ダーリン三浦の愛の花園

音楽や映画など徒然なるままに書いてゆきます。

明日のためにその163-テクノポップ

2015年08月31日 | パンク&ニューウエイヴ
テクノポップ今昔。

それは1970年代末突然に起こった。
欧米を中心とした「パンク&ニューウエイヴ」である。
このインベイションは、瞬く間に世界中を席巻した。
当時の音楽ジャンルは「ニューウエイヴ(パンクを含む)」と「オールドウエイヴ」に区別された。
「オールドウエイヴ」とは1970年代の「ヘヴィ・メタル」「プログレッシブ・ロック」「アート・ロック」等を示し、一部の音楽フアンの中には「古い頭の人間が聴く音楽」として、軽蔑すらされていたのである。
この頃、学生だった私は「パンク&ニューウエイヴ」に衝撃を受けた。
まずは「パンク」の代表「セックスピストルズ」に影響を受け、アマチュアバンドを組み、彼らの曲をコピーしたものだった。
それと平行して「ニューウエイヴ」にもかなり凝った。
当時流行のレーベルを雑誌などで探し、レコードを買った。
しかし現在のように、流通の良い時代ではなく、殆どのレコードは輸入盤に頼るしかなかった。
これが結構高額で、学生の身分ではなかなか買えなかったことを覚えている。
日本のポピュラー音楽にも「ニューウエイヴ」は、早くから浸透していた。
その代表格が「イエロー・マジック・オーケストラ(略称YMO)」だ。
彼らの作り出す音楽は「テクノポップ」と呼ばれ、海外でも評価が高かった。
それに続いて「プラスチックス」「ヒカシュー」「P-モデル」等々、多くのテクノポップバンドが現れた。
海外ではドイツの「クラフトワーク」アメリカの「デーヴォ」などがテクノポップの先端を行った。
テクノポップとは、リズムマシンを中心に、キーボードで「ピコピコ」と聴こえる音をふんだんに使った音楽だ。
海外では同時にキーボードを中心に据えた「エレクトリック・ミュージック」も流行った。
この代表格はイギリスの「ゲイリー・ニューマン」だ。

とにかく「ニューウエイヴ」は何でもありの音楽、そこが私の食指をそそった。
1970年代に、特に興味を引く音楽を見つけていなかった私にとって、それは新鮮だった。
ちょうど1990年代初頭に、西洋圏の音楽に飽き「ワールドミュージック」を聴きだした頃と似ている。
「ニューウエイヴ」も1980年代中頃には、ブームも落ち着き、新鮮な音楽も発表されなくなった。
その後、現在に至っては、やたらジャンル分された音楽が並ぶ。
「ニューウエイヴ」の中で、生き残った音楽もある。
前述した「テクノポップ」がそのひとつである。
日本においては「パフューム」「きゃりーぱみゅぱみゅ」が代表であろう。
下に日本の「テクノポップ」黎明期に活躍した「プラスチックス」の代表曲と、現在も活躍中の「パフューム」の初期の楽曲を貼った。
テクノポップの今昔の違いを堪能いただきたい。

