ダーリン三浦の愛の花園

音楽や映画など徒然なるままに書いてゆきます。

明日のためにその495-破局

2020年11月11日 | 
散漫な表現。

最近、また芥川賞を読む機会があった。
前回記事にした同じ芥川賞作に、あまり納得がいかなかったので、今回は期待して読んでみた。
今回読んだ作品は「破局」まだ20代である作者の感性に期待して、読んでみた。
物語は主人公を中心に、彼のライフワークと、彼女とのセックスを交互につなげたもので、ストーリー性はない。
よって、ストーリーは割愛させていただく。

物語の前半は、描写する文章のそれぞれが、ちぎっては投げられてくるちょっと粗々しさを感じる。
文章は、軽いので、読み進むのに苦労はないだろう。そして、文章の若さが目立つ。当然、深みやコクのある物ではない。
通常の情景描写については、まったく現在に関係していないものを持て来たりと、散漫なところが目立つ。
しかし、セックスの描写になると、非常に丁寧で、時間経過に伴うものになっている。
この小説は、彼の教えている出身高校のラグビー部の練習風景と、付き合っている彼女とのセックスの描写だけで成り立っている。
途中に何か所か、友人達の言葉で埋まる章があるが、このあたりは、今のテレビドラマを見るようで、ちょっといただけない。

若い作家だけに、小説の新機軸を求め、読んでみたが、正直期待外れは否めない。
今年も、下半期の、芥川賞が発表される時期に来たが、どんな作品が受賞するやら。
受賞作が発刊されたら、また読んでみることにしたい。

2020年第163回芥川賞受賞、作者:遠野 遥

明日のためにその492-首里の馬

2020年11月02日 | 
主題の見えてこない作品。

ここのところ、本をたてつづに読んでみた。
以前の記事にも書いたとおり、私は長年にわたり、芥川賞受賞作品を読んできている。
今回も、今年の前期の芥川賞受賞、2作有るうちの「首里の馬」を読んだ。
今回はその感想を綴ってみたいと思う。
おおまかなあらすじを紹介しよう。

沖縄の郷土資料館に眠る数多の記録。中学生の頃から資料の整理を手伝っている未名子は、世界の果ての遠く隔たった場所にいる人たちにオンラインでクイズを出題するオペレーターの仕事をしていた。
ある台風の夜、幻の宮古馬が庭に迷い込んできて......(単行本の帯より引用)

文章は比較的軽く、読みやすい。詰まるところはなく、スムーズに読み進めることができる。
ただ、状況説明がやたらに長く、前半はその説明を永遠と聞かされている感じがする。
その長い説明の後、ようやく物語本体に入る。ここまでで結構読者は疲労感を覚えるのではないだろうか。
また、情景描写、人物の動作の描写がやたらに細かく、そこまで描く必要があるのかも疑問に思える処だ。
そして場面が様々なところに飛び、その関連性を的確に結びつけていないので、主題が見えてこない。
また文書上に、私としてはやたらにカタカナが使われいるのも、ちょっと奇妙な感じを覚えた。
この本の一番の失敗点は、物語の前半に描かれている、PCの故障に関する描写だろう。
作者は、古いPCが立ち上がらない時、会社の契約している町の電気店の店主が来て治しくれると書いてあるが、私自身、自作のPCを今まで数台以上組み立てた経験から言えば、この本に書いてあるようなことはありえないのだ。
PCが立ち上がらない原因を即座に見つけ、それをその場で修理すると、この本には書いてあるが、それは限りなく不可能な事である。
作者はもう少しPC等について勉強してから書くべきである。他にも電子機器等について、怪しげな記述が多々ある。これも本全体を汚してしまっている要因のひとつだ。

作者は過ぎゆく時間の大切さ、そして世界平和の大切さを訴えたかったのかもしれないが、それがいまひとつ迫ってこない。
題名になっている「首里の馬」も、その登場場面は少なく、何故これを本の題名にしたのか不思議である。
今回読んだ作品は、私にとってはちょっと残念な作品になってしまった。

2020年第163回芥川賞受賞、作者:高山羽根子

明日のためにその485-むらさきのスカートの女

2020年10月17日 | 
あなたの傍にいるかもしれない。

私は「芥川賞」をある程度追って読んでいるが、最近ご無沙汰していた。
昨年の上半期にそれを受賞した作品を、最近ようやく手に取り、読んでみた。
タイトルは「むらさきのスカートの女」。今村夏子著。
大まかなあらすじを紹介しよう。

私(主人公)は自らを「黄色いカーディガン」の女と呼び、ある一人の女性に異様な興味を持つ。
それは、主人公の界隈では有名な「むらさきのスカートの女」である。
無造作に伸ばしたボサボサの髪、窪んでシミの目立つ顔。どこから見ても少し異様な感じの女性である。
その「むらさきのスカートの女」に興味を持った主人公は、間接的に少しの援助を始め、その変化を観察していたのだが......

