ダーリン三浦の愛の花園

音楽や映画など徒然なるままに書いてゆきます。

明日のためにその280-放送禁止歌-後編

2017年11月30日 | 歌謡曲
今回は前回の続きとして、実際に「放送禁止」となった楽曲について、その楽曲を挙げ若干の説明をしてゆこう。
先ずは前回紹介した「要注意歌謡曲一覧表(1983年最終版)」から。なお、表記は、曲名、歌手名、注意ランク、取り扱い注意となった理由(歌詞)、の順とする。内容をカテゴライズしていないことにはご容赦を。

・愛の床屋        唐十郎     A 理髪店に対する信用を貶めるような部分がある。
・ガチャメの酋長さん   エセル中田   B 斜視に対する差別用語を用いている。
・SOS         ピンクレディ  C 冒頭のモールス信号が本物を用いていて誤解されやす。
・I LOVE YOUはひとりごと 原由子     A 歌詞の内容が猥雑な連想をさせる。
・悲惨な戦い       なぎらけんいち A 歌詞の内容が卑猥である。
・びっこのボーの最後   加山雄三    A 足の不自由な人への差別用語を用いている。

僅かではあるが、以上が要注意歌謡曲一覧表の内容である。ただし、表記最終の「理由」については、その一覧表には記載されておらず、私が独自で調査したものであることを付け加えておく。
この要注意歌謡曲一覧表で、最も掲載数が多い歌手がいる。
昭和歌謡の反逆者、自由を愛する男「つぼいノリオ」である。
「金太の大冒険」をはじめ、彼の「歌謡界エスタブリッシュメント」に対する過激な挑戦は、聴いていてある意味すがすがしささえ感じる。
偉大なる昭和のコンポーザーだと私は考えている。
さて、今回ご紹介した「要注意歌謡曲一覧表(1983年最終版)」に掲載されていない歌謡曲でも、未だに放送局が「自主規制」をしている楽曲がある。
有名な所で言うと、岡林信康の「手紙」はその代表例だろう。
逆に長らく放送禁止扱いであった楽曲がその禁を解かれた例もある。三輪明宏の「ヨイトマケの唄」がその一例である。
日本は、あることが起きた場合、その後処理をいかに収めるかに重きをおかず、それが起きないようにするにはどうしたらよいのかを選択する風習がある。
今回ご紹介した、放送禁止歌はその良い例だろう。
差別的表現等々があるのを承知して放送してしまい、後に聴取者から多くのクレームを浴びる。放送局関係者にとっては、想像するだけでも、背筋が凍る思いだろう。
言葉は生き物である。それを使う人が、いかなる気持ちで言葉を使うかが重要だ。
悪意を抱き、発するような差別用語は、いかなる場合でも許されない。
しかし、芸術等の表現手段で差別用語・表現を使うのは問題が無いと私は思っている。
また、差別用語にだけやたら詳しくなり、それを使ったものに対して騒ぎ立てる輩は、私が蔑視する人物の中の一人である。

今は差別について討論することも少なくなってきている、性のモラルもかなり穏やかになった。
激動だった「昭和」その時代は「差別」や「性のモラル」が生んだ、今回ご紹介したような、放送禁止歌。平成も三十年を迎える今、そして「きれいごと」を並べ立てた歌詞がヒットするJ-POPにおいては平成版「放送禁止歌」の出現は盲亀の浮木だろう。

