「遊び」の本質とは、「ズレる」ことにある。
日常的な決まりごとから、外に踏み出すことで、
普段自ら埋め込まれているシステムから、
ちょっと「ズレる」時空、それが「遊び」。
「遊び」の時空では、
子供が親になってみたり、人形が空を飛んでみたり。
木々が小川をせき止めるダムになる。
積み木はお城に、段ボール箱が秘密の基地に、
トイレットペーパーの芯が望遠鏡に変身する。
暴れん坊になってみたり、ヒーローになってみたりと、
日常生活での「動き」とは、また違った動きをする身体。
「遊び」を通し、
社会的役割、自然の法則などの日常的「決まりごと」から「ズレ」る。
こうした「ズレ」を体験することで、
日常のシステムを、また違った視点から眺める力を手に入れる。
日常のシステムに、がんじがらめにはまりこむよりも、
その付き合い方に、ちょっと余裕のようなものが生まれる。
猫の首輪に怯え、隠れ穴から二度と出てこなかったネズミとは違い、
「ちょっと待てよ」と穴から顔を出し、辺りを探索したくもなる。
(遊びについての示唆に富んだ研究紹介、遊びか死か&遊びとADHD)
「遊び不足の弊害」のひとつに、
既存のシステムにがんじがらめになってしまう子供や大人を生み出す、
ということがあるのだろう。
それは、既存のシステムの中で、「上」に昇ったり、「勝つ」ことだけに関心があったり、
周りの情報を短絡的に鵜呑みにしてしまうという形で現れもする。
「遊び」の空間から見るのなら、
日常のシステムとは、「ひとつのゲーム」のようなもの。
手持ちのカードに「とほほ」となりながらも、
工夫をこらし、まあ何とかやってみようじゃないと立ち上がることもできる。
そうした遊びの時空から流れ込む動きが、
日常システムに、変化の流れを生み出すのかもしれない。
大人が横から、こうしたほうがいい、ああしたほうがいいと口を出し、
日常のシステムの決まりごとをあれこれ投げ込んでしまっては、
せっかくの遊びも台無しになってしまう。
日常的なシステムでの「大事」や「大切さ」を当てはめただけの「遊び」ならば、
一見遊んでいるように見え、実は全然遊んでいないようなもの。
「ほおっておく」、
「一緒に遊びの時空の一員になる」、
もしくは、「遊びの本質を分かりつつ、架け橋となる働きかけ」ができるといい。
ふわりと「遊びの時空」へと飛び立てるような環境を整えていけたら、
そう思いつつ!