ダーリン三浦の愛の花園

音楽や映画など徒然なるままに書いてゆきます。

明日のためにその180-まりちゃんズ

2015年10月09日 | お笑い
異端のコミックソングバンド。

あれは1970年代中期頃だったろうか。
そのころ、私はラジオが好きで、深夜番組をよく聞いていた。
その私の耳に、驚くような楽曲が入ってきた。
今まで聴いたこと無いような、歌詞が異常に面白い楽曲だった。
軽快なテンポの曲調に、それに似合わない異端的な歌詞。それが「まりちゃんズ」の「尾崎家の祖母」と知ったのは、かなり後になってのことだった。
今回はこの「まりちゃんズ」について紹介する。
彼らの略歴について、紹介する。

メンバーは、藤岡孝章、尾崎純也、藤巻直哉。
当時の天地真理(以前このブログでも紹介した女性アイドル)人気に便乗し、グループ名を「まりちゃんズ」とする。
1974年に「ブスにはブスの生き方がある」でレコードデビュー。曲名からして、危ないこの曲はすぐに放送禁止になる。
そしてセカンドシングル「ひがみブルース」をリリース。このシングル盤のB面が「尾崎家の祖母」であった。
彼らはメジャーなステージに上がることなく、2枚のLPと3枚のシングルをリリースして解散。
その後、それそれ音楽バンドを結成したり、音楽プロデューサーになったりと、音楽関係の道を進む。

以上が彼らの略歴である。
私は後追いになるが、中古店で彼らのLPを購入したり、CD化された音源も買ったりしている。
とにかく、どの楽曲も面白い。
社会風刺があるわけでもない、本当の意味で「コミック」な楽曲なのだ。
1990年代初期に、あるFMラジオ番組で彼らの「尾崎家の祖母」を取り上げたところ、リスナーからの反響があまりにも多く、そのまま「尾崎家の祖母パートⅢ」をシングルCDでリリースした。
よって「尾崎家の祖母」は、パートⅠからパートⅢまで存在する。曲は全て同じで、歌詞だけ違うと言う、これも珍しい楽曲のリリースである。
下に「尾崎家の祖母」「尾崎家の祖母パートⅡ」の連続された構成のリンクを貼った。
特に「パートⅡ」歌詞内容に問題があり、放送できないものなので、聴くことができるのは、大変貴重である。
是非、彼らの異端的世界を堪能していただきたい。
ちなみに「尾崎家の祖母」は「おざきけのそぼ」とは読まず「おざきんちのババア」と読む。

尾崎家の祖母、尾崎家の祖母PART II

明日のためにその177-いそがしバンド

2015年10月02日 | お笑い
昭和期最後のコミック・バンド

時は1970年代末期、カルチャーが一気に変化した時期である。
喫茶店では「インヴェーダーゲーム」に興じる人々が増え、ゲームセンターもこの頃からしだいに開店する。
若者のファッションも、ネクタイは1960年代のような細いものが流行り、ツートーンと言った白黒柄のシャツなども流行っていた。
お笑い界は「第三次漫才ブーム」が訪れ「ツービート」や「B&B」など今までの漫才とは、形式もスピード感も違うものが流行りだす。
この頃である、私を感動させたコミック・バンドが出現する。
それが今回紹介する「いそがしバンド(ビジー・フォー)」である。
私の記憶では、テレビ番組の「みごろたべごろ笑い頃」で彼らを見たのが初めてである。
そのときの感動は、今でも忘れない。この時代に「定番」とも言える、お笑いを持った、コミック・バンドが存在していたとは夢にも思わなかった。
彼らの略歴を紹介しよう。

バンドの結成は1976年。
メンバーはグッチ裕三(ヴォーカル)、モト冬樹(ギター)、いたっけ島田(ベース)、ウガンダ・トラ(ドラムス)の4人。各メンバーは「ビジー・フォー」結成前に、コミック色の無い実力派バンドに在籍していた。
そして、上記のとおり1976年それぞれのメンバーが出会い、バンドを結成。当初は「ビジー・フォー」ではなく「いそがしバンド」と名乗っていた。
そして事務所に属さないまま、東京のクラブで演奏を続けた。
やがて口コミで彼らの噂は広がる。その玄人好みの演奏、ステージングにより、業界人が彼らのライヴへ殺到する。
その後、彼らは「ナベプロ」こと「渡辺プロダクション」と契約を結び、テレビへと進出する。
その頃からバンド名を「ビジー・フォー」と改名する。
テレビでも、人気を博した彼等だったが、同時にストレスも溜まっていたらしい。
そして1984年バンドは解散、各自それぞれの道を歩むこととなる。