明日のためにその279-放送禁止歌-前編

2017年11月29日 | 歌謡曲
日本は自由の国である、表現の自由は憲法で認められている権利だ。
しかし、世の中には、様々な芸術があり、その表現方法もまた様々である。
それが侵害されることがあるのか。
本日紹介するのは、かって、昭和歌謡界に存在した「放送禁止歌」についてである。
厳密に言えば「放送禁止歌」と言うものは存在しない。
「要注意歌謡曲」と言うのが正しい。これは、各テレビ、ラジオ局が所有していたもので、民放連が選択した「放送するに注意を要する歌」を一覧表にしたもの。そのことを指す。
その一覧表には指示にランクがあり、A,B,Cと分けられていた。
Aは「放送しない」Bは「旋律は使用しても良い」Cは「不適当な箇所を削除または改訂すればよい」となっている。
AやBは何を理由にし、対処を指し示しているのか全く分からない。しかしCの項目でそれはおおよその察しはつく。
つまり健全な社会にあってはならない「差別」や「性的不道徳」などが、その「不適当な箇所」になってくるのではないか。
その部分をCのように、削除、改訂しては、作詞者が訴えたかったところが無くなってしまう。
これでは、逆に作詞者から「放送をしないでくれ」と反発され、放送できないだろう。
つまりこれで「要注意歌謡曲}=「放送禁止歌」と言う等式が成立する。
しかし、この要注意歌謡曲と言う、民放連の作成した一覧表は1983年10月をもって更新されていない。
つまり三十数年以上、新しい要注意歌謡曲の一覧表は発行されていないのだ。
この表には、放送禁止歌とは一切明記されていない、あくまで「要注意→取り扱い注意」の楽曲を並べ立てたものである、放送するか否かは、放送局の判断で行なえる。
しかし、保守的な日本のイデオロギーでは、前述の「A」の項の楽曲を放送できる局はあるまい。
前述のとおり「要注意歌謡曲」は三十数年前に絶版となっていて、既にその効力はない。
今回は、放送禁止局の概要をご説明した。
具体的にどのような楽曲が、放送禁止歌だったのか、紹介は次回に譲ることにする。

明日のためにその278-Clinah

2017年11月28日 | ワールドミュージック
以前このブログで韓国の「aida」と言う女性バンドを紹介した。
その時、このバンドがメインストリームに乗れなかったのは、K-POPに対する警鐘だとも書いた。
最近は、K-POPを聴いていないが、彼女達と肩を並べられるようなアーティストは出現したのだろうか。
そんな折、インターネットである事を検索していたら「aida」にも引けを取らない女性バンドの記事を見つけた。
そのバンド名は「Clinah(クルリナ)」である。
メンバーを紹介しておこう。

ハンユナ (ボーカル)
リカ (ギター)
マルジャ (ギター)
イ・ソウン (ドラム)

以上である。このバンドは2011年結成と言うから、もう過去のバンドなのだろう。
インターネットで検索しても、彼女等を紹介、また現在の状況を知らせる情報は得られなかった。
しかし、彼女等のデビューアルバムは、なんとか入手した。
10曲入りのミニアルバムで、5曲歌入りで収録されていて、残りの5曲は同曲のインスト(カラオケにしか聴こえないが)になっている。
全体の曲調はアップテンポの、ポップな感あふれるものが多い。
ただ、前述した「aida」と比較するとどうか。正直比較の対象にならない。センスが違いすぎるのだ。
デビューして、六年が経過した今「Clinah」も、K-POPのあだ花となり、散ってしまったのだろう。
アメリカのポピュラー音楽(特にブラックカルチャー)に、それに対抗できるものは出現するのだろうか。
1960年代、リバプールサウンドの時代。1970年代、アートロックの時代。1980年代、パンク&ニューウエイヴの時代。
10年単位で革命を起こしてきた世界の音楽界、1990年代から20年以上経過した今、新しい音は流れ出してこない。
いったい世界のポピュラー音楽はどこを目指しているのか。

下に「Clinah」のアルバムの中でも、最もポップな楽曲を貼った。
今では使われなくなった、二拍三連を多用したスピード感ある楽曲だ。


明日のためにその277-シリアスマン

2017年11月27日 | アメリカ映画
映画がロードショウを経て、DVD等媒体化されるのは今や当たり前のことになっている。
しかし、権利の関係上、劇場公開と違った形で媒体化されるものや、媒体化されないものもある。
以前このブログで紹介した、インド映画「ロボット」は、使用している言語が、インド南の言語「タミール語」であったにもかかわらず、媒体化されたときは、権利の関係上ヒンディ語の吹き替えになっている。
しかし、媒体化すらされないものは、稀有であろう。
今回紹介する映画は、私のお気に入りの監督、コーエン兄弟の「シリアスマン」
あらすじを紹介しておこう。

ミネソタ州ミネアポリス郊外にあるユダヤ人コミュニティーで家族と共にマイホームに住むラリー・ゴプニックは、大学で物理学を教える平凡で真面目な中年のユダヤ人である。
しかし、彼の周りで徐々に小さな問題が持ち上がり始めていた。
ラリーの兄アーサーは無職で病を患っており、ゴプニック家に居ついてしまって出て行く気配がない。ヘブライ学校に通う長男ダニーは授業中に聞いていた小型ラジオを隠していた20ドルと共に没収され、乱暴な同級生にマリファナ代金が払えずにおびえる。
更に様々なやっかいなことが起こりはじめ、ラリーは悩み始めるのだが......

