸茂芹澤酒店 (沼津市)HPはこちら
 
和楽 (三島市)HPはこちら
 
島崎酒店 (富士市本市場新田)TEL 0545-61-0244
 
 
 
◆静岡県外
地酒のにしじま酒店(大阪府茨木市)HPはこちら  
 
藤川酒店 (愛知県豊橋市)HPはこちら
 
SAKEBOXさかした (大阪市此花区高見1丁目)TEL 06- 6461-9297
 
中村酒店 (大阪)
 
酒倶楽部いちの (神戸市東灘区)HPはこちら
 
豊醸酒店(東京都板橋区赤塚)TEL 03-3930-0304
 
 
 
 しずおか地酒研究会の名前がデカデカ出ている限定酒にもかかわらず、当会とは今までご縁のなかった県内外の酒販店さんも、杉井酒造の事前案内で予約をしてくださったのです。もちろんそれだけ杉井さんとのパイプが強い酒販店さんだと思いますが、このお酒が新しいご縁をつないでくれるかと思うと感無量です。
 
 12月23日(金)にお披露目を兼ねた20周年感謝祭(こちらを参照)を開催しますので、お時間のある方はふるってお越しくださいませ。
 

 


河村先生の遺産(その1)品質勝負から品質評価へ

2016-12-14 01:30:49 | しずおか地酒研究会

 前回紹介した河村傳兵衛先生の28年前の講話『品質勝負』について、「今読んでも色褪せない」と感想をいただきました。「あまりに偉大過ぎて近寄り難い存在だったが、一度お会いして直接お話を伺うべきだった」という若い酒販店さんも。お通夜の後、東京から駆けつけた松崎晴雄さんと静岡駅の居酒屋で先生への献杯を交わしたときは、この講話を私が(酔った勢いで)大声で朗読し、松崎さんは「当時から広島、石川、秋田を意識していたとは凄すぎる」と唸っていました。

 28年前の講話でもこれだけ力のあるメッセージになるならば、もっとちゃんと、先生の功績を伝えていかねば…と切に感じ、少しずつでも紹介していこうと思います。

 

 

 今回は、しずおか地酒研究会の20年間の活動資料の中から、28年前の講話『品質勝負』の鑑評会出品酒と市販酒の違いに対する河村先生のアンサー&アクションをベースにした内容として、平成13年(2001)9月に開催した『しずおか地酒塾~どうなる、どうするお酒の評価』をピックアップします。

 この年、全国新酒鑑評会の主催者である国税庁醸造試験所が民営化し、独立法人酒類総合研究所に組織変更したことを契機に、鑑評会も大きく変わりました。出品が有料制となり、経費を払えば出品自由となったのです。それ以前は、3月に開かれる県の鑑評会、4月の地方国税局の鑑評会に入賞しなければ5月の全国には出品できないという暗黙のルールがありました。

 全国新酒鑑評会の変化を機に、河村先生は静岡県清酒鑑評会の審査方法をガラッと変え、結果的に大きな論議を呼びました。品質コンテストの審査基準を変えるというのは、出品者たる造り手にとってはもちろん、受賞酒を販促に活用する売り手にとってもエポックメイキングな出来事。結果は以下のとおりでした。

 

◆平成13年静岡県清酒鑑評会 県内27社99出品(吟醸の部51、純米の部48)

〈吟醸の部〉①喜久醉 ②國香 ③千寿 ④富士正 ⑤若竹 ⑥菊源氏・出世城 ⑧英君 ⑨小夜衣 ⑩磯自慢(以上入賞10社)

〈純米の部〉①國香 ②出世城 ③高砂 ④喜久醉 ⑤菊源氏 ⑥千寿 ⑦磯自慢 ⑧若竹・英君 ⑩初亀 ⑪満寿一(以上入賞11社)


◆平成13年名古屋国税局酒類鑑評会 東海4県対象/順位は首位賞のみ発表

〈普通醸造の部 県内入賞〉開運*首位賞、君盃、静ごころ、英君、菊源氏、磯自慢、志太泉、葵天下、花の舞

〈純米醸造の部 同 〉菊源氏、初亀、葵天下


◆平成13年全国新酒鑑評会 全国1133出品 金賞308 入賞599 

〈県内金賞蔵〉忠正、静ごころ、英君、菊源氏、磯自慢、葵天下、出世城

〈県内入賞蔵〉萩錦、君盃、開運、花の舞

 

 この顔ぶれを見て、静岡酒に精通している人なら論議を呼んだ理由は想像できるでしょう。実際、河村先生が静岡県の審査をどう変えたかは以下の記録を読んでいただくとして、先生が品質勝負と謳った静岡吟醸を、今度はどう評価していくのか、さらに言えば地酒という地域特性をどのように発信すべきか、今読んでも実に多くの示唆に富んだ内容です。

 

しずおか地酒研究会 しずおか地酒塾2001

「どうなる、どうするお酒の評価」~造る人・利く人・飲む人それぞれの主張 

(2001年9月26日 あざれあ第二会議室にて開催)

 

●審査方法と審査基準(蔵元の意見)

 今年(2001年)の静岡県で実施された審査は、5人の審査員がまったく同時に、まったく同じ条件(審査室を一定の温度に保ち、各審査員ごとに専用のグラスで、出品酒の温度・量も均一にする)で行った。今までにそれが行われていなかったという意味において画期的であり、出品者側としては公平な方法だと受け止めた。また同時に改善点もいくつか出たように思う。たとえば5人という審査員の数は妥当か(それまでは8~10人)。審査員の適正をチェックする機能はあるのか等。いずれにせよ公平公正な方法で審査が行われることは、関わるすべての者にとって良いことは間違いない。改善を重ねながら良い審査方法を創り上げていくことが大切である。
 去年まで全国新酒鑑評会の予選としての位置づけが色濃かった地域国税局鑑評会も、純米部門の創設や秋開催への変更等新たな試みを始めている。静岡県独自の審査基準をもつということは、県の鑑評会の存在意義を問い直す意味深いものになるだろう。

 

●酒造組合の自主性を!(蔵元の意見)

 県、国税局、全国の各結果が全然違うということに疑問を感じない人はいない。よくお客さんからも聞かれた。県の鑑評会は県の組合が主催者である。組合が主導権を持ち、運営をきちんと推し進めるべき。外部の団体から組合に対して助言や提案をもらうのもよい。組織や人事が大きく変わろうとしている今の時代、タイミングを逃す手はない。規格、審査員、方法などはっきりとした目的をもって定めることも必須である。

 

●わかりやすい基準を(蔵元の意見)

 人間の判断には好き嫌いがあり、体調にも左右されるので、審査の公平さは考えれば考えるほど大変だ。しかしながら今までの歴史、杜氏のやりがい、消費者の期待を考えると、なにがしかの鑑評会は必要だと思う。出品酒は鑑評会用に特別仕様にするなど市販酒とのギャップがあり、多くの問題を抱えている。以前、千葉の酒販店が市販の大吟醸を集めて蔵元と消費者による品評会を開いたが、そんな会があってもよいと思う。ここ数年の県鑑評会でおかしいと思うのは、物事を判断する基準に「好き嫌い」や「損得」があるということ。他人の好き嫌いやお仕着せや別の判断基準が入ると透明性がなくなり、足元から権威が失われ、消費者からも横を向かれてしまいかねない。誰にもわかりやすい基準を作り、消費拡大に関与し、注目される会になってほしい。