以上が「ビジー・フォー」の略歴である。
バンドのその後について、一番知名度があったのは「グッチ裕三」と「モト冬樹」だろう。
彼らはよくコンビを組み、ものまね番組に出演して人気を博した。
しかし、私にとってそれは「ビジー・フォー」にとって代われるような、良質なお笑いではなかった。
テレビ番組で見た「ビジー・フォー」の素晴らしさは、筆舌に尽くしがたい。
あれほど、定番の「コミック・バンド」のシークエンスを踏襲し、なおかつ古さを感じないネタ。本人達は、かなり悩んで考えていたのだろう。
彼等以後、日本の定番コミック・バンドは未だかって登場していない。
表舞台に出てからの、活動期間が短かったゆえ、今でも、もっと彼らを見たいと言う衝動にかられる。
今後も、彼等のようなバンドが出現することは望むべくもないが。
下に、彼らのテレビ出演時の映像を貼った。
是非、その面白さを堪能していただきたい。

ビジーフォー SOUL MUSIC MEDLAY 初期1981

明日のためにその174-あきれたぼういず

2015年09月25日 | お笑い
コミックバンドの原点。

音楽を演奏し、お客から笑いを取る。
この行為ほど、難しいものはない。
私自身も、お笑いの要素の入った楽曲を演奏するバンドを組んでいたが、どのようにすればお客から笑いをとるか、かなり悩んだものである。
私の組んでいたバンドは、コミック・バンドと言うよりも、コミックソングを唄うバンドと称するのが相応しい。
理由があり、ライヴハウスのフランチャイズをもてなかった私のバンドは、長い時間のステージを行なえなかった。
毎年開催される、バンドコンテストが事実上のステージであり、そこで許されるのは「楽曲」の演奏のみだった。
よって「楽曲」の面白さが重要であり、ステージングは二の次であった。
一方コミック・バンドは、ステージングの面白さが中心である。
「楽曲」の面白さも必要だが、ステージングの面白さが無ければなりたたない。
「コミックソングを唄うグループ」と「コミック・バンド」とは違うのだ。
そのコミック・バンドの日本における原型は、昭和初期に結成された「あきれたぼういず」だろう。
彼らの略歴を紹介しよう。

「あきれたぼういず」は吉本興行に所属し、昭和12年、浅草花月でデビュー。
メンバーは、川田義雄(リーダー)、坊屋三郎、益田喜頓、芝利英。
昭和13年にはレコードデビューをはたしている。
昭和14年、古川緑波の正月公演に呼ばれ、一躍有名になる。
同年、吉本興業から川田を除くメンバーが、新興キネマに移籍。グループ自体は解散状態になり、僅か活動期間は一年にも満たなかった。
その後、吉本に残った川田は新しいグループを結成、他の三人は山茶花究を加え、新たな「あきれたぼういず」を結成する。
昭和18年、芝利英が戦死。戦後の昭和22年に、残された三人でグループを再結成する。
しかし、おりしも戦後のジャズコンサートブームに、その影も薄くなり、昭和28年グループ解散。メンバーはコメディアン、俳優等様々な道に進むことになる。

以上が「あきれたぼういず」の略歴である。
私自身、当然「あきれたぼういず」を体験してはいない。
しかし、幼いとき、ナショナル(今のパナソニック)のテレビCMで、外人を相手にやり取りをする、面白い初老の男性がいた。これが「あきれたぼういず」の坊屋三郎だとはあとから知ることになる。
余談だが、このテレビCMは傑作で、広告の賞も確か受賞していたと思う。CMの内容は、カラーテレビを挟み、坊屋が「クイントリックス」と言うと対峙した外人が「クリントリックス」と流暢な英語で返す、しかし坊屋は「違うよ、クイントリックス」と何度かやり取りがあり、最後に坊屋が「あんた外人だろ」と締める。とてもナンセンスで面白いCMだった。
坊屋は「あきれたぼーいず」解散後、表舞台での評判は聞いたことがない。その他のメンバーで、山茶花究はコメディや正統派の役者として活躍(以前このブログで紹介した「悪名」シリーズにも出演している)、益田喜頓はコメディアン的要素のある役者として活躍した。
現在「あきれたぼーいず」のメンバーは全て故人となっている。
しかし、彼らの作った「コミック・バンド」スタイルは第二次漫才ブームまで、脈々と受け継がれた。