The Plastics - Top Secret Man


Perfume「リニアモーターガール」

明日のためにその162-欽ドン

2015年08月28日 | お笑い
欽ドンの思い出と私。

以前から、このブログで「今のラジオはつまらない」と私は言い続けている。
昔のラジオ番組には企画があった、企画があってはじめて「番組」と言える。
今のラジオ番組には、それがない。
正確に言うと、企画のある番組もあるが、その内容がつまらない。
今から30年以上前、私はラジオが大好きだった。
そこ頃のラジオ番組には、しっかりした企画があった。
その白眉と言えるものは東海ラジオと記憶しているが、聴取者のリクエストに答え、音に関する全てのものを放送した。(番組名は記憶に薄いが「なんでもリクエスト」と言う番組名だったと思う)
例えば「雪を踏む音が聞きたい」といえばそれを放送したり、とにかく世の中に溢れる、音と言う音は可能な限り放送していた。
今では、考えられないような番組である。
そんな「ラジオ黄金期」に一世を風靡したラジオ番組があった。
萩本欽一をメインパーソナリティにした「欽ちゃんのドンといってみよう!」(以下欽ドン)だ。
この番組は月曜日~金曜日の放送で、聴取者から曜日ごとに異なるお題で「お笑いのネタ」を募集し、放送で萩本欽一が、独特の話口調で読み上げた。
番組で採用された投稿者には、スポンサーの集英社発行の雑誌名の賞がおくられ、その日の最優秀賞には現金5,000円が送られた。
恥ずかしながら私も、何通か応募し、そのうち2通が放送で読み上げられ、そのうち1つは最優秀賞の5,000円を獲得した。
ちなみに、私が最優秀賞を獲得したネタは、今は伏せておく。
決して現在公表しても、笑えないネタである。
この「欽ドン」は、テレビ番組にもなった。
スタジオに一般人を集め、それに囲まれるような形で萩本欽一、前川清、香坂みゆき(デビュー直後)が並び、ラジオと同じく投稿者からのネタを読んだ。
これが後に「視聴率100パーセント男」と呼ばれた、萩本欽一のヴァラティデビューである。
また「欽ドン」は単行本にもなった。
確か4~5冊発行されたと思う。
単行本の内容はいたって簡単、ラジオで採用されたネタを収録しただけのものだった。

当時私は様々なラジオ番組に投稿していた。
中にはローカル番組だったが、常連となり、実際その番組に出演したこともある。
昔はそれほどラジオが面白かった。
下に「欽ドン」のリンクを貼った。
確かに素人の感は否めないが、それなりに笑える「素人ネタ」を堪能していただきたい。

欽ちゃんのト?ンといってみよう!

明日のためにその161-アメリカン・スナイパー

2015年08月26日 | アメリカ映画
孤独の狙撃者。

アメリカのイラク戦争については、様々な議論がなされてきた。
本日の国会中継でも山本太郎議員が、その点について首相に質問をしていた。
果たして、あの戦争は正義だったのか。
本日紹介する映画は「アメリカン・スナイパー」
イラク戦争で、アメリカ戦闘員を守る「狙撃手」として活躍した男の物語である。
ストーリーを紹介しておこう。

カイルはテキサス生まれ。
厳格な父親から「弱い者は必ず守ってやれ」と、常に聞かされていた。
成長した彼はロデオに興じ、カウボーイに憧れていた。
しかし、アメリカ大使館爆発事件をテレビで見て、彼は特殊部隊「ネービーシールズ」に入る。
そこで厳しい訓練を受けた彼は、イラク戦争に派遣されることとなる。
私生活では結婚もして、子供ももうけた彼だが、妻の反対を押し切って戦争に向かうのだった......

彼は味非情だ。
戦場で、テロ要員だと思う者なら、女性だろうが、子供だろうがライフルを向け弾を放つ。
そして彼の脳裏には、幼い頃から父親に言われた「弱い者は必ず守ってやれ」と言う言葉が刷り込まれている。
合計4度も、彼は戦地に赴く。
しかし、さすがの彼も同僚の負傷や戦死等で徐々に疲弊し、やがて「ネービーシールズ」を辞め、退役軍人のためのカウンセラー的な仕事に就く。
その彼を最後に待っていたものは、悲惨な現実だった。
この物語はフィクションではない、現実の物語だ。(当然脚色はあるが)
彼の責任感の強さは、或る意味見習ってはいけないかもしれない。
人間は、ケースバイケースで変化をしなくてはいけない。
まじめすぎて、そして孤独になり、人生を全うすることはそれほど立派だろうか?
私自身、変わり身の上手い人間ではないので、とても考えさせられる作品となった。
監督は名匠、クリント・イースト・ウッド。
さすがに映画の作りは上手い。
皆様にも是非観ることを、お勧めする。