この映画、とても良く出来ており、コーエン色も色濃くてフアンにはたまらない一本となっている。
特にラストシーンが良い、これか起きる事の「まえぶれ」を実に見事に表現している。
しかし残念ながら、この作品は、日本で日本語字幕のDVD等媒体が発売されいない。
私はそれを聞いたとき、ピンときた。ストーリーのある部分で「これはまずくないだろうか」と思えることがあった。
それはアジア人が、裏金を使い、成績が悪くて進級できない問題を解決しようとするところだ。
ここを「アジア人に対する蔑視」と捉えられたのではないか。
あくまで私の推測ではあるが......
しかし、この映画はコーエン兄弟の秀作の部類に数えられるほどの映画だと、私は思っている。
表現の自由を人間は約束されているはずだ。もしこの「アジア人蔑視」と捉えられるシークエンスが、他の民族だったらどうだろう。このような問題にはならなかったとおぼしい。
私はこの映画を「ワウワウ」で観た。現在は、日本語字幕版をアマゾンビデオが有料で放映している。
早期の媒体化を望む。

2009年アメリカ製作、2011年日本公開、カラー106分、監督コーエン兄弟。

なお、記事のトップの画像は、輸入盤で日本語字幕はなし。

明日のためにその276-SPDIF

2017年11月26日 | オーディオ
今やデジタル機器の隆盛期、どんな種類のものも、再生専用(テレビ等)を除いては、デジタル音声出力端子(SPDIF)が装備されているだろう。
上記のとおり、一般的にデジタル音声端子は「SPDIF」と呼ばれている。これは「ソニー・フィリップス・デジタルインターフェイス」の略である。
つまりソニーとフィリップスが共同開発した、世界の規格ということになる。
私の所有している機器も、このSPDIFが装備されているものが多い。
このSPDIFを活用する方法は二種類ある。
先ずはお馴染みの「ファイバー」を使用した、光ケーブルでの活用である。
次に、「同軸」を使用した、コアキシャルケーブルでの活用である。コアキシャルケーブルとは、簡単に言うと、テレビへ接続されているアンテナ線と思っていただければ良いだろう。
問題はこの二つの使い分けである。最近は「光」と「同軸」と二つの端子を装備している機器も多い。
見た目、光の方がテクノロジーが高く、高性能に見られるが、実は光は伝送性質から「ジッター」と呼ばれる、ノイズの元になる特徴が含まれている。
一方、同軸にはそのような性質がないので、ノイズの有無は、その同軸の作りの良さに反映してくる。
最近私は、ある機器で実験をしてみた。
同じ放送を、光と同軸の二つの方法で再生してみたのだ。
光ケーブルは「ワイヤーワールド」同軸ケーブルは「ベルデン」を使用し、デジタルアンプへ直接つないでみた。
結果は同軸ケーブルの勝利。音のヴぉリーム感と音圧が違う。
実験した機器は、それぞれ光のみ同軸のみの端子しか装備されていないものを使用した。
音とは不思議なものである。
使用するマティリアルが違うと、こんなに違うものとは思ってもいなかった。
皆様のなかにも、デジタル機器に、光と同軸の二種類の端子が装備されているとき、接続先が同軸に対応しているのならば、迷わず同軸での接続をお勧めする。
自分の私意ではあるが。