 

●自醸蔵にとっての鑑評会(蔵元の意見)

 蔵元自身が自分の目の届く範囲の小仕込みを行っている蔵では、製造計画との調整や人手の問題など様々な理由から、県(3月)、名古屋局(4月)、全国(5月)と各鑑評会にコンスタントに出品することが難しくなっている。当社も今年は出品できなかった。現在の出品酒のほとんどは、杜氏の技術研鑽という本来目的から、原料米を35~40%まで磨く大吟醸酒で、どちらかといえば香りが重視される。多くの研鑽が得られる高い目標になるため、当社でも製造するが、量は少なく、看板商品というわけではない。当社では精米歩合50~60%の純米系で発酵から得られる旨味ある酒をつくるのが一番のテーマ。蔵元が目指すものと鑑評会の評価基準にはズレがあるように思う。杜氏にとっては最高級の大吟醸酒、しかも出品酒が最も腕の見せ所だろう。彼らが、だから低精白の造りに手を抜いているとは言わないが、蔵元はそういう酒も全力投球である。経営者と従業員の気持ちの差はおのずと出てくる。自醸蔵が増えつつある今、鑑評会の出品基準や評価基準がもう少し多様化してもよいのではないか。

 

●一石を投じる審査(酒販店の意見)

 一般公開で県鑑評会上位酒を試飲して感じたのは、昨年までの入賞酒に比べ、大人しくまとまっている酒が多く、香りが一気に広がるような酒はなかった。正直な感想としては、一位になった酒はどちらも素晴らしかったが、入賞酒の中には従来の価値観からすると今一つ迫力のなさ、物足りなさを感じた。選考基準に、賞のための酒を除外し、なるべく市販酒と変わりのない酒を選ぶという一つの線があったようだ。鑑評会とはいったい誰のためにあるのか、原点を見つめ直す選考だろう。名古屋局については静岡県とは対極になる選考がなされたようだ。県では入賞すらしなかった開運が2年連続で首位賞に輝いた。全国の結果は顔ぶれから判断すると県と名古屋局の中庸に落ち着いた感がある。

 店頭では、金賞をとったからといってその蔵の酒をすぐに推奨できるほどお客様は甘くはない。あくまでも通常流通している市販酒が旨くなければ、こちらとしても仕入れは出来ない。以前は金賞受賞の事実だけで酒が売れた時代もあったが、今は、どの蔵のどのタンクが受賞したのか?米は?酵母は?という情報を含めての評価になっている。自戒を込めて言えば、そんな耳年増のような飲み方でよいのだろうか?とも思う。

 全国規模の鑑評会の存在意義とは全国的な基準があるということ。全国どこの蔵も同じような入賞酒づくりに励む今の状況は果たして健全だろうか?その全国の鑑評会が最上位で、次が国税局で、その下に県の鑑評会があるというヒエラルキーは打破すべきである。いっそのこと今のように広島に一堂に会する鑑評会はやめにして、地域ごとに分割した全国鑑評会を行えば、個性と地域性が出て面白い。どの地域に出品するかもフリーにしても良い。実現可能かは別にして、新潟の蔵が香り重視の地域鑑評会に出品して賞を取る…そんな図式があっても良い。したがって県が独自基準を決めるのは良いことだと思う。しかしその基準が一部の人たちの価値観だけで決められるのはいかがなものだろう。

 

●情報公開の大切さ(消費者の意見)

 今回の静岡県の審査は、市販酒レベルでという意見を聞いたが、どの蔵が市販酒で出品したのかわからないし、審査の基準もよく分からない。そもそも鑑評会は一般消費者を意識していない閉鎖的なものだと思うが、かといって、鑑評会が酒造りの技を磨き、その成果を発表する場であるという蔵元が現在どれだけいるだろうか。審査基準が変わっても金賞受賞酒や受賞蔵と銘打った酒を多くの蔵が出している。売るための手段になってはいないか。鑑評会を続けるなら審査基準や方法、その他の付属した検査などをもっとわかりやすく公開することができればよいと思う。嗜好品を審査するわけだから、より開かれた、閉鎖的でない鑑評会が望ましい。一般公開は売り手や飲み手に出品酒を通してその蔵の実力を知るよい機会だと思う。

 

●参考意見/当社が全国新酒鑑評会に出品しない理由(県外の某蔵元が取引先に向けた説明書より)

 今回より全国新酒鑑評会の主催者が国の機関である国税庁から、民間団体である独立行政法人に代わり、出品料を払えばどこでも出品することが可能になった。従来は地方国税局での審査が「予選」になっており、その予選を通過して初めて全国へ出品可能となったが、今年からどんな酒でも出品できるようになったということだ。実際、鑑評会の予審(一次審査)を通過できなかった酒の中には、およそ吟醸酒と呼べないレベルの酒もいくつかあった。出品点数が増えても出品酒全体のレベルが下がってしまうのでは意味がない。

 近年、鑑評会で優秀な成績を収めるため、カプロン酸エチルなど強い香りを作り出す酵母株を使用することが必須となり、そういう株が人為的な突然変異や株同士の交配などにより、全国で開発されている。香りが強い酒は、香りと味のバランスからすると、香りに対して負けない味の濃さが必要となる。その結果、華やかさを超えて鼻につくほどの香りと、甘みが強く、クドい味の酒が入賞酒の主流になってきた。香りの強すぎる酒は、最初にひと口ふた口は飲めてもだんだん飲みづらくなってくる。香りと味のバランスが取れ、後味のキレの良い酒は飲み飽きせず、次々と杯が進む。当社が目指す吟醸酒はもちろん後者である。

 そもそも鑑評会の目的は酒造技術者の技術練磨であったはず。誰が造っても香りが出る酵母を使い、およそ飲める酒とはかけ離れた味を酒を造ることにどんな意味があるのだろう。このような酒造りを続けて行けば、吟醸造りの技術自体が廃れていく。本来、吟醸造りは酵母の品種特性だけに頼るのではなく、麹造りなどの工夫で酵母の隠された能力を引き出し、香りと味のバランスを競うものだったはず。飲んでうまい酒、消費者に喜ばれる酒を造ることが蔵元の本分であり、様々な酒造りに対応できる技術の幅を身に着けるため、精進することこそが吟醸造りの本質ではなかったか。

 

 この日の参加者は、静岡県清酒鑑評会の審査員を務めた松崎晴雄さん、そして造り手8名・売り手6名・飲み手21名。こういうテーマを公開討論する場に、当事者である蔵元が8名も参加し、本音を語ってくれたというのは大変なこと。改めて読み直して冷や汗をかきました。河村先生は会の活動には直接かかわってはいませんが、間違いなく先生が火をつけた熱い熱いディスカッション。先生の大いなる遺産に相違ありません。

 先生が平成13年から導入した静岡県方式の審査は、先生が退官された後、従前の方式に戻りましたが、「静岡らしい香りと味のバランスのとれた酒」を評価する基準だけはしっかり残りました。その結果「県鑑評会には出品するが、名古屋局や全国には出品しない」蔵や、逆に「名古屋局や全国には出品するが県鑑評会には出品しない」という蔵も出てきました。ディスカッションで挙がった声が奇しくも反映されたといえます。

 