2014年アメリカ製作、カラー132分、2015年2月日本公開、監督:クリント・イースト・ウッド

明日のためにその160-ヴェールカ・セルヂューチュカ

2015年08月24日 | ワールドミュージック
女装の麗人。

私は、ロシアの音楽もよく聴く。
ロシアの音楽は、短調を基本とし、寂しげなメロディーにアップテンポのリズムをつけたり、スローリズムをつけたり、様々なパターンがある。
他のポピュラー音楽にはない、独自の世界がそこにはある。
本日紹介するのは、ロシアと言っても、旧ソビエト連邦構成国「ウクライナ」のポピュラー音楽である。
その代表的かつ異色の存在として「Верка Сердючка(ヴェールカ・セルヂューチュカ)」を挙げるべきだろう。
彼は1973年にウクライナに生をうける。
彼の活動は幅広く、お笑いから歌手までこなすという。
2007年には「ユーロビジョン(EU加盟国で行なわれる歌謡コンテスト)で2位になったこともある。
彼は歌うとき、何故か女装をして歌う。
声も男性とも女性ともつかぬ、中世的な声だ。
何故彼が女装して歌うのか、私は知らない。
そこには、先日紹介した日本の「トニー谷」的な、異端芸が垣間見える。
彼のレパートリーは広く、アップテンポのリズムから、スローテンポのリズムまで歌いこなす。
一度知ったら、忘れられない存在になることうけあいである。
旧ソビエト連邦は東西に長い。
今後紹介する機会もあると思うが、旧ソビエト連邦構成国のポピュラー音楽は、万華鏡のごとく、様々な音楽が存在する。
皆様も、もし旧ソビエト連邦構成国の音楽を聴く機会があったら、色々な国の音楽を聴いていただきたい。
今は面白くなくなってしまった、日本や西洋圏のポピュラー音楽との違いを実感できるだろう。
下に「ヴェールカ・セルヂューチュカ」の、音楽のリンクしを貼っておいた。
是非お聴きいただきたい。

Verka Serduchka - Dancing Lasha Tumbai (Ukraine) 2007 Eurovision Song Contest


明日のためにその159-トニー谷

2015年08月21日 | お笑い
異端芸人の華。

私が幼い頃、テレビで「アベック歌合戦」と言う番組を放送していた。
アベックが登場し、司会が「あなたのお名前なんてーの」と歌い、アベックの男女がツイスとを踊りながら、それぞれ「xxxxと申します。」と名前を言う。
そして、それが終ると歌を歌い、他のアベックと競うと言うものだった。
これが私の記憶に微かに残る「トニー谷」との出会いだった。

トニー谷
大正6年、銀座生まれ。
戦争中は南京、上海にいて、終戦を上海で迎える。
昭和20年日本に引き揚げ、東京宝塚劇場の制作に助手として入社。
昭和25年本格的にMCとしてデビュー。
その後隆盛を極め、数々の流行語を生み出す。
昭和46年ハワイに居を構える。
その後日本に帰国、復帰をもくろむが成功せず。
昭和62年7月没、69歳。