文書はいたって軽妙で、文書の深み、コクが少なく、そこが少し残念な所か。
それも相まって、読み進めるには苦労することがない本である。
ここに出てくるむらさきのスカートの女はこの物語の中に本当に実在するのか、主人公が作り出した幻なのか、読み進むにつれてそれに興味が湧く。
それは、人間の成長を投影した幻にも似た存在なのだ。

物語は終盤に向け、思わぬ展開が待っている。ここは実際に読んでいただきご自身で確認してもらいたい。
なかなかしっかり読ませる、160頁近いヴォリュームのある作品だが、読むには十分な価値があると私は思う。
特に最後の構成は凄い。小説を読んだ後の余韻が残る良い終わり方だ。
是非皆様も、ご一読いただくことをお勧めする。。

2019年第161回芥川賞受賞、作者:今村夏子。

明日のためにその272-定本 日本の喜劇人

2017年11月22日 | 
ここ最近、若手お笑い芸人の人気が過熱している。
私が思うに、人気の上にあぐらをかいた、軽佻浮薄なお笑い芸人が、ただ舞台で騒いでいるだけに見えて、とても空しい。
玉石混合と言う言葉があるが、今の若手お笑い芸人は「石」ばかりで「玉」がいないのが正直な所だろう。
また、かって活躍したお笑い芸人は、人気が出ると、出演番組をバラエティーの「パネラー」限定にしたりして、本業の「お笑い」については、まったくそれの出演をしない。
漫才をしない漫才師や、コントをしない喜劇人がどれほど数あるものか。
かって、昭和の時代には三回お笑いブームが起こった。
第一次は昭和初期の「エンタツ・アチャコ」を中心とする、漫才中心のブーム。
第二次は昭和四十年代前半の漫才、コントと様々なお笑い芸が花開いた時代。私は今でも、これほどお笑いの百花繚乱時代を知らない。
第三次は昭和五十年代中盤「ツービート」「B&B」を中心とした漫才ブーム。
しかしこれからが良くない。
第四次と言えるブームが起こらない内に、二十世紀が終ってしまった。
かって、三度もブームを起こしたお笑いの世界は、次の世代へバトンを渡し忘れたらしい。
本日紹介するのは、この日本のお笑いを構成した「喜劇人」に焦点をあてた本「定本日本の喜劇人」だ。
著者は中原弓彦、現在は小林伸彦として執筆活動をしている。
本の内容を紹介していこう。
最初は、昭和初期の日本の喜劇人から紹介している。
古川緑波(通称ロッパ)榎本健一(通称エノケン)、更に日本の喜劇界のエポック、森繁久弥と続き、クレージー・キャッツ、藤山寛美の紹介で筆を置いている。
上記は、代表的な内容で、本自体はもっと多くの、過去の日本喜劇の状況をつぶさに、丁寧に紹介している。
この中でも、私が最も興味を持って読んだのは「トニー谷」の章だった。
以前このブログでも取り上げた、トニー谷。私の生まれる前の人気ボードビリアンであったが、それを示す書物等は皆無である。
個人的に好きな喜劇人である彼を、彼の人柄等を含め、知ることのできたのは、私にとっては収穫だった。
この本は、1970年代に発刊されているが、その後、1980年代に、第三次お笑いブームまでを補足したものが、文庫本として発刊されている。
いかに喜劇と言う物が面白く、また興味深いと言うことが十分に理解できる本である。
是非、皆様に一読をお勧めする。

