ダーリン三浦の愛の花園

音楽や映画など徒然なるままに書いてゆきます。

明日のために358-BAHO

2019年07月17日 | 歌謡曲
極めてユニークなアコステックデュオ

以前このブログで紹介した「char」
彼はアイドル路線から撤退したあと、様々なユニットを結成した。
その中でも白眉だったのが、今回紹介する「BAHO(バホ)」である。
BAHOはこれも日本では有名なギタリスト「石田長生」と組んだ、アコステックギターデュオである。
コンサートの形式は、charと石田の、丁々発止な掛け合いの間に演奏を行うと言う変わったもの。
しかしさすが日本を代表するギタリスト二人、演奏自体の素晴らしさは筆舌に尽くし難いものである。
リラックスした二人の会話が終わり、いざ演奏となると、とてもギター2丁で演奏しているとは思えないアンサンブル。
音の広がりと、奥深さはかって感じたことない領域に入る。
私が彼らの存在を知ったのはつい最近で、一度その演奏を観てみたいと渇望した。
しかし、その望みは叶わないことも同時に知った。
石田長生は2015年7月、食道癌により永眠したのだ。
彼のひょうひょうとした関西弁から繰り出される洒落たひと言。誰も考えつかないような実験的な演奏方法。
BAHOは間違いなく、日本のアコステックユニットの筆頭だったろう。
ユニット名「BAHO」は「馬鹿」の馬と「阿呆」の呆を合わせたものだとも言われている。
このようにユニット名からも、人を食ったような彼らの姿勢が見えてくる。
それは「俺たちが凄いものを見せてやるぞ」と言う、彼らの自身と意気込みが感じられる素晴らしいアプローチではないだろうか。
下に彼らの演奏の模様を貼った。
これは偶数弦だけを張ったギターと奇数弦だけを張ったギターをそれぞれが持ち、ヴェンチャーズのダイヤモンドヘッドを演奏するいう、なんともアクロバティックな演奏だ。
是非皆様にその素晴らしさをご堪能いただきたい。


3弦ベンチャーズ - BAHO ( Char 石田長生 )

明日のためにその312-なぎら健壱

2018年03月12日 | 歌謡曲
見直されるべき貴重な人物。

1960年代後半、かっての日本に爆発的なフォークソングブームが巻き起こった。
ベトナム戦争への反戦や、自由を謳歌する青年達が、各地でライブを行なったり「中津川フォークジャンボリー」と言う、日本で最初の屋外コンサートを開いた。
まさに「フォーク隆盛期」であった。
そんな中に若き日の彼がいた。なぎら健壱である。
彼を一躍有名にしたのが、シングル曲「悲惨な戦い」であろう。
この楽曲は、国技館での相撲の最中、力士のまわしが落ちてしまい、それを巡る光景が、滑稽に歌われている。
しかし、歌詞の内容に問題があったため、楽曲は即放送禁止、長く日の目を浴びることはなかった。
なぎら健壱といえば、この「悲惨な戦い」であったり「下町評論家」であったり、常にこのような事柄で、メディア出演することが多い。
「下町の酔っ払いオヤジ」的な印象が強い方も多かろう。
しかし、彼は「カントリーミュージック」と「日本フォーク史」については、一目置かれる存在なのた。
不定期にNHKのBSで放送されてる、青春のフォーク番組では、毎回、アルフィーの坂崎と二人で、日本のフォーク史を語ってくれる。
その内容はとても濃く、聞いている者も納得できる内容となっている。
カントリーミュージックにおいてもそうだ。
以前私は或る雑誌で、なぎら健壱のカントリーの知識は日本一である、と言う記事を読んだ。
それ以来、彼に対する私の見方は変化した。
何故これほどの人物が、その知識を良い意味で「レガシー」として残していかないのか。
いや、テレビ等のメディアが、何故それを取り上げないのか。
まったくもって、もったいないことである。
今日もなぎら健壱は、下町の魅力をつたえつつ、ビールをあおっているのだろうか。
下になぎら健壱がギターテクニックを紹介する画像を貼った。
彼のかっこよさを認識して欲しい。