簡単に、トニー谷を紹介するとこのようになる。
全盛期を知らない私にとって、トニー谷の人気がどうだったのか、皆目見当がつかない。
しかし当時を知る人々は、その人気の凄さに驚嘆したという。
フォックス眼鏡にきざなヒゲ、赤いジャケットに白いズボンといういでたちで「レディースアンドジェントルメンアンドおとっつあん、おっかさん」と叫ぶと会場の観客が、狂喜乱舞したと言う。
そもそもトニー谷は、以前このブログでも書いた、戦後日本の「ジャズコンサートブーム」乗る形で表舞台に姿を現した。
当時ジャズコンサートのMCを努めていたトニー谷は、歌手や楽団より人気があり、トニー谷見たさに客が集まったと言う。
しかし、常に目立ちたがりで、他人より指先一本でも先に出ていたい彼は、MCの時も歌手が歌っているにも関わらず、舞台袖から奇妙なフラダンスを踊って出てきたり、江利チエミを「下痢チエミ」と呼び雪村いずみを「雪村ねずみ」と悪びれずステージで呼んだ。
これがまた観客には大いにうけた。
流行語も多く生み出した、代表的なものは「家庭の事情」「おこんばんわ」「ごめんあそべ」等々である。
中でも「家庭の事情」は最もヒットした流行語であり、映画も製作された、勿論トニー谷主演である。
私は昔からろくにトニー谷の事は知らなかったが、大きなソロバンをパーカッション代わりに叩き、歌を歌う姿を、トニー谷復帰後に見ている。
私はそれに憧れ、私自身の作詞・作曲による「ごめんあそべ」と言う楽曲を作った。
勿論、片手にソロバンを持ち、歌を歌った。
これが結構反響があり、その年のアマチュアバンド大会の、地区決勝大会まで行くことになった。(その楽曲については「明日のためにその7」を参照)
晩年トニー谷は落ちぶれる、正確に言うと彼の子供が誘拐された頃からかもしれない。
それまで、芸能界では散々悪態をついて、人より目立つためなら何でもした彼だが、彼の子供が誘拐されたとき、そのショックから衰弱した彼の素顔を見た人々から、彼を励ます声が上がった。
事件は無事子供が戻り、事なきを得たが、その後彼は悪態をついて笑いを取ることをやめた。
彼はその悪態、毒舌により、芸能界では孤独だった、しかし彼のそれらが彼をスターダムに押し上げたのだ。
彼は常に孤独で、自分の家庭だけを愛していたと言う。
そんな彼でも、病院のベットの上では「一人はだめ、トニーは悲しい」と繰り返し呟いていたと言う。
「孤独の外道芸人」それが芸能界で彼につけられたニックネームだと言う。
人よりも、指先一本でも目立っていないと気がすまない、私は現在の「明石屋さんま」を彼に重ねてしまう。
無論さんまはトニー谷と違い「孤独」では無いと思うが。

下に復帰後のトニー谷の歌唱動画を貼った。
その見事なソロバン捌き等を是非見ていただきたい。

トニー谷 さいざんす・マンボ


ダーリン三浦と横浜シューシャンボーイズ ごめんあそべ

明日のためにその158-幕があがる

2015年08月19日 | 邦画
秋、彼女たちの「幕があがる」

私は、演劇と言うものをあまり観たことがない。
テレビの演劇中継は、基本的に観ないことにしている。
演劇とは、観客席でフィックスされた状態で観るべきである。
テレビ中継だと複数のカメラで、舞台を映す。
これはすでに「カメラ=万年筆」の定義が成り立ってしまう。
私達は「舞台」を観ているのではなく「カメラ」の映し出した「ありえない」視点からの「映像」を観ているのだ。
しかし、全く演劇を観たことがないと言う訳ではなく、何年も前になるが、私のバンドでキーボードーを演奏していた女性が、高校、大学と演劇部に所属していた。
彼女が大学生時代に彼女の舞台を観たことがある。
かなりシュールで、アヴァンギャルドな内容だったので、理解に苦しんだ事を思い出す。
今回紹介する映画は「幕が上がる」
高校演劇部の話である。
ストーリーを紹介しておこう。

県立富士ヶ丘高校の演劇部は弱小で、今年もコンテストの一次予選で敗退した。
そんな折、三年生が卒業の時期を向かえ、新三年生の中から皆のまとめ役でもあった高橋さおりが部長に推薦され、部長をすることとなる。
しかし、一向に志気は高まらず、展望もなかった。
そんな時、新任教師として吉岡美佐子と言う女性が彼女達の前に現れる。
ネットの検索で、彼女がかって高校演劇の女王と呼ばれていたことをさおり達は知る。
さおりを中心に吉岡に演劇指導を乞うことにしたのだが..........

