ヒトリシズカのつぶやき特論

起業家などの変革を目指す方々がどう汗をかいているかを時々リポートし、季節の移ろいも時々リポートします

さいたま市の広大な“グリーンベルト”見沼田圃を散策しました

2011年05月08日 | 季節の移ろい
 さいたま市の東側に南北に広がる見沼田圃(みぬまたんぼ)の中で、東南部分に当たる見沼通船堀(みぬまつうせんぼり)付近を2時間半ほど散策しました。少し運動するのが目的です。この結果、徳川時代に行われた産業振興策のイノベーションのための水運遺跡などを見ることができました。

 午前10時から、JR武蔵野線の東浦和駅近くにある見沼通船堀公園を起点に歩き始めました。南北に流れる芝川の東側部分を北上し、大崎公園から南西に向かい、浦和くらしの博物館民芸館を見学し、西側部分の見沼代用水西線を南に下り、東浦和駅に戻りました。途中で見学しながらの散策だったため、9~10キロメートルを約2時間30分かかって一回りしました。

 見沼通船堀、見沼代用水東線、見沼代用水西線はそれぞれの堀(川)の両側にサクラの木を中心に並木が設けてあり、涼しい木陰の中を歩きました。ソメイヨシノのサクラの木はよく茂り、堀全体を覆って木陰をつくっています。各ソメイヨシノの木は葉桜の緑がまぶしいほどです。雰囲気は夏に近い葉の茂りようです。4月上旬のサクラの花が満開の時には、見事なサクラの花のトンネルができ上がったと想像できるほど、見事な並木です。

 竹林が美しい見沼通船堀公園から東西に流れる見沼通船堀は 小舟による運送のために掘られたお堀です。水位がかなり違うために、閘門(こうもん)が4カ所設けられたそうです。



 閘門は、スエズ運河や欧州や英国の運河と同様の仕組みです。小船を芝川から通船堀に入れて、小船を「一の関」を通過させた後に、一の関に縦板を何枚も入れて塞いで、堀を堰き止め水位を上げます。同様のことを「二の関」で操作し、水位を上げて、小船を代用水に通します。この仕組みを再現した遺跡が展示されています(英国のナローボートの水路の閘門と、どちらが先にできたのか興味があります)。



 三代将軍の徳川家光は、伊奈半十郎忠治(いなはんじゅうろうただはる)に、江戸時代のはじめまでは広大な沼地だった所を、「潅漑用水地(すいち)にするように」と命じました。このため、八丁堤(はっちょうつつみ)が設けられ、平均水深約1メートルの溜井(ためい)がつくられたそうです。さらに、八代将軍の徳川吉宗は当時の産業振興策として、「見沼溜井を新田に開発するように」と、井沢弥惣兵衛為永(いざわやそべいためなが)に命じました。この結果、約1260ヘクタールの広大な緑地ができあがりました。芝川、見沼代用用水、田畑、雑木林が田園風景を形作ります。

 北側の折り返し点に近い、「浦和くらしの博物館民家園」は、江戸時代にこの付近に立てられていた農家が数軒、移築されています。旧蓮見家の住宅は、茅葺きの「直屋」「平入り」「寄せ棟」の3棟で構成された典型的な農家だそうです。



 さいたま市では最古の農家だそうです。柱の太さが不揃いな点に、当時の材木入手の困難さが読み取れるそうです。

 折り返し点の大崎公園の園芸植物園には、シジュウカラがよく鳴いていました。森の中に、コゲラが1羽現れました。



 白黒のまだら模様の羽根が特徴のキツツキです。「ギー」と鳴きます。

 今回散策した時に見た広大な芝川第一調整池を中心とする葦(よし)原の上空では、ヒバリが数羽鳴いていました。昔はもっと多数のヒバリが飛び上がったと思います。今回の散歩から、見沼田圃の田園の生態系のごく一部を垣間見ることができました。初夏の田園風景を堪能しました。