ダーリン三浦の愛の花園

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明日のためにその159-トニー谷

2015年08月21日 | お笑い
異端芸人の華。

私が幼い頃、テレビで「アベック歌合戦」と言う番組を放送していた。
アベックが登場し、司会が「あなたのお名前なんてーの」と歌い、アベックの男女がツイスとを踊りながら、それぞれ「xxxxと申します。」と名前を言う。
そして、それが終ると歌を歌い、他のアベックと競うと言うものだった。
これが私の記憶に微かに残る「トニー谷」との出会いだった。

トニー谷
大正6年、銀座生まれ。
戦争中は南京、上海にいて、終戦を上海で迎える。
昭和20年日本に引き揚げ、東京宝塚劇場の制作に助手として入社。
昭和25年本格的にMCとしてデビュー。
その後隆盛を極め、数々の流行語を生み出す。
昭和46年ハワイに居を構える。
その後日本に帰国、復帰をもくろむが成功せず。
昭和62年7月没、69歳。

簡単に、トニー谷を紹介するとこのようになる。
全盛期を知らない私にとって、トニー谷の人気がどうだったのか、皆目見当がつかない。
しかし当時を知る人々は、その人気の凄さに驚嘆したという。
フォックス眼鏡にきざなヒゲ、赤いジャケットに白いズボンといういでたちで「レディースアンドジェントルメンアンドおとっつあん、おっかさん」と叫ぶと会場の観客が、狂喜乱舞したと言う。
そもそもトニー谷は、以前このブログでも書いた、戦後日本の「ジャズコンサートブーム」乗る形で表舞台に姿を現した。
当時ジャズコンサートのMCを努めていたトニー谷は、歌手や楽団より人気があり、トニー谷見たさに客が集まったと言う。
しかし、常に目立ちたがりで、他人より指先一本でも先に出ていたい彼は、MCの時も歌手が歌っているにも関わらず、舞台袖から奇妙なフラダンスを踊って出てきたり、江利チエミを「下痢チエミ」と呼び雪村いずみを「雪村ねずみ」と悪びれずステージで呼んだ。
これがまた観客には大いにうけた。
流行語も多く生み出した、代表的なものは「家庭の事情」「おこんばんわ」「ごめんあそべ」等々である。
中でも「家庭の事情」は最もヒットした流行語であり、映画も製作された、勿論トニー谷主演である。
私は昔からろくにトニー谷の事は知らなかったが、大きなソロバンをパーカッション代わりに叩き、歌を歌う姿を、トニー谷復帰後に見ている。
私はそれに憧れ、私自身の作詞・作曲による「ごめんあそべ」と言う楽曲を作った。
勿論、片手にソロバンを持ち、歌を歌った。
これが結構反響があり、その年のアマチュアバンド大会の、地区決勝大会まで行くことになった。(その楽曲については「明日のためにその7」を参照)
晩年トニー谷は落ちぶれる、正確に言うと彼の子供が誘拐された頃からかもしれない。
それまで、芸能界では散々悪態をついて、人より目立つためなら何でもした彼だが、彼の子供が誘拐されたとき、そのショックから衰弱した彼の素顔を見た人々から、彼を励ます声が上がった。
事件は無事子供が戻り、事なきを得たが、その後彼は悪態をついて笑いを取ることをやめた。
彼はその悪態、毒舌により、芸能界では孤独だった、しかし彼のそれらが彼をスターダムに押し上げたのだ。
彼は常に孤独で、自分の家庭だけを愛していたと言う。
そんな彼でも、病院のベットの上では「一人はだめ、トニーは悲しい」と繰り返し呟いていたと言う。
「孤独の外道芸人」それが芸能界で彼につけられたニックネームだと言う。
人よりも、指先一本でも目立っていないと気がすまない、私は現在の「明石屋さんま」を彼に重ねてしまう。
無論さんまはトニー谷と違い「孤独」では無いと思うが。

下に復帰後のトニー谷の歌唱動画を貼った。
その見事なソロバン捌き等を是非見ていただきたい。

トニー谷 さいざんす・マンボ


ダーリン三浦と横浜シューシャンボーイズ ごめんあそべ

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