監督は「本広克行」「踊る大捜査線」シリーズを監督している。
主演・キャストは「ももクロ」こと「ももいろクローバーZ」
しかし、これは決してアイドル映画ではない、しっかり作られた青春映画である。
特に劇中の夜のプラットホームでの会話のシークエンスはとても良く作られている。(BGMは不必要だと思ったが。)
同じような題材の映画に中原俊監督の「桜の園」がある。
こちらも傑作で、後日のブログに記事を書くつもりである。
その「桜の園」と比べてはいけないが、この作品は良いレベルまで達していると思う。
ラスト、すっかり脚本家と舞台監督が身についたさおりが、緞帳を上げるカウントダウンをする。
そして、彼女達の幕は上がったのだった。

2014年日本製作、カラー119分、2015年2月日本公開、監督:本広克行

明日のためにその157-ダンドゥイット

2015年08月17日 | ワールドミュージック
インドネシア音楽が熱い。

以前にもこのブログに書いたが、世界初のポピュラー音楽は、インドネシアで生まれた「クロンチョン」と言われている。
16世紀、大航海時代にヨーロッパの列強国が、アジアの国を植民地化した。
そこで様々な文化が交流し、新しい物を生んでいった。
音楽もその一つで、当時ポルトガル支配下だったインドネシアで、ポルトガル船に乗っていた人々が、各国の音楽をインドネシアに伝え、さらにそれらが混合されて「クロンチョン」は生み出された。
日本でも、太平洋戦争後、松田トシが「ブンガワンソロ」と言う「クロンチョン」をリリースし、ヒットしたことは知られている。
その後、インドネシアにおける大きな音楽のムーヴメントはおこらなかったが、1970年代、音楽の一大革命が起こる。
「ダンドゥイット(dangdut)」の誕生である。
この「ダンドゥイット」は「ロマ・イラマ」と言う男性歌手が創作したものとされ、曲中に使用される打楽器「クンダン」のリズムを擬音化して命名された。
「ロマ・イラマ」に続き「エルフィ・スカエシ」と言う女性歌手がそれに追随し「ダンドゥイット」は広くインドネシア中に知られることとなる。
当初はアナーキイズムを持った歌詞が問題視されたが、徐々に「ダンドゥイット」は市民権を得た。
その後、一時期ブームは下火となり、以後の「ダンドゥイット」はどうなるのかと心配していたが、ここ数年ほど前から再ブームが到来、以後安定したジャンルとして音楽を提供している。
私が「ダンドゥイット」を知ったのは、25年ほど前になる。
当時インドネシアでは、レコードを製作しておらず、音楽媒体は全てカセットテープだった。
しかし日本のマイナーレーベル「スープレコード」が日本で独自にレコードを製作、私はそれを購入し「ダンドゥイット」を聴いていた。
そして、あるきっかけがあり、最近また「ダンドゥイット」を聴き始めた。
今や「ダンドゥイット」も多様化し「ダンドゥイットレゲエ」「ダンドゥイットディスコ」など新たなジャンルが生まれている。
しかしに問題がある。
日本でなかなかCDが入手できないのだ。
私はあることから、「ダンドゥイット」などを扱っている、ネット専用ショップサイトを発見し、そこでめぼしいものを購入している。
しかしそのサイトも万能ではなく、最近リリースされたCDについて問い合わせたが、扱いは無いと言う。
一説にはインドネシア盤よりマレーシア盤の方が入手しやすいらしい。
マレーシアは多くのインドネシア人が出稼ぎにいくという、そういう事情もありマレーシアでのCDリリースの方が本家のインドネシアより多いらしい。
私は今後も「ダンドゥイット」との付き合いを続けて行くつもりだ。

下に「ダンドゥイット」リンクを貼った。
今や大御所の雰囲気漂うベテラン歌手「イヌル・ダラティスタ」と若手歌手の「アユ・ティンティン」である。
熱いビートをご堪能いただきたい。