明日のためにその265-文学考

2017年11月15日 | 
現在の日本において、文学に贈られる代表的な賞として「芥川賞」「直木賞」の二つが挙げられる。
一般的に言われるのは「芥川賞」が純文学を対象に「直木賞」が大衆文学を対象に、それぞれの賞が授与されている。
では、この「純文学」と「大衆文学」とはなにが違うのだろうか。どこにその違いを見いだせるのか。
話は逸れるが、例えば「映画」を例に取ると、その根本とは、素晴らしいカットの連続である。決して台詞まわしなどではない。
同様に「音楽」の場合は、その根本とは、音そのものである。決してメロディーの流れだけではない。
上記から「文学」を導けば、その根本とは「文字の連立から形成される文章」である。決してストーリー性ではない。
文学でも、映画でも、音楽でも全てストーリーを持っている。しかし、そこに騙されてはいけない。
ストーリー性とは、ストーリーテラーが表す、現在・過去の状況から、読者に未来を予想させ、その答え合わせをするものであり、芸術性を問う対象とはならない。
では、ストーリーを取り払うと文学は成り立つのだろうか。
全くの「文字の連立から形成される文章」だけでは無理であろう。大まかな流れだけは必要である。
ストーリーは、より大きな川幅さえあれば良い。あとはどれだけ「文章」がうねり、独立するかだ。
以前このブログで紹介した笙野頼子の「タイムスリップコンビナート」やこれも以前ブログで紹介した山下澄人の「しんせかい」等は「文章が独立し、芸術性を持った作品」と言えるだろう。
今回は唐突な内容となってしまったが、自分なりの芸術論を投稿させていただいた。
勿論これは私自身の理論であり、本ブログを拝読いただいている皆様も、ご自身の理論をお持ちであろう。
ただ一つだけ言わせていただけるなら、作品は選ぶこと。どんな作品でもいいから、かたっぱしに体験されるのはやめた方が良いだろう。時間の無駄であり、折角の感性を鈍らせることにもなろうから......

明日のためにその264-影裏

2017年10月09日 | 
人間、人と過去との関係を断ち切るのは難しい。
自分以外の個人と接するとき、自分の琴線が触れたとしても、相手も同様か分からない。
今回紹介するのは、最新の芥川賞「影裏(エイリ)」である。
あらすじを少し紹介しよう。

主人公は、バイシェクシャルである設定の男子。
それと係わるのは、世渡りの上手い男子である。
その成人している二人は、微妙な関係を築きながら付き合いを続けている。
二人とも釣りが好きなのだが、主人公の友達の気まぐれで、非常にまずい関係になってしまう。
二人は会社の同僚だったのだが、友人が会社を辞め、別の会社で働くようになる。
二人の関係が希薄になるなか、東日本大震災がおきる。
その犠牲になったと噂を聞いた主人公は、友人の親と合い、状況を聞くことになるのだが.....

まずこの作品、描写力が素晴らしいとのことで、審査会で評価された。
しかし、私にとっては、どこがどう良いのか分からない。
表現力は、稚拙である。
そして、難しい漢字をやたら使い過ぎる。
まるで、大正~昭和初期の文学を読むがごとくである。
そして、小説の主題を考えると、それは何もない。
芥川賞なので、ストーリーテラーを期待することはない。
しかし、文章で読ませるほどがないのだ。これは以前紹介した「しんせかい」とは差異がありすぎる。
稚拙な文章でも、読者を取り込んだ「しんせかい」に比べ、何が良いのか分からないこの作品は、過去にもあった「芥川賞」の大いなる失敗と言えるのではないだろうか。

私の感想は以上のとおりであるとともに、皆様にもお勧めできる作品ではない。
もし、お読みになる方がいたら、国語辞典を片手に読むことをお勧めする。
感動とは、遙かに遠い作品と私は思う。

明日のためにその260-しんせかい

2017年05月24日 | 
稚拙な文章に見え隠れする作者の意図。

今年も上半期の芥川賞の発表が、間近に迫ってきた。
私は以前、芥川賞の小説を追って読んでいた。
その世界は玉石混合、感銘受ける作品もあれば、何故これが芥川賞?と首を傾げたくなるものまで様々あった。
日本の文学界の最も名誉であろう芥川賞は、その存在意義を問われる作品も多く排出してきたと、私個人は思っている。
今回紹介する作品は、山下澄人著「しんせかい」である。
ストーリーを紹介しておこう。

高校を卒業した「スミト」は、北海道で俳優になるべく、住み込みで研修を行なう通称【谷】と呼ばれる施設へ入所する。
そこは「第一期生」と呼ばれるスミトより一年早く入所した人々が存在し、主に自分たちの手で建物を建て、近隣の農家を手伝い、自らも農業をして、日々の糧を得る自給自足の世界だ。
スミトはそこの「第二期生」となり、同時に入所した人々と生活を共にする。
この【谷】と呼ばれる場所の総括者は【先生】と呼ばれ、彼らの農作業等の空いた時間に【谷】に来ては「脚本」または「俳優」の養成をするべく、様々な指導をする。
俳優を目指して入所したスミトだったが、授業よりも格段に多い農作業等に従事することに徐々に疑問を持つようになり..........。