明日のためにその275-世界各国のヒットチャート事情

2017年11月25日 | 音楽サービス
私は「スポティファイ」と言う、音楽配信サービスに加入している。
このスポティファイは、歴史は案外長く、日本以外で事業を展開してきた。
そしてついに昨年、日本でのサービスを開始した。
音楽好きな方には、耳に覚えのある音楽配信サービスであろう。
最近、このスポティファイに面白いメニューを発見した。
操作方法は、画面の「Browse→チャート→トップチャート(国別)」を進んでもらうと、約五十ヶ国以上の世界のポップチャートが見られる。もちろん、楽曲を聴くこともできる。
これは革新的なアイディアだと思った。世界各国のポップチャートが聴けるとは、至高の喜びである。
実際にそれを聴いてみたが、それは、とても残念に終った。
特にヨーロッパの小国や、東南アジアの国において、チャートは実に期待はずれになっていた。
その国では、チャートの上位はアメリカ勢で、酷い国は自国のミュージシャンの曲が全くランクインしていない国や、自国のミュージシャンがランクインしていても、下位であり、自国色のある楽曲になっていない。
自国のミュージシャンが上位にランクインしている国もあったが、その楽曲は「アメリカかぶれ」その国の音楽をわざわざ聴かなくても、アメリカの音楽を聴いても変わらない状況だ。
一方、スペインやブラジルといった国は、自国の音楽が根強い。両国とも、アメリカに影響されず、しっかりした自国の「ポピュラー音楽」制作している。これには感心した。
今回の各国のヒットチャートを聴いて、一番残念だったのは、私がこよなく愛する「東南アジア」のチャートだった。
前述のとおり、その殆どの国は、アメリカ色で覆われている。
自国のチャートインした曲は極少ない。歴史は浅いと言え、東南アジアの各国は自国で、独特の音楽を作り出してきた。
そのような楽曲が、チャートインしていないというのは、これからの、大げさな言い方をすれば「ワールドミュージックの危機的状況」の始まりではないかと懸念する。
もっとも、このチャートは国内外織り交ぜたものなので、自国のドメステックな、自国ミュージシャンだけのチャートを発表すれば、前述した「懸念」も払拭されるかもしれない。
スポティファイに要望することは、上記の「各国内での自国ミュージシャンのチャートの作成」である。
もしこれが実現して、各国、いづれの国も自国のポピュラー音楽を制作しているなら、こんな楽しいチャートはない。

明日のためにその274-今週の一曲

2017年11月24日 | 今週の一曲
皆様、週末の時間をいかがお過ごしですか。
今回の今週の一曲は、久しぶりにインドネシアのダンドゥイットをご紹介します。
今回ご紹介するのは、インドネシアでは有名なガールズグループ「トリオ・マチャン」です。
彼女達の詳細については、調べることができませんでした。
しかし、楽曲は一流です。
どうぞご堪能あれ。


明日のためにその273-ポーイーセン

2017年11月23日 | ワールドミュージック
最近私は、ワールドミュージックと言う森を、いっそう加熱しながら彷徨っている。
しかし、それは楽しくてしようがないのである。
草木を掻き分け進んでゆくと、意外な国の意外な音楽に出会える。なかなか森から抜け出せない。
多分、一生抜け出せない、いや、抜け出す気がないと言うべきか。
もともと「大衆音楽(以下ポピュラー音楽)とは、様々な国の音楽がフュージョンされて形成されたものだ。
けっしてその国独自の音楽のことではない。それは「民族音楽」になってしまう。
諸説では、十六世紀に生まれた、インドネシアの「クロンチョン」が世界最古のポピュラー音楽と言われている。
本日紹介するCDは「ミヤンマー」の歌手の物である。
ミヤンマーは、最近民主化が進んでいるようだが、まだ閉鎖された国としての印象が深い。
さて、ミヤンマーのポピュラー音楽はどのようなものであろう。
私は以前、ある媒体を通して、ミヤンマーのポピュラー音楽を聴いたことがあるが、あまり印象にない。
今回入手したCDの歌手名は「ポーイーセン」女性歌手である。
CDを聴いた印象は、旋律は少しウエットで、そこにハイトーンのヴォーカルが絡んでゆく。
旋律は、ベトナムの音楽に近いと思った。
しかしこの歌手、只者ではない。歌がとてもうまい。
このような歌手が「ワールドミュージック」の世界には、枚挙にいとまが無いほど存在する。彼女もその一人である。
CD全体の印象は、とても心地よく、精神をリラックスできる仕上がりだ。
やはり「ワールドミュージック」の森を彷徨うのは楽しい。次はどんな音楽に出会えるか楽しみである。
今回のCDは、以前このブログで紹介した、コタサンズさんから購入した。
現在は売り切れになっているが、もし興味を持たれたかたは、お問合せいただきたい。