明日のためにその280-放送禁止歌-後編

2017年11月30日 | 歌謡曲
今回は前回の続きとして、実際に「放送禁止」となった楽曲について、その楽曲を挙げ若干の説明をしてゆこう。
先ずは前回紹介した「要注意歌謡曲一覧表(1983年最終版)」から。なお、表記は、曲名、歌手名、注意ランク、取り扱い注意となった理由(歌詞)、の順とする。内容をカテゴライズしていないことにはご容赦を。

・愛の床屋        唐十郎     A 理髪店に対する信用を貶めるような部分がある。
・ガチャメの酋長さん   エセル中田   B 斜視に対する差別用語を用いている。
・SOS         ピンクレディ  C 冒頭のモールス信号が本物を用いていて誤解されやす。
・I LOVE YOUはひとりごと 原由子     A 歌詞の内容が猥雑な連想をさせる。
・悲惨な戦い       なぎらけんいち A 歌詞の内容が卑猥である。
・びっこのボーの最後   加山雄三    A 足の不自由な人への差別用語を用いている。

僅かではあるが、以上が要注意歌謡曲一覧表の内容である。ただし、表記最終の「理由」については、その一覧表には記載されておらず、私が独自で調査したものであることを付け加えておく。
この要注意歌謡曲一覧表で、最も掲載数が多い歌手がいる。
昭和歌謡の反逆者、自由を愛する男「つぼいノリオ」である。
「金太の大冒険」をはじめ、彼の「歌謡界エスタブリッシュメント」に対する過激な挑戦は、聴いていてある意味すがすがしささえ感じる。
偉大なる昭和のコンポーザーだと私は考えている。
さて、今回ご紹介した「要注意歌謡曲一覧表(1983年最終版)」に掲載されていない歌謡曲でも、未だに放送局が「自主規制」をしている楽曲がある。
有名な所で言うと、岡林信康の「手紙」はその代表例だろう。
逆に長らく放送禁止扱いであった楽曲がその禁を解かれた例もある。三輪明宏の「ヨイトマケの唄」がその一例である。
日本は、あることが起きた場合、その後処理をいかに収めるかに重きをおかず、それが起きないようにするにはどうしたらよいのかを選択する風習がある。
今回ご紹介した、放送禁止歌はその良い例だろう。
差別的表現等々があるのを承知して放送してしまい、後に聴取者から多くのクレームを浴びる。放送局関係者にとっては、想像するだけでも、背筋が凍る思いだろう。
言葉は生き物である。それを使う人が、いかなる気持ちで言葉を使うかが重要だ。
悪意を抱き、発するような差別用語は、いかなる場合でも許されない。
しかし、芸術等の表現手段で差別用語・表現を使うのは問題が無いと私は思っている。
また、差別用語にだけやたら詳しくなり、それを使ったものに対して騒ぎ立てる輩は、私が蔑視する人物の中の一人である。

今は差別について討論することも少なくなってきている、性のモラルもかなり穏やかになった。
激動だった「昭和」その時代は「差別」や「性のモラル」が生んだ、今回ご紹介したような、放送禁止歌。平成も三十年を迎える今、そして「きれいごと」を並べ立てた歌詞がヒットするJ-POPにおいては平成版「放送禁止歌」の出現は盲亀の浮木だろう。

明日のためにその279-放送禁止歌-前編

2017年11月29日 | 歌謡曲
日本は自由の国である、表現の自由は憲法で認められている権利だ。
しかし、世の中には、様々な芸術があり、その表現方法もまた様々である。
それが侵害されることがあるのか。
本日紹介するのは、かって、昭和歌謡界に存在した「放送禁止歌」についてである。
厳密に言えば「放送禁止歌」と言うものは存在しない。
「要注意歌謡曲」と言うのが正しい。これは、各テレビ、ラジオ局が所有していたもので、民放連が選択した「放送するに注意を要する歌」を一覧表にしたもの。そのことを指す。
その一覧表には指示にランクがあり、A,B,Cと分けられていた。
Aは「放送しない」Bは「旋律は使用しても良い」Cは「不適当な箇所を削除または改訂すればよい」となっている。
AやBは何を理由にし、対処を指し示しているのか全く分からない。しかしCの項目でそれはおおよその察しはつく。
つまり健全な社会にあってはならない「差別」や「性的不道徳」などが、その「不適当な箇所」になってくるのではないか。
その部分をCのように、削除、改訂しては、作詞者が訴えたかったところが無くなってしまう。
これでは、逆に作詞者から「放送をしないでくれ」と反発され、放送できないだろう。
つまりこれで「要注意歌謡曲}=「放送禁止歌」と言う等式が成立する。
しかし、この要注意歌謡曲と言う、民放連の作成した一覧表は1983年10月をもって更新されていない。
つまり三十数年以上、新しい要注意歌謡曲の一覧表は発行されていないのだ。
この表には、放送禁止歌とは一切明記されていない、あくまで「要注意→取り扱い注意」の楽曲を並べ立てたものである、放送するか否かは、放送局の判断で行なえる。
しかし、保守的な日本のイデオロギーでは、前述の「A」の項の楽曲を放送できる局はあるまい。
前述のとおり「要注意歌謡曲」は三十数年前に絶版となっていて、既にその効力はない。
今回は、放送禁止局の概要をご説明した。
具体的にどのような楽曲が、放送禁止歌だったのか、紹介は次回に譲ることにする。