 静岡県の酒は、昭和61年の全国新酒鑑評会での大量入賞によって注目を集め、その後も良しにつけ悪きにつけ、鑑評会の成績が造り手や売り手のモチベーションに大きな影響を与え続けてきました。吟醸酒ブームが一段落し、品質評価を取り巻く環境が多様化した今の世代からすると、ずいぶん古めかしくカタっ苦しい議論をしているなあ~と思われるかもしれませんが、時代の変わり目に河村先生が投じた一石を、造り手と売り手と飲み手が受け止め、同じ席で真剣に考え、意見を交わしたこの時間は、決して無意味ではなかったと思いたい。こうと決めたら一心不乱に追究せねば気が済まない先生の職人魂のようなものが、我々にも乗り移ったかのように真摯に語り合い、吟醸王国の国民たる資格を得た・・・そんな気がしてなりません。

 先生の大いなる遺産、このささやかすぎるブログでしか発表の場がないというのは我ながら情けない話ですが、とりあえず今は、書くことが先生への供養になると信じることにします。


しずおか地酒研究会20周年歳末感謝祭のご案内

2016-12-06 14:48:25 | しずおか地酒研究会

 今年3月から、20周年の記念行事を続けてきたしずおか地酒研究会。あっという間の年末です。20年前の12月には「年忘れお酒菜Party」と銘打って、新酒や熟成酒を集め、山田錦の玄米ごはんや地元農家のお母さんたちの手作りお惣菜を味わう忘年会を開催したことを懐かしく思い出します。

 20年目の今年は、10月に杉井酒造で生酛造り体験をさせてもらいました。

 12月5日に上槽、中旬に瓶詰されるこの酒に20周年記念酒ラベルを貼らせてもらい、好きな時間に誰でも自由に来てもらって気軽に試飲を楽しめるオープンパーティーを企画しました。お時間の許せる方はぜひ遊びにいらしてくださいませ!

 

 

 

しずおか地酒研究会 20周年記念歳末感謝祭

SAKE AFTERNOON PARTY

 

しずおか地酒研究会20周年歳末感謝祭として、地酒アフタヌーンパーティーを企画しました。10月に生酛造り体験をさせてもらった杉錦で20周年記念ラベル酒が完成。そのお披露目と、年末に出そろう各蔵の新酒を存分にテイスティングしていただきます。お気に入りのお酒はその場でお買い求めもできます!

場所は藤枝駅から徒歩10分のお洒落カフェ。テイスティングのお時間はたっぷり6時間設けましたので、お好きな時間にお立ち寄りください。スペシャルゲストのトーク、生演奏会、映像鑑賞も予定しています。

 

■日時 2016年12月23日(金・祝) 13時~19時

 

■会場 喫茶ラペ(藤枝市前島2-29-10-2 TEL 054-637-3511) 

藤枝駅南口より徒歩10分、駐車場有。HPはこちらを。


■入場無料 どなたでもお気軽にお立ち寄りください!

 

○来場者全員にしずおか地酒研究会20周年記念酒 1杯サービス。

○県内蔵元の新酒&冬のおススメ酒の有料試飲できます。

○記念酒&お気に入りのお酒はその場でお買い求めできます。

○ラペ特製酒肴(有料)、こうのもの和ピクルス(有料)、巨大胚芽米カミアカリのおにぎり(有料)ご用意します。 

○お車のかたにはラペ自慢のコーヒー&ソフトドリンク(有料)をどうぞ。 

○静岡新聞社刊「杯が満ちるまで」(鈴木真弓著)、日本経済新聞社刊「ロジカルな田んぼ」(松下明弘著)サイン即売会します。

 

イベントプログラム タイムスケジュールは変更する場合があります

1315分~1345分  20周年記念酒&志太美酒20年を語る/杉井均乃介氏(「杉錦」蔵元杜氏)


1345分~1430分  コントラバス独奏会~酒造り唄を奏でる/土田 卓氏(コントラバス奏者)


1530分~16時  映画「カンパイ!~世界が恋する日本酒」配給秘話&ミニシアター経営の面白さ/川口澄生氏(静岡シネギャラリー副支配人)


16時~1630分  ドキュメンタリー「吟醸王国しずおか」パイロット版&フォト集「杯を満たすまで」鑑賞会


17時~1730分  松下米の20年&カミアカリおにぎり試食会/松下明弘氏(稲作農家)   

 

 

協力  喫茶ラペ、エマギャラリー、ときわストア 

■主催・問合 しずおか地酒研究会(鈴木真弓) mayusuzu1011@gmail.com

 

 

 20年前、まだ「地産地消」という言葉もなかったころ、地域の酒や食の価値を理解してもらうために、まずは口コミリーダー的な人たちに丁寧に紹介することから始まった活動。案内は郵送やFAXで送らなければならない時代で、氏名・住所・勤務先の情報が必要だったため、やむをえず会員制を取ったのですが、今やネットを通じて気軽に幅広く情報発信できるようになり、会員と非会員を区分する必要もなくなりました。会長や役員や会則があるわけでもなく、言い出しっぺの自分が思い付きで企画するものを、そのとき手伝ってくれそうな人に声をかけ、参加していただけた人とご縁をつなぐ・・・そんな緩~くニュートラルな体裁をとってきました。20周年の歳末感謝祭も、その日に時間が許せる方と、ゆるゆる楽しめたらなあと考えています。

 20周年記念酒が完成するタイミングを考えたら、この日しかないという12月23日。たぶん多くの皆さんがクリスマス行事や忘年会の予定がおありだと思います。会場をお願いした喫茶ラペさんも、本来ならば稼ぎ時で、オーナーさんからしたら内心はた迷惑な話だったと思いますが、私自身、以前からこのカフェのシンプルかつ清潔な雰囲気が好きで、駅から徒歩圏内ということもあり、ここで酒の会が開けたらなあと憧れ、無理なお願いを聞き入れていただきました。

 オーナーさんも、やるからには店として恥ずかしくないものをお出しし、お客様に喜んでいただきたいと、特別メニュー&スタッフを用意してくださることに。記念酒の試飲や販売、トークセッション、『吟醸王国しずおか』パイロット版上映など自分が勝手に思い付いたプログラムを、ラペさん&多くの会員&ゲストが利益度外視で協力してくださり、実現の運びとなりました。感謝の言葉もありません。本当にありがとうございます。

 

 思えば20年間の活動も、シンプルに、地元で顔が見える距離にいるんだから「造り手・売り手・飲み手の和」を広げていこうと、さまざまなきっかけづくりを愚直にカタチにしただけのこと。酒との出合いに資格や条件は必要なく、知識や情報も押し付けられるものではなく、呑み手には、ほんの少しの好奇心と、きっかけ&タイミングが合えばいいんだと信じ続けてきました。反面、造り手や売り手の業界事情がよく見えず、周囲の人を散々振り回し、ご迷惑をおかけしたことも多かったと思います。

 年齢を重ね「足るを知る」ことを学び、自分の身の丈に合ったもので持続可能な活動を・・・と願いつつ、「こういうことをやったらみんな喜んでくれるだろうなあ」と欲張って、ついつい無理をしてしまいます。

 20年前、身の丈以上・分不相応の背伸びをして会を作ったとき、支えてくださった栗田さんは亡くなり、河村先生は第一線を退かれ、造り手や売り手も世代交代が進み、発足当時を知る先達や仲間は少なくなってしまいました。そんな中、今年の20周年の活動は新旧の酒縁者が、目的はさまざまでも一致協力してくれました。あらためて、地酒には地域の人をつなげ、まとめ、動かす力があるんだなあとしみじみありがたく思います。

 

 この先、今までのように個人の思い付きで周囲を振り回す活動が続けられるとは思えず、20年で一区切りかな、とも思っていますが、ある読者から『杯が満ちるまで』の巻末に書いたこの一節にとても共感した、という感想をいただき、自分でこう書いた以上、何かしら続けていかねば、とも思っています。

 

 蔵元と杜氏が足並みをそろえ、静岡らしい酒質の向上に汗を流すー30余年前に吟醸王国建設に臨んだ先達の「いろは」を、彼らはしっかり受け継いでいる。時代を共有する我らも、次の世代の呑み手に静岡の酒の味をしっかり伝えていかねば、と思う。

 

 とりあえずは20周年アニバーサリーの総括となる12月23日。どうぞよろしくお願いします!