コタサウンズ

明日のためにその272-定本 日本の喜劇人

2017年11月22日 | 
ここ最近、若手お笑い芸人の人気が過熱している。
私が思うに、人気の上にあぐらをかいた、軽佻浮薄なお笑い芸人が、ただ舞台で騒いでいるだけに見えて、とても空しい。
玉石混合と言う言葉があるが、今の若手お笑い芸人は「石」ばかりで「玉」がいないのが正直な所だろう。
また、かって活躍したお笑い芸人は、人気が出ると、出演番組をバラエティーの「パネラー」限定にしたりして、本業の「お笑い」については、まったくそれの出演をしない。
漫才をしない漫才師や、コントをしない喜劇人がどれほど数あるものか。
かって、昭和の時代には三回お笑いブームが起こった。
第一次は昭和初期の「エンタツ・アチャコ」を中心とする、漫才中心のブーム。
第二次は昭和四十年代前半の漫才、コントと様々なお笑い芸が花開いた時代。私は今でも、これほどお笑いの百花繚乱時代を知らない。
第三次は昭和五十年代中盤「ツービート」「B&B」を中心とした漫才ブーム。
しかしこれからが良くない。
第四次と言えるブームが起こらない内に、二十世紀が終ってしまった。
かって、三度もブームを起こしたお笑いの世界は、次の世代へバトンを渡し忘れたらしい。
本日紹介するのは、この日本のお笑いを構成した「喜劇人」に焦点をあてた本「定本日本の喜劇人」だ。
著者は中原弓彦、現在は小林伸彦として執筆活動をしている。
本の内容を紹介していこう。
最初は、昭和初期の日本の喜劇人から紹介している。
古川緑波(通称ロッパ)榎本健一(通称エノケン)、更に日本の喜劇界のエポック、森繁久弥と続き、クレージー・キャッツ、藤山寛美の紹介で筆を置いている。
上記は、代表的な内容で、本自体はもっと多くの、過去の日本喜劇の状況をつぶさに、丁寧に紹介している。
この中でも、私が最も興味を持って読んだのは「トニー谷」の章だった。
以前このブログでも取り上げた、トニー谷。私の生まれる前の人気ボードビリアンであったが、それを示す書物等は皆無である。
個人的に好きな喜劇人である彼を、彼の人柄等を含め、知ることのできたのは、私にとっては収穫だった。
この本は、1970年代に発刊されているが、その後、1980年代に、第三次お笑いブームまでを補足したものが、文庫本として発刊されている。
いかに喜劇と言う物が面白く、また興味深いと言うことが十分に理解できる本である。
是非、皆様に一読をお勧めする。

明日のためにその271-草原の実験

2017年11月21日 | ヨーロッパ映画
カメラ=万年筆。以前このブログでも紹介した、アレクサンドル・アストリュックの映画理論である。
映像美が中心となる「映画」には、カメラの存在が実に大きい。
物語を語るのは「カメラ」なのである。
本日紹介する映画は、草原の実験。
まさに「カメラ=万年筆」を具象化した映画だ。
ストーリーを紹介しておこう。

草原に暮らす父と娘。荒涼としたそこには穏やかな時間が漂う。
そして、その娘に恋心を持つ幼馴染の少年。
毎日変わらぬ平和な世界がそのにはある。
しかし、ある日、少年の旅人が彼らの前に現れる。
徐々にその少年との距離を縮めていく少女。
幼馴染の少年の焦る気持ち。
それは、彼らの三角関係の始まりであった。
そして、平和な時間の中で彼らが見たものとは......

この映画はカラー作品であるが、台詞が一切ない。
正確に言えば「感嘆詞」を発するだけで、それいがいの人の声はしない。
カラー版サイレント映画と言っても良い。
こう言ってしまうと、見るのを拒む方もいらっしゃるだろうが、心配はない。
前述した「カメラ=万年筆」がしっかり構築されている。
人々や、背景を追うカメラ。実に重厚な映像がしっかり記録されている。
カメラの動くスピード、パンのスピード、静止画を捉える時間、全てが完璧と言える。
このカメラの圧倒的な描写力、筆圧、台詞が無くても観賞に十分耐えられる。
ラスト、この平和な世界に、信じられない光景が待っている。
その衝撃度は、ビートルズの楽曲「ア・ディ・イン・ザ・ライフ」のクライマックスにも例えることができよう。
作品時間は長くない、是非みてらっしゃらない方は観ることをお勧めする。

2014年、ロシア製作、2015年公開、カラー、97分、監督:アレクサンドル・コット。