明日のためにその189-ポプコンを振り返って。

2015年12月25日 | 歌謡曲
記憶に残る曲。

今や音楽はダウンロードブームである。
好きな楽曲を試し聴きしては、携帯等にそれをダウンロードする。
CDの売れ行きが悪いのは、このダウンロード販売が原因だろう。
しかし、このような方法が無かった十数年前は、CDを買うのが当たり前だった。
CDは売れた。
国内の歌手でも、数百万枚売り上げたものもある。まさに世界クラスの売り上げだ。
だが、残念なことに、今もそうだが、CDが売れていた時代からそれは始まった。
音楽の使い捨てだ。
ちょっと興味を引く楽曲があれば、CDを買う。それに飽きるとまた次のCD。
これにより、その頃から「記録に残る楽曲の売り上げ」はあるものの「記憶に残る楽曲」がなくなってしまった。
三十年以上前、久米、黒柳の司会で有名な「ザ・ベストテン」が全盛の頃は、楽曲の売り上げでは今にかなわないものの、記憶に残る楽曲は沢山あった。
また、それ以前の歌謡曲全盛の時代も、楽曲の売り上げはさほどでもないが、記憶に残る楽曲は沢山あった。
先日久しぶりに「ポプコン」のCDを聴いた。
「ポプコン」とは、1960年代~1990年代まで行なわれていた、ヤマハ主催のアマチュア音楽家のコンテストである。
それは時代が近くなるごとに、プロミュージシャンへの登竜門的役割を果たしていた。
そこから生まれた楽曲は「ニューミュージック」と称され、大変流行した。
音楽家の中には、この「ニューミュージック」と言う名称が嫌いで、否定する人達もいた。
今回久しぶりにポプコンのオムニバスCDを聴いて思った。今よりはるかに楽曲の完成度が高い。
詞もすなおに、自分の言いたいことを「等身大」で訴えかけている。
ポプコンが流行っていた当時、私はポプコンの事を馬鹿にしていた時代があった。
ポプコンの仕組みは、ヤマハ加入店での一次予選、ホールを借りた二次予選、そして各地域の決勝大会となり、決勝大会でグランプリに選ばれるとつま恋での全国大会に出場できる。
そして参加者は、大会が進むにつれて、プロの編曲者がつき、アマチュアの作った曲をオーケストラアレンジなどにしてしまう。
私はこのような事が嫌いで、ポプコンを嫌っていたのだ。最終的にはアマチュア本来の良さが無くなってしまうから。
しかし、前述したように、記憶に残る楽曲がなくなった今、ポプコン参加の楽曲はいくつか記憶に残るものがある。
今さらながら、何か教えられたような気がする。
ミュージシャンになっても、楽曲が売れなければ意味が無い。確かにそうであろう。
だが、この辺で記憶に残る楽曲を作ることに、今のミュージシャンは専念したほうが良いと思う。
今の楽曲は、どの楽曲も似たメロディである。詞も本当に自分の言いたいことを歌っているのか疑わしい。