CEMBURU - INUL DARATISTA


Ayu Ting Ting - Single Happy


明日のためにその156-花木京

2015年08月14日 | お笑い
巨星堕つ。

ちょうど先週の金曜日、よしもと新喜劇を中心に活躍した「花木京」が逝去した。
享年78歳であった。
私は子供の頃から「お笑い」が大好きだった。
中でも「よしもと新喜劇」は子供の頃から、今に至るまで見ている。
私が最初に夢中になった「お笑い」は「コント55号」である。
天才喜劇作家の萩本欽一がネタを作り、舞台上で体をはった演技で笑いをとる。
彼らの映画も観に行ったし、テレビでのレギュラー番組「コント55号の世界は笑う」は毎週欠かさず見ていた。
次に私が熱中したのは「ドリフターズ」だった。
彼らの映画も観たし、テレビ番組も見ていた。
私の子供の頃はお笑い番組も豊富だった。
中でも土曜日はお笑い番組が多く、毎週ワクワクしながらテレビの前に座ったものだ。
まずは12時から「よしもと新喜劇」を見る。
次に13時から大阪の寄席「角座中継」を見る。
この番組は新旧取り混ぜた漫才や漫談が楽しめた。(ちなみに「かしまし娘」などはこの番組でリアルタイムに見ている。)
そして14時からは、また別のチャンネルで別内容の「よしもと新喜劇」を見る。
20時からは最も楽しみにしていた「ドリフターズ」の「8時だよ、全員集合」の始まりだ。
加藤茶の「ちょっとだけよ~」から志村けんの「東村山音頭」まで、長年この番組を見ていた。
「ドリフターズ」で私が一番好きだったのは「荒井注」だった。
横暴で、ふてぶてしい態度から発せられる決まり文句「This is a pen」に大笑いしたものだ。
話が横道にそれてしまった、花木京に戻ろう。
前述したとおり、毎週土曜日お笑い番組漬けになっていた私は「よしもと新喜劇」で、よく花木京を見ていた。
彼は「てなもんや三度笠」で有名な「原哲男(故人)」と多くコンビで舞台に上がった。
彼の上手さは舞台で光った、アドリブなのだろうか、相手方の原哲男を本番で笑わしてしまい、劇が進まなくなる寸前までそれは続いた。
私はそれ以後「よしもと新喜劇」で、このような光景を目にしたことは無い。

花木京、1937年に大阪で生まれる。
父親は、昭和第一次漫才ブームを牽引した漫才コンビ「エンタツ・アチャコ」の横山エンタツである。
1962年に吉本興業に入社、翌年早くも座長となる。
1989年吉本興業を退社。
その後映画やテレビドラマに活動を広げる。
NHKの朝の連続テレビ小説「やんちゃくれ」などにも出演していた。
2003年自宅で入浴中に倒れ、病院に運ばれ、その後病院にて隠居同然の生活をしていた。
そして前述のとおり、2015年8月5日「肺炎」により逝去、78歳であった。

私の意見であるが、35年程前の、第三次漫才ブーム(B&B、ツービトの時代)以降お笑いの質が低下している。
事実「第四次漫才ブーム」は聞いたことがない。
第三次漫才ブームの頃は、既成の形にとらわれないことが新鮮とされ、私自身もその新しさに感心し、よくテレビで漫才などを見ていた。
しかしそれは「基礎」ありきが前提だ。
多くのお笑いを目指す若者は、肝心な「基礎」をしっかり身につけなかったのではないだろうか。
「よしもと新喜劇」も一時に比べ、個性の強い役者が少なくなってきている。
花木京のような、キャラクターを持った役者が現れるのは、望むべくもないが。
まさに「巨星堕つ」である。

明日のためにその155-リベリオン

2015年08月12日 | アメリカ映画
近未来SFアクションの傑作。

近未来SFアクションと言えば「マトリックス」がまず挙げられるだろう。
私は「マトリックス」シリーズを、全て観ているが、一作目は良くできた作りで感心した。
しかし、シリーズが進むにつれ、ストーリーは心象化され、非常に分かり辛いものになった。
近未来SF映画は、映画の歴史の早くから製作されていた。
ジョルジュ・メリエスの「月世界旅行」もその一つに数えられるだろう。
今回紹介する映画は「リベリオン」「マトリックス」とほぼ同時期に製作された、近未来SFアクション映画の傑作である。
ストーリーを紹介しておこう。

第三次世界大戦後、リブリアと言う国が作られた。
その国内では、戦争を二度と起こさないため、人々に感情を持たさないようにした。
政府が生産した薬を服用させることで、人々は感情を封印されてしまうんだ。
主人公の政府機関に勤める「ジョン・プレストン」は妻が感情を持ったため処刑された過去を持つ。
ある日彼は、同僚が薬を服用していないことを知り、彼を射殺する。
しかし、その頃からプレストン自体の心に変化が現れ始め..........