志太杜氏―サカヤモンの伝統と継承

2016-11-03 08:29:03 | しずおか地酒研究会

 昨秋、静岡新聞社から『杯が満ちるまで~しずおか地酒手習帳』を出版した直後の2015年11月3日、旧大井川町藤守の大井八幡宮境内にある松尾神社で、氏子(志太杜氏経験者)の皆さんが集う例大祭におじゃまし、本の出版を報告させていただきました。唯一の志太杜氏継承者・青島孝さん(「喜久醉」蔵元杜氏)が大量購入し、氏子さん全員に配ってくださったのです。「志太杜氏のことを活字で残してもらえて本当にありがたい」と皆さんに喜んでいただき、自分の仕事にはちゃんと意味があったんだ・・・と胸一杯になったことを、一年後の今も思い返します。

 

 実は本に掲載できた「志太杜氏」の記述は、紙面の都合で草稿の3分の1にも満たないほんのダイジェストでした。今朝早く、1年ぶりに草稿に目を通し、今夜は亡き歴代志太杜氏、そして満寿一の増井浩二さんに献杯をしたいと思いました。当ブログをご覧の皆さまにもそんな気持ちになっていただけたら・・・と思い、全文掲載します。日の目をみなかった記事ですが、一字一句思いを込めました。ぜひお汲み取りください。

 

 

志太杜氏―サカヤモンの伝統と継承

 

志太地域の特性

 静岡県中部・志太地域には、磯自慢、初亀、杉錦、志太泉、喜久醉、若竹と6つの人気酒蔵が集積している。6蔵は平成4年から共同で毎年「志太平野美酒物語」という新酒イベントを自主開催しており、チケットは蔵元や酒販店ルートで即完売。イベントに参加する県内外のファンや関係者からは、志太地域が、ワイン産地のブルゴーニュやボルドーにひけをとらない酒の銘醸地だ、との声も聞かれる。

 この地に銘醸がそろった背景を探ってみよう。駿河湾沿いから大井川流域一帯に広がる志太平野には、西暦600~700年頃から酒造りの技術を持った帰化人が定住するようになり、各地の神社の祭礼にお神酒をお供えする目的で酒造りが発達した。中でも藤守の大井八幡宮(旧大井川町藤守)では度重なる大井川とその支流の氾濫を鎮める儀礼が盛んに執り行われ、氏子衆の中から酒造りを担う者を多く輩出した。

 志太郡史によると明治18年には64の酒蔵があり、明治34年8月に静岡県酒造組合が結成されると志太支部を立ち上げ、「醸造石敷及び買額に於て、優に第二位を締め、其の品質亦佳良なり」とある。

 同史には大正2年当時、200蔵あった静岡県内の酒造状況が記されている。

 

郡市名

製造戸数(蔵元)

職工数(杜氏蔵人)

生産石数

売上高(円)

田方郡

17

99

6,719

302,360

駿東郡

15

71

4,389

197,500

富士郡

15

85

4,593

208,680

庵原郡

10

53

3,358

151,110

安倍郡

17

44

5,976

268,920

志太郡

30

135

9,229

369,160

榛原郡

14

66

4,025

161,000

小笠郡

22

131

5,972

271,129

周智郡

5

22

808

36,360

磐田郡

16

122

7,130

320,850

浜名郡

23

195

9,328

419,760

引佐郡

2

13

567

25,515

静岡市

12

71

4,580

206,150

浜松市

3

42

2,564

115,380

200

1,153

69,238

3,051,874

志太郡史 第二編 人文 第九章産業 第六節工業より

 

 この表によると大正当時、生産規模で見れば浜名郡が第1位で、志太郡は酒蔵の軒数が最も多く生産規模は第2位という状況。浜名と志太に酒蔵が多い理由は、浜名湖や大井川という交通の難所拠点によって人や船舶が滞留し、酒の消費市場が一定規模で形成されていたのではないかと想像できる。

 

志太杜氏の誕生

 酒造りの技術が確立した江戸時代、この地域には関西の酒造り先進地から杜氏が招かれ、地元職人を指導した。その中から『志太杜氏』が生まれた。とりわけ丹波杜氏(京都)の影響が深く、志太杜氏の酒造り唄には丹波杜氏の酒造り唄に似た節回しがあるという。

 志太杜氏の多くは静浜村(旧大井川町)の藤守、下小杉、上小杉地区の出身で、大正末期から昭和初期の最盛期には末端の蔵人まで含めて100人以上いた。中には親子・兄弟合わせて一家で2~3人輩出した家もあったという。彼らは志太地域を始め、静岡県下全域の蔵元に招かれ、隣県山梨や、海を越えてアメリカまで出稼ぎに行った者もいた。

 大井八幡宮のお膝元・藤守地区出身の杜氏は、大正元年に結成された『志太榛原杜氏組合』の中心的存在になった。名杜氏として誉れ高かった田中常蔵氏の呼びかけで組合が結成され、初代組合長は『松若緑』の蔵元岩本信之助氏が就任。組合員として「田中常蔵、吉原鶴一、谷沢義郎、横山福司、大塚春治、天野鋭郎、加藤正、横山保作、田中政治、大塚正市、田中辰次郎、加藤省吾」の名が連なった。

 昭和9年(1934)には酒造神・京都松尾大社(注)から大井八幡宮に松尾神社が勧進された。社には現在も「明治百年(昭和43年)当時 藤守酒造従業員」という扁額が掲げられ、以下の杜氏名が認められる。

 

吉川一郎、田中辰次郎、田中清一、油井富士男、加藤眞一、吉川玄一、横山保作、横山政雄、太田良金雄、田中政治、吉川利男、青野静雄、青野壽之助、青野敏司、蒔田幸司、小野田斉、池上京一、鈴木虎一、加藤省吾、加藤松太郎、小野田金次、横山松男、横山順治、青野仁、岡本光男、橋本明、田中守男

 

 酒の神様を勧進するほどの力を持つ杜氏集団が形成された理由は、八幡宮の儀礼に伴うお神酒造りによって酒造の素地があったこと、大井川の豊富な伏流水に恵まれ酒造りに適していたこと、湿地帯が多いため裏作が出来ず、稲刈りが終わる秋から翌年の田植えまでの半年間、酒造りに集中できたこと等が考えられる。

