ダーリン三浦の愛の花園

音楽や映画など徒然なるままに書いてゆきます。

明日のためにその165-ハナ肇とクレージーキャッツ

2015年09月04日 | お笑い
クレージーキャッツと植木等。

私がまだ幼い頃、そう、第二次漫才ブームの時だった。
この時期は様々なコミックバンドが寄席を賑わした。
しっかりした演奏テクニックに、おちゃらけた演奏芸、しかし最後はそのテクニックを活かした抜群の演

奏で舞台をしめくくる。
私は幼いながら「凄い人達がいるなぁ」と感心したものだった。
私の記憶が正しければ、第三次漫才ブームの時は、唯一「いそがしバンド(後のビジーフォー)」がコミ

ックバンドの系譜を引継いでいた。
皆様が「ビジーフォー」で、思いだされるのは「グッチ雄三」と「モト冬木」ぐらいではなかろうか。
初期の「ウガンダちゃん(故人)」がいた頃を知っている人は少ないだろう。
しかしこの初期の「ビジーフォー」こそ、コミックバンドの王道で、私はいつも彼らを見ながら爆笑して

いた。
その元祖にあたるのが「ハナ肇とクレージーキャッツ」だろう。
紆余曲折を経て集まった、演奏力はしっかりしているが、一癖も二癖もある連中だ。
彼らは主に、戦後の米軍キャンプで演奏し、腕を磨いた。
既にその頃、バケツ等でメンバーの頭を叩くギャクを行なっていて、米兵から「お前達はクレージーだ」

と言われていた、これが「クレージーキャッツ」命名元とされている。
所属事務所は、芸能界の大御所渡辺晋ひきいる「渡辺プロダクション(通称ナベプロ)」
1950末年代から1960年代に人気をはくした彼らは、映画製作に関わることになる。
これが日本喜劇映画の名作「無責任」シリーズだ。
主演は植木等、ひょうひょうとして、しかし、妙に頼りがいのある男を好演した。

植木等、1927年、三重県に生まれる。
父親は寺の僧侶、12歳の時僧侶になるべく、上京し、小僧となる。
17歳のころ、バンドボーイのアルバイトを始める、これが植木と音楽の係わり合いの始めとなる。
23歳ごろから、様々なバンドを転々とする、その中には「ジョーダン音楽(コミックバンドではない)」

を日本に流行らせた「フランキー堺とシティスリッカーズ」も含まれる。
30歳のころ「クレージーキャッツ」の前身「キューバンキャッツ」へ加入。
以後前述のように、映画主演で一躍トップスターとなり、映画、テレビへの出演が激増する。
1993年ハナ肇の逝去により、事実上バンドは解散、植木は一人で順調に仕事をこなす。
70歳の時、肺気腫を患い、表舞台から姿を消す。
2007年80歳にして逝去。

植木等の略歴は以上のとおりだ。
植木はバンドでギターを担当し、しっかりしたテクニックも持ち合わせていた。
植木は根っからの、真面目人間だったという。
植木は「無責任男」を演じながらも「僕はああいう生き方はできない」と周囲に呟いていたと言う。
私はリアルタイムで植木の映画を観ていない。
私が大人になってから、地元のミニシアターで「無責任」シリーズの映画を公開してくれた。
喜び勇んで、私はそれを観に行った。
まさにカルチャーショックであった、スクリーン狭しと動き回る植木と、何故か滅茶苦茶な仕事ぶりだが

、不思議にも植木演じる「無責任男」は出世してしまう。
それは当時の私にはとてもかっこよく見えて、以来、植木は私にとってスパースターとなった。
「クレージキャッツ」のようなバンドも「植木等」のようなキャラクターも今は望むべくも無い。
日本の高度成長期、それとともに上りつめた「クレジーキャッツ」と「植木等」まさに時代の呼んだヒー

ロー達だったのではないだろうか。
下に、映画「ニッポン無責任時代」のエンディングである楽曲「無責任一代男」を貼った。
植木の素晴らしい歌唱を堪能していただきたい。

「無責任一代男」植木等(ハナ肇とクレイジーキャッツ)

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