ストーリーを読まれてピンときた方もいらっしゃるだろう。
これは、そう、昔、脚本家の倉本聡が自身で開港した北海道の「富良野塾」のことである。【谷】とは富良野塾を指しているとおぼしい。
作者の山下澄人は実際に富良野塾の二期生として入塾した経験をもっている。その時のことを書いたのがこの小説「しんせかい」なのだ。
この小説には、やたらに登場人物が多い、十人以上いる。いやもっといたかもしれない。
私は登場人物がやたら現れるのを察知した瞬間、登場人物を記憶しないことにした、いちいち記憶しては本が先に進まない。作者は読者が登場人物を覚えてくれるとは最初から思っていずに本を書き進めたのであろう。
また文章が、語句がいたって簡単。失礼な表現をすれば「稚拙」である。
しかし侮ってはいけない。
作者は構成した文章を、一旦全てとり壊し、再度必要なピースだけを集めて構築した意図が見える。
文章のニュアンスは、普通では書かない言葉の連続になっている。
なんとも読みづらいが、そのニュアンス、テンポには独創性があり、作者の非凡さを垣間見える。
トータルページ約140.。中編小説の部類に入ると思うが、上記のように独自性が強く、読むのには多少苦労した。
しかし、今までの小説とは明らかに別ステージにある小説として、評価はしても良いのではないだろうか。
興味を持った方には、お読みになることをお勧めする。

2016年下半期、第156回芥川賞受賞、作者:山下澄人。

明日のためにその204-できんボーイ

2016年01月30日 | 
ジェットコースターギャク漫画。

最近漫画を読んでいない。
昔「北斗の拳」や「ドラゴンボール」が掲載されていた「少年ジャンプ」は、発売を待ちきれない程熱狂し、愛読していた。
その連載も終了し、新たな興味を引く漫画を探したが、残念ながら私にベネフィットするものは無かった。
少年時代、こずかいを貯め、時には親に無理を言い、週間少年雑誌の全てを読んでいた。「少年サンデー」「少年マガジン」「少年キング」である。
「少年ジャンプ」や「少年チャンピオン」は、某作家の「ハレンチ」関係の連載があったので、親もさすがに、私にそれを読むことを禁じていた。
週間少年雑誌の愛読は、十代半ばまで続いた。
そのころ驚くべき漫画作家と出会った。
「田村 信」である。
彼との出会いは「少年サンデー」に連載されていた「できんボーイ」である。
この漫画を読んだときの衝撃は、いまだに忘れられない。
脈絡のないストーリー展開、人物のハチャメチャなキャラクター設定、その他様々な常識では考えられないないような内容の漫画だった。
読む側が、心してかからなければ読めない漫画である。
俯瞰して読んでしまっては、面白くない。なんだこれはの世界である。
しかし「田村ワールドに乗るぞ」と心して読むと、大笑いの連続の漫画である。
そう、笑いの「ジェットコースター」に乗る気持ちで読むのだ、そうすれば彼の漫画ワールドにどっぷり入りこめる。
主人公の「ちゃっぷまん」その友達の「キッド君」そして「ちゃっぷまん」の両親、決して上手いとはいえない作風だが、そのいいかげんさが良い。
或る回には銀行の看板を「BANK」と書くところを「BANKU」と書いてしまい、「U」の文字を上から消している場面がある。普通ならば書き直すところを、子供が文字を消すようにペンで消しているのだ。
常識では考えられない、作風である。
また、この漫画で特筆できる点は「擬音」である。
「すぺぺぺぺー」「ずももももー」など、当時の常識では考えもつかない擬音が画面を走る。
そして忘れてはならないのは、臀部の表現である。
ちゃっぷまんは、やたらに臀部を露出する。その場面では必ず彼の臀部に「しり」と書いてある。
また「物」にも、荷札をつけてそれが何か(見れば何かわかるのだが....)しっかり書いてある。
まさに「田村ワールド」恐るべしである。
以前から「できんボーイ」の単行本を探していたのだが、2000年に「できんボーイ完全版」と言う本が出版された、前編、後編の二巻である。
当時、私はこれを大変喜び、発売早々買ったものだ。
今回、この記事をブログに投稿するにあたり、再度「できんボーイ」を読んでみた。
間違いなく傑作ギャク漫画である。
しかし、読むのは三話程度で留めておこう。脳みそが沸点にたっしてしまうから。