 藤守地区では16~17歳になった男性のほとんどが農閑期にあたる12月から3月まで酒造りに出稼ぎに出た。大井八幡宮は国無形民俗文化財『藤守の田遊び』で知られ、もともと旧暦1月17日に開催されていたのが、酒造スケジュールに合わせて3月17日に変更になったという。実際、藤守の田遊びの田楽踊りを全幕通してみると、お神酒をやりとりするシーンが多く、志太杜氏の伝統が神事によって受け継がれていることを、明快なビジョンで伝えていた。

    

 春、故郷に戻ってきた杜氏や蔵人は漁に出る者、茶師に早変わりする者もいた。茶師の中には“藤守の黒ふんどし”と異名をとるほど優れた職人もいた。自宅で過ごすのは春の田起こし、田植え、秋の収穫期ぐらいで、年間の大半は家族と離れ離れの生活。季節労働の厳しさに耐えた彼らは、文字通り、地域の一次産業を支える貴重な担い手だった。

 

(注)京都の松尾大社は4~5世紀頃、桂川流域を開墾した渡来系氏族の秦氏により松尾山の神として奉斎された。秦氏が酒造を得意としていたことから主祭神の大山咋神が醸造祖神として全国の酒造家の信仰を集める。 

 

現代の名工に選ばれた志太杜氏

 杜氏がいくら優秀でも酒造りは一人ではできないため、杜氏は自分と一緒に酒造りに従事する蔵人を地元でリクルートし、チームを作って蔵に入る。ベストなチーム編成というと、杜氏を筆頭に頭(杜氏補佐)、分析1名、麹師1名、同補佐2名、酛師1名、同補佐1名、釜師1名、同補佐1名、働き頭1名、働き4名という15名編成。半年間、寝食を共にする職能集団として、チームワークは何より尊ばれるため、結果として同郷の気心の知れた者で固まることになる。 

 昭和に入ると不況のあおりを受けて廃業・転業したり、戦時中の国策で合併させられ、後に復活できずに廃業する酒蔵が続出した。さらに戦後、日本経済が復興すると、大井川の伏流水に恵まれた志太地域には大手食品会社や医薬品メーカー等が続々と進出し、地元で働き口が増えたことで酒造チームの編成は次第に難しくなっていった。

 かつて杜氏や頭を務め、一度は引退したベテランが蔵人として“職場復帰”する等、志太杜氏関係者が粉骨砕身努力する中、昭和61年(1986)には『満寿一』(静岡)杜氏の横山保作さんが現代の名工に選ばれ、関係者を明るくさせたが、志太杜氏組合は平成元年(1989)9月、77年の歴史に幕を閉じた。

  

 私は平成元年2月、寺岡酒造場という社名だった『磯自慢』(焼津)を訪ね、引退直前の志太杜氏横山福司さんにお会いすることができた。といってもこの日が初めての酒蔵訪問の駆け出しライターで、まともに酒造りの対話ができるような知見もなく、ただ一緒に記念写真を撮らせていただいたという記憶しかないが、初めてお会いした杜氏さんが志太杜氏だったことは終生忘れないだろう。

 

 二次産業の進出で失われたこの地の“半農半醸”の暮らし。時代が移り変わり、地域性を活かした農産物にふたたび注目が集まる中、伝統的な職業杜氏の生き方を継ぐ若者が、この先登場するかもしれない。実際、『志太泉』(藤枝)の杜氏を務める西原光志さんが、春、酒造業が終わると藤枝で製茶業に従事している。西原さんは関西出身ながら、縁あってこの地で半農半醸という生き方を選んだ。彼らのような人材が生き甲斐を持って暮らせる地域こそ、世界に通じる真の銘醸地、と言えるではないだろうか。

 

 

サカヤモンの言葉

 平成17年(2005)に刊行された国指定重要無形民俗文化財「藤守の田遊び」伝承千年記念誌に、生前の志太杜氏の貴重な証言が掲載されている。一部を引用させていただく。

 

横山政雄さん

「当地藤守地区は、戦前、志太榛原杜氏組合という大きな組織の中で、仕事として各地へ出稼ぎしていた。子供心に、そうした状況を、周り近所や父親から聞いたり見たりしながら、育ってきた気がする。私も中学卒業と同時に、冬場の仕事として、11月中旬より静岡勝山酒造へ行った。24時間気の抜けない、休日なしの毎日であった。

 今思えば嘘のような事だが、日当180円、足袋200円、酒一升(1,8ℓ)が380円くらいだったと思う。酒造りも、作りたくても米がなく、割り当て限度の中、三倍醸造という製法で、アルコール・糖・その他諸々の添加物を使用し、酒として世に出した。

 製造方法も、酒母作りや山廃は30~35日、速醸は酵母を添加し15~30日かけ、本仕込(三段)をし、20~25日熟成、アルコールを添加、搾り、清酒とする。今では想像も出来ないほど手ひまをかけての作業だった。

 45年以上従事した中、勤務状況、製造内容もいろいろ変わり、製造制限ありといろいろ経験した。現在は量よりも内容に伴う品質問題等々、世の代わりと共に酒造業界も大変な時代。」

 

 

青野眞児さん

「家にはよい水の出る井戸があった。父親は35年ぐらい志太杜氏をやった。横山保作さんが杜氏をやっていた多々良酒造のダットサンが、ほとんど毎日、車に積んだ大きな木の桶に酒の元水を汲んでいった。その井戸は、今の家を新築するときに閉じたが、水みちは今も残してある。」

 国指定重要無形民俗文化財「藤守の田遊び」伝承千年記念誌(同事業実行委員会刊 平成17年3月)より

 

 また東京女子大学の民俗調査団が1986年度に調査し、87年9月に刊行した『藤守の民俗』には昭和初期の酒造りの暮らしぶりが紹介されている。

「午前四時に起床、七時から八時半ごろ朝食、十二時に昼食。朝食と昼食は全員一度に休めるが、夕食は、醗酵して泡がでるのをかきまぜる泡番を交替でやらなければいけないため一斉には休めない。 

 休んだり、食事をしたり、眠ったりする部屋は、ヒロシキといって、蔵の中に酒造場とはしきられてあり、そこで杜氏から働きまで一緒にすごす。

 サカヤモンは正月三日間のうち、交替で一日だけ休める。

 酒造りの服装は、寒の時でも素足にモモヒキだった。

 また、酒蔵でやってはいけないこととして、髪に油をつけること、みかんを食べることなどがいわれる。みかんの中の酢酸が乳酸と反応するのを嫌うためということだ。昔は、女の人が蔵に入ってきてはいけないといわれた。それは、酒は神酒にしたりもするので、女性は体が汚れているということもあったからだそうだ。」

 「藤守の民俗」東京女子大学民俗調査団1986年度調査報告(1987年9月)より

 

 私自身が直接インタビューできた志太杜氏は、現代の名工・横山保作さんの下で満寿一酒造の頭を務め、後に杜氏を引き継いだ大塚正市さんだった。大塚さんは昭和2年、旧大井川町宗高の農家に生まれ、名杜氏だった父・大塚正太郎さんの背中を見て育った。藤守出身ではないが、16歳でこの道に入った志太杜氏だ。

