修行するには何事も時間であると思う。もちろん、だらだら要領悪くやっていたとしていたら時間の無駄かもしれず、それなりの指導者なり、手引書なりに従わなければならないが(最良の指導者は自分自身か)。
修行といっても、趣味とかなら、別に競争ではないから関係ないのかもしれない。しかし、生活が懸かっていれば、生きるか死ぬかのところまでやらねばならないだろう。文章というのも、ただ楽しんで書けばいい、書きたい時に書けばいい、という種類のものではなくなてくるのか。
好きものの上手なれ。小説に限らず、絵画やら音楽やらゴルフやら関わる者は皆、好きものである。あとは努力の世界であり、それを遂行するための時間か。
週80時間文章を書く作家と、週10時間以下しか書かない無名作家ではやはり文章レベルが違う。プロ作家には、印税収入もあれば、実績もあるし、業界ルートもある。一方、何十万人ともいわれる作家志願者(無名作家)は、現実な仕事に就いていて、しょせん、現実逃避で書いているに過ぎない。
プロ作家など「もうこれしかない」と腹をくくっているわけで、作家予備軍は「まあ、今回は自己満足できたからいいや(受けるのはまた今度書きます)」「仕事で忙しくて書く時間がありません(もう少し待って下さい)」という、夢の繰り伸ばしをしているわけで、やはり、現実逃避手段なのである。
勝手に逃避手段を用意し、勝手に修行し、勝手に時間をつぶす。
その中で「時間がないから書けない」というのも勝手な言い訳で、売れっ子作家と比較するのも、勝手な妄想である。
現実と現実逃避の違いは何か? 難しいことを考えるに、「現実」は奥が深いように思われる。カスタネダの『無限の本質』にあったように、「自分の読みたくもないものを読み、聞きたくもないものを聞くことだ」とあるように、「自分の書きたいことばかり書いて」いるようでは、全然修行にならない。
「時間がない、時間がない」というのも、現実逃避として「自分のやりたいことばかりやりたいから、時間がない」のであり、現実問題、時間はいまそこにある。そして必ずしもやりたくないこと(出勤?)に向けて着々と消費させられている。
プロ作家と同様、「出勤するしかない」と腹をくくっているわけで、そうなると「やりたいことをやる」という次元ではなくなってくる。現実というのが、大宇宙の恐ろしいほどまでの強力なエネルギー(意識の暗い海)から、個々人に発せられた何かであるとするなら、目の前にあることに従う、勝手に自分の都合のいいように作り変えたりできないルール(カルマ?)に従うことこそ「現実」(的な生き方)なのだろう。
文章は意識が書くものであるからして、文書いうの努力の向上は意識の向上であり、文章修業とは人生修行か。机に座ってPCのソフトに書き込んでいない時も、無意識に頭に書き込んでいる、そうなるのか。
ということは、ちょっとしたきっかけですらすら書けることになり、
そこで我が輩が書くストーリーでは、
かなり重苦しい野郎が登場する小説になりそうだわい(あまり読む気がしないぞ)
修行といっても、趣味とかなら、別に競争ではないから関係ないのかもしれない。しかし、生活が懸かっていれば、生きるか死ぬかのところまでやらねばならないだろう。文章というのも、ただ楽しんで書けばいい、書きたい時に書けばいい、という種類のものではなくなてくるのか。
好きものの上手なれ。小説に限らず、絵画やら音楽やらゴルフやら関わる者は皆、好きものである。あとは努力の世界であり、それを遂行するための時間か。
週80時間文章を書く作家と、週10時間以下しか書かない無名作家ではやはり文章レベルが違う。プロ作家には、印税収入もあれば、実績もあるし、業界ルートもある。一方、何十万人ともいわれる作家志願者(無名作家)は、現実な仕事に就いていて、しょせん、現実逃避で書いているに過ぎない。
プロ作家など「もうこれしかない」と腹をくくっているわけで、作家予備軍は「まあ、今回は自己満足できたからいいや(受けるのはまた今度書きます)」「仕事で忙しくて書く時間がありません(もう少し待って下さい)」という、夢の繰り伸ばしをしているわけで、やはり、現実逃避手段なのである。
勝手に逃避手段を用意し、勝手に修行し、勝手に時間をつぶす。
その中で「時間がないから書けない」というのも勝手な言い訳で、売れっ子作家と比較するのも、勝手な妄想である。
現実と現実逃避の違いは何か? 難しいことを考えるに、「現実」は奥が深いように思われる。カスタネダの『無限の本質』にあったように、「自分の読みたくもないものを読み、聞きたくもないものを聞くことだ」とあるように、「自分の書きたいことばかり書いて」いるようでは、全然修行にならない。
「時間がない、時間がない」というのも、現実逃避として「自分のやりたいことばかりやりたいから、時間がない」のであり、現実問題、時間はいまそこにある。そして必ずしもやりたくないこと(出勤?)に向けて着々と消費させられている。
プロ作家と同様、「出勤するしかない」と腹をくくっているわけで、そうなると「やりたいことをやる」という次元ではなくなってくる。現実というのが、大宇宙の恐ろしいほどまでの強力なエネルギー(意識の暗い海)から、個々人に発せられた何かであるとするなら、目の前にあることに従う、勝手に自分の都合のいいように作り変えたりできないルール(カルマ?)に従うことこそ「現実」(的な生き方)なのだろう。
文章は意識が書くものであるからして、文書いうの努力の向上は意識の向上であり、文章修業とは人生修行か。机に座ってPCのソフトに書き込んでいない時も、無意識に頭に書き込んでいる、そうなるのか。
ということは、ちょっとしたきっかけですらすら書けることになり、
そこで我が輩が書くストーリーでは、
かなり重苦しい野郎が登場する小説になりそうだわい(あまり読む気がしないぞ)
やりたくないことをする、と脳が活性化されるそうですが、確かにそうかな?と思います。
私は物書きではないけど、書くこと、で、慣れ、常に書いている状態になって、慣れ、になるのか、、、。
まぁ、金儲け、を目標にすれば、別の方法があるようですが、、、。
一冊の本、を作ってしまうのはどう?
紙に残るから、、、。
では~。
やりたくないことをすれば脳が活性化される、ということは…、目の前に散らかっているものを掃除したり、睡魔と闘ったり(?)、逆の行動をとってみることですかねぇ。
そういえば、自分も靴下を二枚はいていますが(冷え性で)、カネもかかるし乾燥するので暖房なしで、しかも風邪をひきやすく、
冬は無理やり闘わさせられているような気がします。
今6度…。厳しいですねぇ(猫)