明日のためにその114-大衆音楽の真実

2013年10月13日 | 
ポピュラー音楽の歴史を紐解く傑作本。

私は1980年代の後半様々な音楽を聴いてきた結果それに飽きてしまった。
1980年代初頭に始まった「パンク・ニューウエイヴ」も一段落してアメリカの音楽が次第に世界のポピュラー音楽に影響を及ぼしていった。
邦楽についても「歌謡曲」が徐々に減り始め「J-POP」なる新しい分野が台頭、中心は若いバンドの楽曲となっていった。
私はその頃自分のバンドの楽曲作りで忙しく、あまり他のミュージシャンの作品を聴いていなかった。
更に古典楽曲が好きだった私は古いキューバーのLPなどを買いそれを聴いていた。
ある意味私の音楽を聴く空白を埋めてくれたのはそれらの古典ポピュラー音楽だった。
ちょうどその頃一冊の本が出版された。
今回紹介する「」である。
作家は音楽評論家でもある「中村とうよう」
私は早速その本を読んでみた。
まさに目から鱗、私の音楽の世界観が広がった。
世界で最初に確立された音楽はインドネシアのクロンチョンと言うもので16世紀あたりの出来事だとこの本にはある。
そしてポピュラー音楽とは国同士の混血音楽であると明言している。
この本には実際に文中で紹介した楽曲が聴けるようにLP2枚組みのレコードが2種類発売された。
私は逸る気持ちをおさえながらこのLPを2種類とも購入し、聴いてみた。
私は思った「これぞ求めていた音楽これからは必ずこれが流行る」
まだ「ワールドミュージック」と言う音楽ジャンルが生まれる前である。
それから私は輸入レコード店に足しげく通い様々な古典ポピュラー音楽のLPを買っては聴いていた。
今でこそ市民権を得た「ワールドミュージック」であるが当時は流行盤などレコード店には置いておらず前述のように古典盤を買うしかなかったのである。
この500ページを越える大書、その中身は濃くて深い。
この本を読み世界のポピュラー音楽に興味を持ってから一年程度経た時初めて「ワールドミュージック」と言うジャンルが確立され様々な世界のポピュラー音楽の新譜が入手できるようになった。
前述したLP2枚組み2種類のレコードは後に曲を追加しCDで3種類発売された。
私はこれを買いそこねていたので先日オークションで3種類まとめて買った。
買って驚いたのだがCDは単にLPの曲に他の曲を追加したものではなく、殆どの曲はLPに収録されていたものだがLPに収録されている曲でもCDに収録されていない曲や曲は収録されているが歌手が違うものなどあり、結局LP、CDともに買わないとこの本の著者が提示してくれたサンプルは聴けないことになる。
できれば本と音源を購入しワールドミュージック流行前夜を味わっていただきたい。
1986年初版、著者:中村とうよう。


明日のためにその86-小説 苦役列車

2013年05月29日 | 
小説「苦役列車」

私小説。
日本文学黎明期には必ずしも歓迎された小説形態ではなかった。
むしろ低俗なレベルの小説であるとも言われていた。
しかし今回紹介する「苦役列車」を代表に私小説再評価されているという。
この小説は以前このブログでも紹介した山下敦弘監督の同名映画の原作である。
ストーリーを紹介しておこう。
北町貫多は日雇い人足をなりわいにしているその日暮らしの青年である。
彼は2~3日に一度日雇いの仕事をしてその日の日当をほぼ使い切る生活をしている。
彼の一家は過去に父親が起こした犯罪によって離散となり母親との連絡だけができる状態だ。
気まぐれに日雇い仕事をし、その日暮らしを決め込んでいた彼はある日彼は日雇い現場へ行くマイクロバスの車中で同い年の専門学校生、日下部正二と知り合いになる。
日下部は貫多と違い毎日日雇いの仕事をこなす。
貫多もそれにつられ毎日日雇いの仕事を行なうようになり、日下部とも親交を深めてゆくのだが......
まず映画との違いだが映画はこの小説の日下部と知り合って以後のことが中心に描いてある。
さらに映画で設定されていた貫多があこがれる女性康子は小説には出てこない。
小説はもっとドロドロしたものだが映画ではそこまで描いていない。
西村もこの映画には不満であるという。
本題の小説に戻ろう。
とにかく作者の言葉の豊富さには驚かされる。
使用される漢字の多様さにも感嘆する。
とても昨今作家デヴューした人物の書いた小説とは思えない。
文章はどこかゴツゴツし、なかなか飲み込めないところもあるのだがそれが一種の魅力となっている。
以上のような要素から、なかなかスムーズに読み進める作品ではなかった。
しかし確固としたスタイルを持った素晴らしい小説であり今後の彼の活躍も十分に期待できるものである。
やはり映画を観るときは原作を読んでから観た方が良いと思った。
この作品は原作の方がより深く重い。
しかし映画の方も映画的には駄作とは言いがたいところがある。
是非原作を読み映画も観ることをお勧めする。
2010年発表、著者西村 賢太、芥川賞受賞作。