「サカヤモン(酒造り職人)は藤守や下小杉の者が中心で、藤守あたりではいい若い者が冬場、家でゴロゴロしているとおかしく思われるほど、酒蔵に行くのが当然だったようですが、宗高ではそれほど多くなかったですね」と大塚さん。「それでも私の親父は伊豆の蔵元に年間雇用されるほど腕のいい杜氏でした。自分は酒屋に行くつもりはなく、母と一緒に家の畑仕事をやっておったのですが、あるとき、同級生に頼まれて岩本酒造の帳簿付けを手伝いに行ったら、ついつい現場仕事をやらされて、そのまま50年この道です」と苦笑いされた。

「同じ酵母、同じ麹菌を使っても、杜氏しだいで酒は変わる。大吟醸の麹造りは3昼夜かかるが、この間、摂氏40℃近い麹室で3時間おきに作業がある。経験と勘だけが頼りです。体力的にも限界の中、頼りになるのは仲間同士のチームワークですよ。杜氏の仕事とは酒と人の管理なんです」。

 

 インタビューは平成8年(1996)、志太ふるさと文庫『志太の伝統産業②酒造業』の執筆時に行ったもので、このとき資料として頂戴した大塚さんの自筆記録集『志太杜氏』には、こんな一文が掲載されていた。

 

 此の頃は杜氏か蔵人か区別が判らない程人員不足。杜氏であって杜氏でないのが今の杜氏である。呼名も杜氏ではなく『サン』か『チャン』である。人と人が触れ合い、笑ひ合ひ、心の結び付きこそ良酒誕生の源と確信して居る。限られて居る人員で皆、明るく元気で頑張って居ります。

而し杜氏には職責はある。酒と人の管理人であるからである。常に身心共に若返り、行動しなければならない。今朝も運動靴スタイルの杜氏を蔵人達は頼もしげに見つめて居た。

<酒造詩集より>

紅葉の葉が散り其風が吹く

酒造の時季がやって来た

俺の仕事は酒を造ることである

早朝こごえさうな星空を眺め一日の安定を知る

他より一層良い酒を造るため

皆んな一生懸命だ

汗みどろになる

夜は時々眼がさめる

わびしさのためか・・・。

酒蔵の空に月あり 鳥渡る

 

 昭和18年(1943)の『士魂』(藤枝)を皮切りに、『小夜衣』(菊川)、『君盃』(静岡)を経て昭和43年(1968)から満寿一に勤め、組合所属の最後の志太杜氏として職責をまっとうした大塚さん。その後、満寿一の蔵元増井浩二さんが、大塚さんや田中政治さんら引退組のサポートを得て志太杜氏の酒造りを継承した。(写真左から2人目)

 

 

志太流継承者・青島孝さん

 前述の東京女子大の調査報告『藤守の民俗』には、名工・横山保作さんのもう一人の弟子である田中政雄さんのこんな証言も紹介されている。

 

「昭和30~40年当時、酒造りの講習会が行なわれた。名古屋の方から酒造りの先生を3人ぐらい招き、焼津市一色の成道寺で、酒造りの講習を日を分けて7箇所の会場で行なった。50~60人ぐらい集まった。

 酒屋は蔵入りといって10月下旬~11月に入った。当時は、田植えも今とは違って6月下旬だった。遅い家では7月に入って植えた家もあるので、秋の収穫も遅かった。秋が終わるのはいつも祭りが終わってからだった。終わると一斉に蔵入りしたもんだ。

 酒の製造は3月に終わって一旦家に帰る。4月に入ると石津の水天宮さんのお祭りの日には酒造りに行った人達が大勢集まって、浜で一杯やったもんだよ。懐かしい思い出だ。それが終わると今度は火入れに行く。これは一週間ぐらいで終わった。

 この辺の人達が行った酒屋は、静岡市羽鳥の満寿一酒造、静岡市浅間の忠正酒造、静岡市手越の君盃酒造、清水市興津の老公酒造で、その後合併して出来た三和酒造にも行った。

 一番の思い出は、親方(杜氏)の厳しかったこと。近所の人達と一緒に仕事が出来たことなどだ。正月も帰れなかったっけ。」

 

 田中さんは、平成25年(2013)に亡くなる直前まで、藤守出身の志太杜氏保守本流を遺したいと切望されていた。その思いを継いだのが、『喜久醉』(藤枝)の蔵元杜氏青島孝さんである。

 

 昭和39年(1964)、青島酒造の長男として生まれた青島さんは10代の頃、「蔵の中にいる人たちは土日休みもなく早朝から汗を流して働きづめで、イヤなところばかり目に付いた。一日も早く家を出てやろうと思っていた」そうだ。酒造業は当時、構造不況業といわれ、地方の中小酒蔵は、灘や伏見の大手酒造会社の下請けで何とか生き延びていた時代。父の青島秀夫社長から「蔵は継がなくてよい、学校だけは出してやるから自分の道は自分で決めろ」と言われ、これ幸いと東京の大学に進み、大手証券投資顧問会社に就職した後、ニューヨークに渡り、巨万の額の金融商品を動かすファンドマネージャーに。「これで実家から逃げ切った。もう二度と戻ることはあるまい」と思ったという。

 

 ニューヨークは世界中から様々な人種が集まり、自分たちの居場所を必死に創ろうともがく街である。青島さんにも否応なしに自らのアイデンティティに向き合う日々が立ちはだかった。あるとき、体調を崩して1週間ほど休んだが、自分がそれまで座っていたデスクに別の人間が入っていて、何の支障もなく仕事をこなしていた。誰が担当しようと滞りなく物事が進むグローバルスタンダードの現実に、少なからずショックを受けたという。

「デスクにしがみついて、一瞬一瞬の判断で8000億円ぐらいの資金を動かしていたので、100億200億が端数に見えてしまう。そんな金銭感覚にずっといると、日本人が本来大切にしていた、ひとつのものをじっくり育てることや、みんなのチームワークでモノを作るということの価値に改めて気づかされる。カネを稼ぐことはもちろん大切だが、もっともっと大切なことがあるんじゃないかと。いろいろ思いめぐらしているうちに、実家で両親がやっている酒造りというものが、なにか愛おしいものに感じてきた」と振り返る。

 

 平成8年(1996)秋。この年の春、しずおか地酒研究会を立ち上げた私は、偶然この年の春から酒米山田錦の栽培を始めた松下明弘さんとともに、青島酒造の近くにある松下さんの田んぼで、帰国して3日目という青島さんを迎えた。しずおか地酒研究会で、山田錦研究家の永谷正治氏を招いて圃場見学ツアーを企画し、これにいきなり青島さんを帯同させたのである。

 実家の周辺で、松下さんや私のような者が出入りしている環境の激変に面食らったと思うが、青島さんはその後、酒類総合研究所や静岡県沼津工業技術センターで酒造研修を受け、喜久醉の杜氏富山初雄さん(南部杜氏)に弟子入りした。私は最初、青島さんが戻ってくると聞いたとき、「金融の世界にいた人なら経営に専念するだろう」「青島酒造が営利主義に走るような会社に変わるんじゃ…」とあらぬ心配をしていたのだが、彼は製造現場に入って杜氏の弟子になった。経営者として現場体験しておく、のではなく、杜氏職を継ぐ覚悟での弟子入りだ。これには驚いた。

 

 富山さんに弟子入りしてからは、母屋ではなく、蔵人の寝所に布団を持ち込んで、杜氏さんたちと文字通り寝食を共にした。社長も杜氏も蔵人もずいぶん気を遣ったと思うが、青島さんには「そういう環境の中にあえて身を置いて、周囲に認めてもらわなければ、酒造りを継ぐことはできない」との覚悟があった。