下に前述の坊屋のCM映像と「あきれたぼういず」の楽曲を貼った。
是非コミック・バンドの原点をご堪能いただきたい。

松下電器産業 パナカラー クイントリックス


あきれたぼういず 空晴れて

明日のためにその171-榎本健一

2015年09月18日 | お笑い
昭和の喜劇王。

今現在、昭和の喜劇王と呼ばれるに相応しい人物は、誰であろうか。
私が思うに、戦後に限定して言えば「萩本欽一」がそれにあたる。
彼は浅草から丸の内を経て、メジャーデビューを果たした、お笑いのエリートでもあった。
昔彼が出演していたテレビ番組「ゲバゲバ90分」では、しばしばテレビデレクター等の前にいきなり現れ、自分が思いつたコントなのだけどちょっと見てほしい、と言って彼らを爆笑させていたという。
ここに「萩本欽一」の非凡な才能が見受けられる。
彼以後(正確には第三次漫才ブーム以後)彼に匹敵するタレントは、いないとおぼしい。
一方戦前に目を向けると、先週このブログで紹介した「古川緑波」などは文句なしに、喜劇王の称号が相応しい。
さらに、今週紹介する「エノケン」こと「榎本健一」も昭和の喜劇王の称号が相応しい一人である。
まわりをドタバタさせておいて、最後の一言で笑いを取る、動かずして場を爆笑に包んだ「ロッパ」に対して、自らスタントマンさながらのアクションで、笑いを取った「エノケン」二人は笑いの作り方において対象的だった。
本日はこの「榎本健一」を紹介しよう。

「エノケン」こと「榎本健一」は明治三十七年東京生まれ、子供のころから「エノケン」と友達から呼ばれていたと言う。
尾上松之助に憧れて、京都の撮影所をしばしば訪れたり、ヴァイオリンを習ったり、芸事に旺盛な食指を持っていた。
その後関東大震災の復興で、浅草にオペラを蘇らせたり、映画に出演したりと活躍の場を広げてゆく。
昭和四年、今や伝説となった「カジノ・フォーリー」を旗揚げする。
日本に本格的なヴォードヴィルを完成させる。
その後、様々な映画で主演をはたす。
戦後、人気にも翳りが見え始め、昭和四十五年逝去、六十五歳。

簡単に「榎本健一」を紹介すると、上記のようになる。
彼の笑いを形成していたのは「動き」であった。
動きで笑いを取る、彼自身もアメリカのマックセネット(スラップステック映画の立役者)映画の動きを真似ているとインタヴューで答えている。
マックセネットといえば「キーストンコップス」シリーズが定番で、私も観ているが、そのアクションの凄さ、面白さではコメディ映画の中で群を抜いている。
「榎本健一」の若い頃のエピソードでは、彼がタクシーに乗っていたとき、後部座席のドアから道路に出て、反対側のドアから、再度タクシーに乗車したという信じられないものなどある。
それほど彼は「自らが動くことによって作られる笑い」を大事にした。
それは、何歳になっても変わらなかったと言う。
彼は歌も得意にした、決して美声とは言えない、どちらかと言うと「ダミ声」である。
この点は先週紹介した「古川緑波」とは、正反対の歌唱である。
しかし、決して上手いと言える歌ではないが、それはそれで味があるものだ。
下に「エノケン」の歌唱を貼った。
その独特の歌声を、堪能していただきたい。

