今回は、闇の神、
テスカトリポカについて。
古代アメリカ世界に魅了される皆様は、頭の中でそれぞれのテスカトリポカを思い浮かべていることだろう。
「八章 ケツアルコアトル神話」を語ったニコルソンは、「九章 自然の四つの相」でテスカトリポカを語っている。
「…生命は滅びるが、生命の力は破壊することができない。宇宙は同時に破壊的であり創造的である躍動的な力からできている。そのような力の衝突が、全宇宙の出来事を創造し、その相互作用が自然界を創造する。互いに相反するこの力の働きの中で、すべての自然現象は遅かれ早かれ滅びる。
しかし活力溢れる力(魂)は、空間・時間・物質とは無関係に永続する。物質でできているものは、単なる見かけのもので、単に活力が取りうる一つの形に過ぎない。存在する全ての物は、絶えず変化している。それ自体を、生命を、変化させること、それが永遠というものなのである…」
ニコルソン流にインディオを解釈すれば、
魂は滅びない。永遠を欲する…、
それでインディオは人間を殺して骸骨にするわけか?
とにかく、ケツアルコアトルが創造する神なら、テスカトリポカは破壊する神である。
人間は創造され、人間は破壊される。
今生きている人間にとって、一番興味があるのが、いつ破壊されるか(=死ぬか)である。
運命をすべて牛耳っているのが、このテスカトリポカ(煙る鏡)。
タイタニック号を沈没させたのも、救命ボートの乗れなかったのも(
参考)、
宇宙でそういう力が働いているから。
インディオ達は、生贄になって死んでいく同胞を、自分の身代わりになって死んでくれた存在として感謝し、崇拝していた。
生贄を捧げる者、生贄を見る者 ⇔ 生贄になる者
救命ボートに乗れた者 ⇔ 救命ボートに乗れなかった者
何か「鏡」を見ている。
赤の他人なら鏡は弱い(煙っている)。
阪神大震災で家族が瓦礫の下敷きになった。火の手が迫っている。
どうにか自力で助かった親 ⇔ 親が助けられなかった子供
親は自分が死んでいくような気分だったと思う。
煙る鏡(テスカトリポカ)を見ていた。
代わりに自分が死ねばよかったと嘆いた。
・・・・
ちなみにインディオはタイトル、『煙る鏡』の小説を書いている(もちろん無名)
話はトルテカ時代。
主人公、ケツアルコアトルが追い出される終盤の場面より、抜粋。
「すべての生き物は残らずそうだろ。わしに食べられた魚や鴨、わしに捕らえられた兵士、全てわしの代わりに命の炎を消してくれている。わしだけ延々と燃え続けて、罪を感じないわけにいかん。鏡に映った分身だ。沢山の分身を犠牲にして燃え続けるほど、わしの炎は尊いのだろうか。わしこそ、生け贄になって、この破壊的な炎を消すべきではないか。どうせ遅いか早いかの違いだ。炎は体を焼き尽くして消える。煙も消える。この大地から」
テスカトリポカ王は、手の平を真剣に見つめながら、
「この世は煙る鏡だ。わしらは煙る鏡の中で踊らされ、闘わされているのだ。どうせ、生き残ったわしらの生命の炎も、最後には消えるのだ。死の闇に。死ねばこの煙る鏡を脱出できる。苦しみに満ちたこの世から……」
インターネットは何をUPしようが自由。
しかし…、こんな危ない観念小説は、公表して良いのかなぁ(勝手にしろ!)。