  8年じっくり修業をし、平成16年(2004)、富山さんの引退を機に杜氏に昇格。16酒造年度の酒造りが終わった平成17年春、青島さんは、藤守の大井八幡宮宮司、志太杜氏経験者、満寿一の社員等と共に、京都の松尾大社を日帰り参詣した。蔵で一時期、志太杜氏後継志望という若者を雇用していたことがきっかけで、大塚さんや田中さんとも知己を得ていたのである。

 参詣の翌日、田中さんが突然蔵にやってきて、青島さんに向かって「わしの酒造りを継いでほしい」と切り出した。松尾大社への道中、短い時間ではあったが、青島さんの酒造りに対する真摯な態度が田中さんの琴線に触れていたようだ。蔵元杜氏ならこの地を離れることはなく、夏場は松下さんと米作りに汗を流す“半農半醸”職人杜氏の魂も持っている。ライバル大塚さんが増井さんという後継者を得たことで、自分の技も誰かに、という思いがこみ上げてきたのだろう。

 青島さんは即答を避け、すでに志太杜氏の継承者は自分しかいないという覚悟を持っていた増井さんに相談をし、『志太杜氏』の名称は満寿一が保持し、喜久醉は藤守八幡宮松尾神の世話役を務める、という役割分担を取り決めた。

 その夏から、青島さんは蔵人を伴って田中さんの自宅に通い、志太流儀の講義を受け、冬場は田中さんに蔵へ来てもらって現場指導。主力商品である精米歩合60%前後の特別本醸造や特別純米の造りに志太流儀を導入し、肝となる技を会得した。「麹の品温が38℃だとすると、38℃のままずっと停滞しているのか、グングン上昇してきて38℃になったのかでは、まったく違う。気候風土の違いはやはり大きい」。岩手県出身の富山さんの南部流儀とはひと味違う、温暖な静岡・志太で培われてきた麹造りやもろみの温度管理については現場で多くを学んだという。

 

 寒冷地の酒造りとの違いが理解でき、志太の土地に合った麹造りを身に着けたことで、青島さんの酒はひとつの安定期を迎えた。それ以前、本人が「麹造りが安定していない」と自覚していた頃の酒は、タンクごとの酒質にバラつきが生じ、仕込みがすべて終わった後で複数のタンクをブレンド調整していたという。このやり方だとタンクからタンクへ酒を移す作業中に酒がダメージを受けるリスクを生み、瓶詰め出荷の時期もすぐには定まらない。

 志太流を会得し、すべての酒が安定したことで、その手間とリスクがなくなった。搾った順に瓶詰め出荷できるようになり、コスト削減にもつながったのだ。喜久醉ファンの一致した実感だと思うが、近年の特別本醸造や特別純米の酒質向上には目を見張るものがある。長年の愛飲者から見ると、まったくブレがなくなったと言ってもいいだろう。青島さんは「志太流の会得は経営にもプラスになった。この土地に根付いた酒造りがいかに大切か、それを継承することがいかに重要かを実感した」とかみ締める。

 

 

 

伝承を形に

 平成20年(2008)、田中さんから「もうこれ以上教えることはない」と“免許皆伝”を授かった青島さんは、「口伝として伝わった志太杜氏の技を、形にして残すべきではないか」と考え、増井さん、大塚さん、田中さんに相談し、伝書を作成することにした。机上で教わったことや現場で指導されたことを、武芸の秘伝を記した巻物のようなものに書き残す。学生時代から古流の剣術に親しんできた青島さんらしい伝承の具現化だった。

 平成21年(2009)、藤守八幡宮で執り行われた授与式では大塚さんから増井さんに『志太流酒造法大目録』、田中さんから青島さんへ『藤守流酒造法大目録』が渡された。河村傳兵衛氏が“立会人”として参加し、伝書に署名もされた。河村氏も若かりし頃、横山保作さんに麹造りを指導してもらったことがあるいわば子弟仲間。授与式の模様は静岡新聞にも大きく取り上げられた。

 平成23年(2011)には大塚、田中、増井、青島の4名で『志太杜氏伝承会』を立ち上げる。かつての志太杜氏組合とは異なり、純粋に技の伝承を目的とした会だが、大塚さんと田中さんは「組合が復活したようだ」と涙を浮かべて感激されたという。自分が唯一の後継者という覚悟だった増井さんも、この頃から積極的に「一緒に守って、次の世代に伝えていこう」と発言するようになった。

 

 その年の秋、満寿一酒造を訪ねた青島さんは、増井さんから『志太杜氏』の商標を譲りたいと告げられた。1年ほど前から体調が思わしくないと聞いていたが、このとき、増井さんがガンに冒され、余命が短いことを知らされる。すぐに商標移譲の手続きを取り、年末に特許庁から許可がおり、報告の電話を入れた時、妻智恵子さんから本人は電話口には出られない状態との返事。愕然として電話を置き、しばらくした後に増井さん本人から「ありがとうございました。これで安心です」というショートメールが届く。これが最期のメッセージとなった。

 

 平成24年(2012)1月、増井さんは49歳で急逝した。私にとっても自分と同い年の増井さんの死は、にわかに受け入れ難かった。参列した葬儀では青島さんが弔辞を読み、増井さんの10歳になる一人息子が、気丈に「10年間ありがとうございました」と遺影に呼びかけ、参列者の涙を誘った。後に青島さんから「息子さんは小学校の作文で、お父さんの酒造りを継ぎたいと書いていたらしい。増井さんは、自分が直接伝えられないかわりに、あの伝書が残って本当に良かったと思ってくれているだろう」と聞き、心震える思いがした。

 平成25年(2013)暮れには、田中さんが90歳の天寿をまっとうされた。亡くなる3日前、青島酒造へ酒を買いに来てくれたという。現在88歳になる大塚さんはご自宅で静かに余生を過ごされている。

 京都の松尾大社参詣から10年。志太杜氏の技をなんとしてでも遺さねば、という人々の切なる思いが、青島さんの双肩に託された。一人残された青島さんは、伝書を手にし、「真にこの地に合った流儀が確立するまで、杜氏蔵人たちの数え切れないトライ&エラーが繰り返されてきたはず。志太杜氏の技はこの土地の市井の人々の歴史であり、財産だと思う」と力を込める。

 

 藤守流酒造法大目録には、「心得」の項目があり、抄録が青島酒造の麹室脇の壁に標語として掲げてある。小学生でも理解できる言葉だが、完璧に実践するのは容易ではないだろう。酒造りには特殊な技術や知識よりも大切なものがある。何世代にもわたって伝承された、職人だけが共有し続ける大切な何か、である。

 

酒造心得

一、無病息災  健康ニ留意シ病気怪我災害ヲ起コサヌコト

一、礼儀身嗜  礼儀ト身嗜ガ蔵内ノ親和ヲ創ル

一、蔵内親和  蔵内ノ親和ガ良キ酒ヲ醸ス

一、火之用心  火気ニ充分用心スルコト

一、清潔保持  清潔ヲ保持スルコト

一、整理整頓  整理整頓シ道具機具ノ取扱ニハ細心ノ注意ヲ払ウコト

一、酒米保全  酒米諸原料ノ管理ニ留意シ亡失ニ注意スルコト

一、法令厳守  法令ヲ厳守スルコト

 