榎本健一/「エノケンのダイナ」~「月光価千金」~「私の青空」

明日のためにその168-古川緑波

2015年09月11日 | お笑い
不世出の喜劇役者。

今まで、様々な「お笑い」について、喜劇人等をこのブログで紹介してきた。
最近の「お笑い」(あえて喜劇人とは言わない)については、このブログで取り上げていない。
理由は明確で、最近の(と言っても、もう十数年以上)「お笑い」を演ずる者は、極めて面白くない者ばかりである。
漫才をしない、漫才師。コントが本業なのにそれをしない、芸人。
彼らははちょっと名が売れると、テレビ番組のヴァラエティで「パネラー」と言われる位置に座り、くだらない発言ばかりしている。
まさに日本の「お笑い」ここに尽きる感がある。
日本の「お笑い」の最期は「第三次漫才ブーム」だったのであろう、あれ以来後世に名を残す喜劇人は出ていない。
よって、本ブログで取り上げる「お笑い」についても、古い時代がメインになってしまうのだ。
さて、日本の「お笑い」「喜劇人」を語る上で、どうしても触れておかなければいけない人物が二人いる。
「ロッパ」こと古川緑波と「エノケン」こと榎本健一だ、今回は前者について紹介する。

古川緑波は、明治36年に生を受ける。
彼は父親の方針で古川家に養子にだされる。
十六歳のころから、日本で最古の歴史を誇る映画雑誌「キネマ旬報」に映画評を投稿し、十八歳で同誌の編集者となる。
昭和8年、菊田一夫らと「笑いの王国」を結成、前述した「エノケン」のライバルとして世間に認知されることとなる。
でっぷりとした体、ゆえに彼はドタバタを演じなかったと言う。
周りの芸人にドタバタをさせ、最後に彼の一言で、劇中の最大の笑いを取り、緞帳を下ろしていたと言う。
「エノケン」とはお互い認めたライバルで、不仲だったそうだが、後年「新馬鹿時代」(余談だが、この「新馬鹿時代」の映画のオープンセットは優秀だったので、後に黒澤明の「酔いどれ天使」でこのオープンセットがそのまま使われている)と言う映画で共演している。
戦後は、映画やラジオが主な活躍舞台となっていたが、徐々に人気にも陰りが見え、晩年は糖尿病になってしまう。
昭和36年逝去、57歳。

「ロッパ」を紹介すると上記のようになる。
「ロッパ」の活躍した時代、またその後の時代、喜劇界は群雄割拠だった。
様々な才能を持った喜劇人が、自分の名をあげようと、必死だったのだ。
よって「ロッパ」の芸も戦後飽きられ、その名は急速に忘れられてしまった。
一説には彼が「わがままな暴君」であったから、そのためとも言われている。
彼が残した芸で、今でも残っているものがある。
それは「ものまね」である。
「ロッパ」はものまねが上手く、それを自ら「声帯模写」と言う造語を作り、世間に流行らせた。
芸人「桜井長一郎(故人)」はこの「声帯模写」を自分の芸とし、人気を博した。、
最近聞かなくなったが「声帯模写」とは「ロッパ」が作り、完成させた芸なのだ。
彼はまた歌が上手かった。
やはり才能のある芸人は、一味も二味も違う。
下に「ロッパ」の歌唱のリンクを貼った。
その流麗な歌声を、ご堪能いただきたい。

東京オリムピック 古川ロッパ

明日のためにその165-ハナ肇とクレージーキャッツ

2015年09月04日 | お笑い
クレージーキャッツと植木等。

私がまだ幼い頃、そう、第二次漫才ブームの時だった。
この時期は様々なコミックバンドが寄席を賑わした。
しっかりした演奏テクニックに、おちゃらけた演奏芸、しかし最後はそのテクニックを活かした抜群の演

奏で舞台をしめくくる。
私は幼いながら「凄い人達がいるなぁ」と感心したものだった。
私の記憶が正しければ、第三次漫才ブームの時は、唯一「いそがしバンド(後のビジーフォー)」がコミ

ックバンドの系譜を引継いでいた。
皆様が「ビジーフォー」で、思いだされるのは「グッチ雄三」と「モト冬木」ぐらいではなかろうか。
初期の「ウガンダちゃん(故人)」がいた頃を知っている人は少ないだろう。
しかしこの初期の「ビジーフォー」こそ、コミックバンドの王道で、私はいつも彼らを見ながら爆笑して

いた。
その元祖にあたるのが「ハナ肇とクレージーキャッツ」だろう。
紆余曲折を経て集まった、演奏力はしっかりしているが、一癖も二癖もある連中だ。
彼らは主に、戦後の米軍キャンプで演奏し、腕を磨いた。
既にその頃、バケツ等でメンバーの頭を叩くギャクを行なっていて、米兵から「お前達はクレージーだ」

