ダーリン三浦の愛の花園

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明日のためにその171-榎本健一

2015年09月18日 | お笑い
昭和の喜劇王。

今現在、昭和の喜劇王と呼ばれるに相応しい人物は、誰であろうか。
私が思うに、戦後に限定して言えば「萩本欽一」がそれにあたる。
彼は浅草から丸の内を経て、メジャーデビューを果たした、お笑いのエリートでもあった。
昔彼が出演していたテレビ番組「ゲバゲバ90分」では、しばしばテレビデレクター等の前にいきなり現れ、自分が思いつたコントなのだけどちょっと見てほしい、と言って彼らを爆笑させていたという。
ここに「萩本欽一」の非凡な才能が見受けられる。
彼以後(正確には第三次漫才ブーム以後)彼に匹敵するタレントは、いないとおぼしい。
一方戦前に目を向けると、先週このブログで紹介した「古川緑波」などは文句なしに、喜劇王の称号が相応しい。
さらに、今週紹介する「エノケン」こと「榎本健一」も昭和の喜劇王の称号が相応しい一人である。
まわりをドタバタさせておいて、最後の一言で笑いを取る、動かずして場を爆笑に包んだ「ロッパ」に対して、自らスタントマンさながらのアクションで、笑いを取った「エノケン」二人は笑いの作り方において対象的だった。
本日はこの「榎本健一」を紹介しよう。

「エノケン」こと「榎本健一」は明治三十七年東京生まれ、子供のころから「エノケン」と友達から呼ばれていたと言う。
尾上松之助に憧れて、京都の撮影所をしばしば訪れたり、ヴァイオリンを習ったり、芸事に旺盛な食指を持っていた。
その後関東大震災の復興で、浅草にオペラを蘇らせたり、映画に出演したりと活躍の場を広げてゆく。
昭和四年、今や伝説となった「カジノ・フォーリー」を旗揚げする。
日本に本格的なヴォードヴィルを完成させる。
その後、様々な映画で主演をはたす。
戦後、人気にも翳りが見え始め、昭和四十五年逝去、六十五歳。

簡単に「榎本健一」を紹介すると、上記のようになる。
彼の笑いを形成していたのは「動き」であった。
動きで笑いを取る、彼自身もアメリカのマックセネット(スラップステック映画の立役者)映画の動きを真似ているとインタヴューで答えている。
マックセネットといえば「キーストンコップス」シリーズが定番で、私も観ているが、そのアクションの凄さ、面白さではコメディ映画の中で群を抜いている。
「榎本健一」の若い頃のエピソードでは、彼がタクシーに乗っていたとき、後部座席のドアから道路に出て、反対側のドアから、再度タクシーに乗車したという信じられないものなどある。
それほど彼は「自らが動くことによって作られる笑い」を大事にした。
それは、何歳になっても変わらなかったと言う。
彼は歌も得意にした、決して美声とは言えない、どちらかと言うと「ダミ声」である。
この点は先週紹介した「古川緑波」とは、正反対の歌唱である。
しかし、決して上手いと言える歌ではないが、それはそれで味があるものだ。
下に「エノケン」の歌唱を貼った。
その独特の歌声を、堪能していただきたい。

榎本健一/「エノケンのダイナ」~「月光価千金」~「私の青空」

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