藤守流酒造法大目録 抄録より

 

 

<参考文献>国指定重要無形民俗文化財「藤守の田遊び」伝承千年記念誌、「藤守の民俗」東京女子大学民俗調査団1986年度調査報告、志太杜氏/大塚正市、志太広域事務組合刊『志太ふるさと文庫~志太の伝統産業②』酒造業/鈴木真弓、庶民列伝/野本寛一、静岡県の諸職/静岡県教育委員会編、駿国雑誌、志太郡誌


「杯が満ちるまで」出版1周年、地酒研20周年アニバーサリーへの思い

2016-10-24 13:21:38 | しずおか地酒研究会

 

 静岡新聞社から『杯が満ちるまで~しずおか地酒手習帳』を出版していただき、10月23日で丸一年となりました。この本をきっかけに生まれた新しい酒縁、復活した懐かしい酒縁、より一層深まった酒縁・・・さまざまな縁(えにし)の広がりに、感謝と責任の重さを実感した一年でした。

 

 しずおか地酒研究会の前身である静岡市立南部図書館食文化講座「静岡の地酒を語る」が1995年11月1日開催で、研究会の活動も20年を越えたため、これに感謝するアニバーサリー企画に汗を流した一年でもありました。加えて、初めて民間のカルチャー講座(朝日テレビカルチャー)を担当することにもなり、本の取材執筆を始めた2014年秋から数えると、丸2年、酒の魅力を伝える作業にどっぷり浸かったことになります。

 正直なところ、本の印税も、しずおか地酒研究会の活動費も、コストを考えると完全にマイナスベースで、カルチャー講座もぎりぎりマイナスにならない程度。損得勘定せず好きで始めたことですから愚痴は言えませんが、酒で儲けてると思われるのは辛いし、20年前には夢のようだった魅力的な酒のイベントが自分の周辺でも毎月のように企画され、お誘いをいただくものの参加できる余裕もまったくなく、酒瓶を見るのが鬱陶しいとさえ思うこともありました(苦笑)。

 

 今朝(10月24日)の静岡新聞朝刊文化芸術欄に、東大寺戒壇院の広目天像が紹介されていました。つい先月、早朝の戒壇院を一人訪ねて広目天さまに愚痴をこぼしてきたばかりだったので、記事を読んで改めてハッとさせられました。

本当に感謝すべきは、生活の糧のための仕事を私にくださった、酒とは無縁のお仕事関係の方々。そういう方々がいなければ、酒の活動はおろか私自身の生活も成り立ちません。どんな小さな仕事でも、この仕事を鈴木に、と言っていただけるだけで感謝感謝の一語に尽きるだろう、ご縁をいただいた仕事はどんな仕事であろうと(フリーランスなら当たり前ですが)全身全霊を傾けよう、そうでなければ酒の活動も続けられない・・・感謝の種を枯らすな、見失うな、大事に育てろ、と広目天さまに叱咤激励された気がしました。

 この2年、やや盲目的に突っ走ってきましたが、自分の体力や生活力をふまえ、身の丈にあったペースで頑張ろうと思っています。これからもどうぞよろしくお願いいたします。

 

 秋の20周年アニバーサリー企画について詳細をレポートするつもりでいましたが、自分の暮らし向きや今後のことをあれこれ考えているうちに日が経ってしまいましたので、とりあえずは写真紹介だけでお許しください。

 

 9月25日には『お酒の原点お米の不思議2016秋編』を開催しました。夏に引き続き、静岡県農林技術研究所三ケ野圃場を再訪し、宮田祐二先生に刈入れ直前の「誉富士」「山田錦」をはじめ、さまざまな試験栽培中の品種について解説していただきました。この日、東京から急きょ酒食ジャーナリストの山本洋子さんご夫妻が駆けつけ、大変熱心に取材されていました。全国トップクラスの日本酒情報発信力を持つ洋子さんに静岡発の情報に触れていただく機会を作ることができて、宮田さんはもちろん、私も心底うれしかったです。

 

 山本洋子さんを含め、松崎晴雄さん(日本酒輸出協会理事長)、里見美香さん(dancyu編集委員)という日本酒業界を代表するジャーナリストを迎えて、10月1日にサールナートホールで開催したのが『カンパイ!世界が恋する日本酒先行上映&トークセッション「あなたと地酒の素敵なカンケイ」』

 これだけの面々が静岡へ来てくださったのに会場満席とならず、自分の不甲斐なさを痛感・・・。それでも『カンパイ!』出演者の久慈浩介さん(南部美人蔵元)やジョン・ゴントナーさん(SAKEジャーナリスト)がビデオメッセージを寄せてくださったり、トークゲストの皆さんがご自身と静岡酒との出会い、全国の酒との違い、取材者としてみる静岡の蔵元の魅力など楽しい話題で静岡の酒を盛り上げてくださいました。(ICレコーダーの用意を忘れてしまい、いつものようにトーク内容を書き起こすことが出来ません。申し訳ありません・・・)。 

 

 

 なお映画『カンパイ!世界が恋する日本酒』は10月29日から静岡シネギャラリー(JR静岡駅前サールナートホール内)にて公開です。

 

 10月2日は『杉錦の生もと造り体験』を開催。山廃・生もと・菩提もと等の伝統酒母造りで吟醸王国しずおかの中でも異彩を放つ杉井酒造で、生もとのもと摺り体験をさせていただきました。午前と午後2回にわけて参加募集したところ、1日ゲストの山本洋子さん夫妻、里見美香さん夫妻はじめ、沼津や浜松からも会員さんが駆けつけてくれて、定員オーバーで大いに盛り上がりました。

 洋子さんはさっそく、週刊ダイヤモンドで連載中のコラム「新日本酒紀行」にて杉錦を取り上げ(10月22日号)、素晴らしい情報発信力を発揮してくださいました!

 

 

 みんなで摺った生もとで仕込む「杉錦生もと特別純米(誉富士100%・静岡酵母HD-1使用)」は年末に生原酒で発売予定。一部、しずおか地酒研究会20周年記念ラベルで販売します。

 

 

 出版1周年の昨日(10月23日)は、朝日テレビカルチャー静岡スクールの「地酒ライターと巡るしずおか酒蔵探訪」10月期初日。静岡市の萩錦酒造を訪問しました。私が心から敬愛する女性酒造家である蔵元夫人の萩原郁子さんが、平成28BYの仕込み開始を待つ酒蔵内部を丁寧にご案内し、萩原吉隆社長が蔵の冷貯蔵庫から自慢の5種を出してくださいました。静岡市民にはお馴染み・西脇の萩錦酒造の井戸水を、井戸からコップにすくって和らぎ水にしながらの試飲時間は、何物にも代えがたい贅沢な時間。初参加の受講生さんが喜んでいる姿に目頭が熱くなりました。

 昨日は大正13年に撮影したという萩錦酒造の写真を初めて見せてもらい、写真に映っている志太杜氏と思われる職人さんたちの姿に、またまた目頭がじわっ。職人魂を受け継いだかのような郁子さんの逞しい手を見て、この人に蔵を支える使命があるように、自分にも何かを支える役目がある・・・そんなふうに勇気をもらえた気がしました。

 またひとつ感謝の種が増えたみたいです。