と言われていた、これが「クレージーキャッツ」命名元とされている。
所属事務所は、芸能界の大御所渡辺晋ひきいる「渡辺プロダクション(通称ナベプロ)」
1950末年代から1960年代に人気をはくした彼らは、映画製作に関わることになる。
これが日本喜劇映画の名作「無責任」シリーズだ。
主演は植木等、ひょうひょうとして、しかし、妙に頼りがいのある男を好演した。

植木等、1927年、三重県に生まれる。
父親は寺の僧侶、12歳の時僧侶になるべく、上京し、小僧となる。
17歳のころ、バンドボーイのアルバイトを始める、これが植木と音楽の係わり合いの始めとなる。
23歳ごろから、様々なバンドを転々とする、その中には「ジョーダン音楽(コミックバンドではない)」

を日本に流行らせた「フランキー堺とシティスリッカーズ」も含まれる。
30歳のころ「クレージーキャッツ」の前身「キューバンキャッツ」へ加入。
以後前述のように、映画主演で一躍トップスターとなり、映画、テレビへの出演が激増する。
1993年ハナ肇の逝去により、事実上バンドは解散、植木は一人で順調に仕事をこなす。
70歳の時、肺気腫を患い、表舞台から姿を消す。
2007年80歳にして逝去。

植木等の略歴は以上のとおりだ。
植木はバンドでギターを担当し、しっかりしたテクニックも持ち合わせていた。
植木は根っからの、真面目人間だったという。
植木は「無責任男」を演じながらも「僕はああいう生き方はできない」と周囲に呟いていたと言う。
私はリアルタイムで植木の映画を観ていない。
私が大人になってから、地元のミニシアターで「無責任」シリーズの映画を公開してくれた。
喜び勇んで、私はそれを観に行った。
まさにカルチャーショックであった、スクリーン狭しと動き回る植木と、何故か滅茶苦茶な仕事ぶりだが

、不思議にも植木演じる「無責任男」は出世してしまう。
それは当時の私にはとてもかっこよく見えて、以来、植木は私にとってスパースターとなった。
「クレージキャッツ」のようなバンドも「植木等」のようなキャラクターも今は望むべくも無い。
日本の高度成長期、それとともに上りつめた「クレジーキャッツ」と「植木等」まさに時代の呼んだヒー

ロー達だったのではないだろうか。
下に、映画「ニッポン無責任時代」のエンディングである楽曲「無責任一代男」を貼った。
植木の素晴らしい歌唱を堪能していただきたい。

「無責任一代男」植木等(ハナ肇とクレイジーキャッツ)

明日のためにその162-欽ドン

2015年08月28日 | お笑い
欽ドンの思い出と私。

以前から、このブログで「今のラジオはつまらない」と私は言い続けている。
昔のラジオ番組には企画があった、企画があってはじめて「番組」と言える。
今のラジオ番組には、それがない。
正確に言うと、企画のある番組もあるが、その内容がつまらない。
今から30年以上前、私はラジオが大好きだった。
そこ頃のラジオ番組には、しっかりした企画があった。
その白眉と言えるものは東海ラジオと記憶しているが、聴取者のリクエストに答え、音に関する全てのものを放送した。(番組名は記憶に薄いが「なんでもリクエスト」と言う番組名だったと思う)
例えば「雪を踏む音が聞きたい」といえばそれを放送したり、とにかく世の中に溢れる、音と言う音は可能な限り放送していた。
今では、考えられないような番組である。
そんな「ラジオ黄金期」に一世を風靡したラジオ番組があった。
萩本欽一をメインパーソナリティにした「欽ちゃんのドンといってみよう!」(以下欽ドン)だ。
この番組は月曜日~金曜日の放送で、聴取者から曜日ごとに異なるお題で「お笑いのネタ」を募集し、放送で萩本欽一が、独特の話口調で読み上げた。
番組で採用された投稿者には、スポンサーの集英社発行の雑誌名の賞がおくられ、その日の最優秀賞には現金5,000円が送られた。
恥ずかしながら私も、何通か応募し、そのうち2通が放送で読み上げられ、そのうち1つは最優秀賞の5,000円を獲得した。
ちなみに、私が最優秀賞を獲得したネタは、今は伏せておく。
決して現在公表しても、笑えないネタである。
この「欽ドン」は、テレビ番組にもなった。
スタジオに一般人を集め、それに囲まれるような形で萩本欽一、前川清、香坂みゆき(デビュー直後)が並び、ラジオと同じく投稿者からのネタを読んだ。
これが後に「視聴率100パーセント男」と呼ばれた、萩本欽一のヴァラティデビューである。
また「欽ドン」は単行本にもなった。
確か4~5冊発行されたと思う。
単行本の内容はいたって簡単、ラジオで採用されたネタを収録しただけのものだった。