なんと言っても、映画の作りが細部までしっかり作り上げられている。
映画に登場する、両手に拳銃をもち、空手の「カタ」を動きに取り入れた「ガン・カタ」と言うものが登場する。
この一連のシークエンスも、自然で映画に上手く溶け込んでいる。
ラスト、決闘シーンでは、座頭市ばりの「居合い」で相手を倒す、素晴らしい出来である。
この映画は、公開当初あまり話題にならず、DVD化されてからその良さが再認識されて、評判になったと言う。
この映画のキャッチコピーは「マトリックスを超えた」である。
私自身もそれに同感である。
下に「ガン・カタ」のアクションシーンを貼った、是非観ていただきたい。

2002年アメリカ製作、カラー106分、2003年日本公開、監督:カート・ウィマー

リベリオン_ガン・カタ (まどか☆「叛逆の物語」マミVSほむら 元ネタ)

明日のためにその154-ドドンパ

2015年08月10日 | 歌謡曲
続黄金のニューリズム。

先週のブログで「ニューリズム」を取り上げた。
洋楽の「マンボ」を取り上げたわけだが、戦後流行した「ニューリズム」は洋楽だけではなかった。
邦楽にもそれはあった。
「ドドンパ」である。
「ドドンパ」の誕生は1950年代後半になる。
一説では京都のクラブで演奏していた、フィリピンバンドのオリジナルマンボのリズムが面白く、それを日本を代表するラテン歌手「アイ・ジョージ」がリズムをアレンジして完成させたと言われる。
発表当初は「フィリピンマンボ」と言う呼び方をされていたが「アイ・ジョージ」がその独特のリズムを擬音化し「ドドンパ」と命名した。
彼は「アローラテングループ」と組み、様々な「ドドンパ」を世に送り出した。
彼自身が歌った「銀座でドドンパ」坂本スミ子の「祇園でドドンパ」などが代表曲である。
一方アルバム(10インチ)も制作された「ドドンパ誕生」「ドドンパ禁止」「ドドンパ全集」などが代表である。
そして1961年、一大ヒット曲が生まれる、渡辺マリの歌う「東京ドドンパ娘」である。
「東京ドドンパ娘」は、メロディ、リズム、編曲、歌詞が一体となり、素晴らしい楽曲に仕上がっている。
この曲は100万枚を超えるヒットになったと言う、この時代の100万枚はとてつもないヒットと言えるだろう。
世間では一斉に「ドドンパ」ブーム。
渡辺マリを主役とした同名の映画まで製作された。
他の歌手もこの「ドドンパ」のリズムを取り入れた曲を多くリリースしている。
君原健二の「若いふたり」マヒナスターズの「お座敷小唄」そしてなんとあの歌謡界の女王、美空ひばりも「ひばりのドドンパ」と言う曲をリリースしている。
しかし流行り廃りは早いもの、このブームも長く続かなかった。
私が思うに「東京ドドンパ娘」が傑作すぎた、この曲を超える名曲がその後作られなかった(作ることができなかった)と言うことに尽きる。
ブームはほんの数年で去っていった。
その後は気まぐれに「ドドンパ」のリズムを使った曲もリリースされた、氷川きよしの「きよしのドドンパ」はまだ記憶に新しい。
「黄金のニューリズム」も1960年代を隆盛期として、1970年代以降は生まれていない。
「ドドンパ」と同年代「スクスク」と言うリズムも流行った、これについては後日のブログに譲ることとする。
下に「ドドンパ」の曲をリンクしておいた。
大ヒット曲の「東京ドドンパ娘」とかなりマイナーな「ドドンパ」万代陽子の「ドドンパNO,5」である。
この2曲を是非聴き比べていただきたい。

渡辺マリ 東京ドドンパ娘


ドドンパNO5 万代陽子