当時私は様々なラジオ番組に投稿していた。
中にはローカル番組だったが、常連となり、実際その番組に出演したこともある。
昔はそれほどラジオが面白かった。
下に「欽ドン」のリンクを貼った。
確かに素人の感は否めないが、それなりに笑える「素人ネタ」を堪能していただきたい。

欽ちゃんのト?ンといってみよう!

明日のためにその159-トニー谷

2015年08月21日 | お笑い
異端芸人の華。

私が幼い頃、テレビで「アベック歌合戦」と言う番組を放送していた。
アベックが登場し、司会が「あなたのお名前なんてーの」と歌い、アベックの男女がツイスとを踊りながら、それぞれ「xxxxと申します。」と名前を言う。
そして、それが終ると歌を歌い、他のアベックと競うと言うものだった。
これが私の記憶に微かに残る「トニー谷」との出会いだった。

トニー谷
大正6年、銀座生まれ。
戦争中は南京、上海にいて、終戦を上海で迎える。
昭和20年日本に引き揚げ、東京宝塚劇場の制作に助手として入社。
昭和25年本格的にMCとしてデビュー。
その後隆盛を極め、数々の流行語を生み出す。
昭和46年ハワイに居を構える。
その後日本に帰国、復帰をもくろむが成功せず。
昭和62年7月没、69歳。

簡単に、トニー谷を紹介するとこのようになる。
全盛期を知らない私にとって、トニー谷の人気がどうだったのか、皆目見当がつかない。
しかし当時を知る人々は、その人気の凄さに驚嘆したという。
フォックス眼鏡にきざなヒゲ、赤いジャケットに白いズボンといういでたちで「レディースアンドジェントルメンアンドおとっつあん、おっかさん」と叫ぶと会場の観客が、狂喜乱舞したと言う。
そもそもトニー谷は、以前このブログでも書いた、戦後日本の「ジャズコンサートブーム」乗る形で表舞台に姿を現した。
当時ジャズコンサートのMCを努めていたトニー谷は、歌手や楽団より人気があり、トニー谷見たさに客が集まったと言う。
しかし、常に目立ちたがりで、他人より指先一本でも先に出ていたい彼は、MCの時も歌手が歌っているにも関わらず、舞台袖から奇妙なフラダンスを踊って出てきたり、江利チエミを「下痢チエミ」と呼び雪村いずみを「雪村ねずみ」と悪びれずステージで呼んだ。
これがまた観客には大いにうけた。
流行語も多く生み出した、代表的なものは「家庭の事情」「おこんばんわ」「ごめんあそべ」等々である。
中でも「家庭の事情」は最もヒットした流行語であり、映画も製作された、勿論トニー谷主演である。
私は昔からろくにトニー谷の事は知らなかったが、大きなソロバンをパーカッション代わりに叩き、歌を歌う姿を、トニー谷復帰後に見ている。
私はそれに憧れ、私自身の作詞・作曲による「ごめんあそべ」と言う楽曲を作った。
勿論、片手にソロバンを持ち、歌を歌った。
これが結構反響があり、その年のアマチュアバンド大会の、地区決勝大会まで行くことになった。(その楽曲については「明日のためにその7」を参照)
晩年トニー谷は落ちぶれる、正確に言うと彼の子供が誘拐された頃からかもしれない。
それまで、芸能界では散々悪態をついて、人より目立つためなら何でもした彼だが、彼の子供が誘拐されたとき、そのショックから衰弱した彼の素顔を見た人々から、彼を励ます声が上がった。
事件は無事子供が戻り、事なきを得たが、その後彼は悪態をついて笑いを取ることをやめた。
彼はその悪態、毒舌により、芸能界では孤独だった、しかし彼のそれらが彼をスターダムに押し上げたのだ。
彼は常に孤独で、自分の家庭だけを愛していたと言う。
そんな彼でも、病院のベットの上では「一人はだめ、トニーは悲しい」と繰り返し呟いていたと言う。
「孤独の外道芸人」それが芸能界で彼につけられたニックネームだと言う。
人よりも、指先一本でも目立っていないと気がすまない、私は現在の「明石屋さんま」を彼に重ねてしまう。
無論さんまはトニー谷と違い「孤独」では無いと思うが。

下に復帰後のトニー谷の歌唱動画を貼った。
その見事なソロバン捌き等を是非見ていただきたい。

トニー谷 さいざんす・マンボ


ダーリン三浦と横浜シューシャンボーイズ ごめんあそべ

明日のためにその156-花木京

2015年08月14日 | お笑い
巨星堕つ。

ちょうど先週の金曜日、よしもと新喜劇を中心に活躍した「花木京」が逝去した。
享年78歳であった。
私は子供の頃から「お笑い」が大好きだった。
中でも「よしもと新喜劇」は子供の頃から、今に至るまで見ている。
私が最初に夢中になった「お笑い」は「コント55号」である。
天才喜劇作家の萩本欽一がネタを作り、舞台上で体をはった演技で笑いをとる。
彼らの映画も観に行ったし、テレビでのレギュラー番組「コント55号の世界は笑う」は毎週欠かさず見ていた。
次に私が熱中したのは「ドリフターズ」だった。
彼らの映画も観たし、テレビ番組も見ていた。
私の子供の頃はお笑い番組も豊富だった。
中でも土曜日はお笑い番組が多く、毎週ワクワクしながらテレビの前に座ったものだ。
まずは12時から「よしもと新喜劇」を見る。
次に13時から大阪の寄席「角座中継」を見る。
この番組は新旧取り混ぜた漫才や漫談が楽しめた。(ちなみに「かしまし娘」などはこの番組でリアルタイムに見ている。)
そして14時からは、また別のチャンネルで別内容の「よしもと新喜劇」を見る。
20時からは最も楽しみにしていた「ドリフターズ」の「8時だよ、全員集合」の始まりだ。
加藤茶の「ちょっとだけよ~」から志村けんの「東村山音頭」まで、長年この番組を見ていた。
「ドリフターズ」で私が一番好きだったのは「荒井注」だった。
横暴で、ふてぶてしい態度から発せられる決まり文句「This is a pen」に大笑いしたものだ。
話が横道にそれてしまった、花木京に戻ろう。
前述したとおり、毎週土曜日お笑い番組漬けになっていた私は「よしもと新喜劇」で、よく花木京を見ていた。
彼は「てなもんや三度笠」で有名な「原哲男(故人)」と多くコンビで舞台に上がった。
彼の上手さは舞台で光った、アドリブなのだろうか、相手方の原哲男を本番で笑わしてしまい、劇が進まなくなる寸前までそれは続いた。
私はそれ以後「よしもと新喜劇」で、このような光景を目にしたことは無い。

花木京、1937年に大阪で生まれる。
父親は、昭和第一次漫才ブームを牽引した漫才コンビ「エンタツ・アチャコ」の横山エンタツである。
1962年に吉本興業に入社、翌年早くも座長となる。
1989年吉本興業を退社。
その後映画やテレビドラマに活動を広げる。
NHKの朝の連続テレビ小説「やんちゃくれ」などにも出演していた。
2003年自宅で入浴中に倒れ、病院に運ばれ、その後病院にて隠居同然の生活をしていた。
そして前述のとおり、2015年8月5日「肺炎」により逝去、78歳であった。

私の意見であるが、35年程前の、第三次漫才ブーム(B&B、ツービトの時代)以降お笑いの質が低下している。
事実「第四次漫才ブーム」は聞いたことがない。
第三次漫才ブームの頃は、既成の形にとらわれないことが新鮮とされ、私自身もその新しさに感心し、よくテレビで漫才などを見ていた。
しかしそれは「基礎」ありきが前提だ。
多くのお笑いを目指す若者は、肝心な「基礎」をしっかり身につけなかったのではないだろうか。
「よしもと新喜劇」も一時に比べ、個性の強い役者が少なくなってきている。
花木京のような、キャラクターを持った役者が現れるのは、望むべくもないが。
まさに「巨星堕つ」である。