「記憶に残る歌」いつか、誰かが作ってくれるのを期待したい。

明日のためにその187-柴山モモ子を聴いて。

2015年12月22日 | 歌謡曲
恐るべき歌手、柴山モモ子。

何度も、このブログで取り上げてきたが、今は「歌姫」全盛時代である。
すこし歌が上手ければ「平成の歌姫」と呼ばれ、楽曲もヒットする。
しかし「歌姫」と呼ぶに相応しい歌手は、現在のJ-POPの中には一人もいないと拙者は思う。
今日紹介するのは「柴山モモ子」幾度か改名しながら、歌手を続けている「本当の歌姫」だ。
プロフィールを紹介しておこう。

柴山モモ子は1951年、東京生まれ。
13歳で歌手デビュー。ミスクラウンコンテストに優勝するも、ヒット曲に恵まれず、環ルナと改名。
しかし、アニメ「アタックNo,1」を主題歌がヒットし、アニメ主題歌歌手に転向。
ただ、歌謡界も忘れられなかったのか、杉美子として歌謡曲も歌っていた。
結局はアニメ界に戻る形で、現在も活動を続けているという。

簡単ではあるが、彼女の略歴である。
私は以前から、彼女のことが気になっており、今年になって編集物のCDが発売されたと側聞したので、早速購入した。
どんな歌唱を聴かせてくれるのか、ワクワクしながらCDをかけた。
驚いた、このような歌手が存在しているのか、CDを聴き終わったあと暫く余韻に浸っていた。
彼女の歌唱の特徴は、よく伸びる高音、オクターブの広さである。
ちょっとしゃくりあげて高音を出すところは、初期の弘田三枝子に似ている。
だが、その高音に微妙なビブラートがついていて、実に心地よい。
また、歌う楽曲も様々で、スロー系からアップテンポ系まで歌いこなす。
その際、歌唱法も変えているのが凄い。アップテンポ系では張りのあるビブラートのついた高音。スロー系では抑揚をもたせた高音。それぞれを使いこなしている。
余談ではあるが、1960年代にラテンパーカショニスト「ティト・プエンテ」が発明したと言われる「ブーガルー」のリズムまで歌いこなしている。

最近のアニメ歌手といえば、私は高橋洋子を思い出す。
彼女も歌の上手さは絶品と言える。
今回の柴山モモ子の件と言い、アニメ歌手界には「本当の歌姫」がまだ存在していると実感した。
本来なら、この素晴らしい歌唱を聴いていただきたいのだが、残念ながらユーチューブを検索したが、該当はなかった。
廉価版のCDではないので、積極的に購入はお勧めしないが、興味をもたれたら是非ご購入いただくことをお勧めする。



明日のためにその154-ドドンパ

2015年08月10日 | 歌謡曲
続黄金のニューリズム。

先週のブログで「ニューリズム」を取り上げた。
洋楽の「マンボ」を取り上げたわけだが、戦後流行した「ニューリズム」は洋楽だけではなかった。
邦楽にもそれはあった。
「ドドンパ」である。
「ドドンパ」の誕生は1950年代後半になる。
一説では京都のクラブで演奏していた、フィリピンバンドのオリジナルマンボのリズムが面白く、それを日本を代表するラテン歌手「アイ・ジョージ」がリズムをアレンジして完成させたと言われる。
発表当初は「フィリピンマンボ」と言う呼び方をされていたが「アイ・ジョージ」がその独特のリズムを擬音化し「ドドンパ」と命名した。
彼は「アローラテングループ」と組み、様々な「ドドンパ」を世に送り出した。
彼自身が歌った「銀座でドドンパ」坂本スミ子の「祇園でドドンパ」などが代表曲である。
一方アルバム(10インチ)も制作された「ドドンパ誕生」「ドドンパ禁止」「ドドンパ全集」などが代表である。
そして1961年、一大ヒット曲が生まれる、渡辺マリの歌う「東京ドドンパ娘」である。
「東京ドドンパ娘」は、メロディ、リズム、編曲、歌詞が一体となり、素晴らしい楽曲に仕上がっている。
この曲は100万枚を超えるヒットになったと言う、この時代の100万枚はとてつもないヒットと言えるだろう。
世間では一斉に「ドドンパ」ブーム。
渡辺マリを主役とした同名の映画まで製作された。
他の歌手もこの「ドドンパ」のリズムを取り入れた曲を多くリリースしている。
君原健二の「若いふたり」マヒナスターズの「お座敷小唄」そしてなんとあの歌謡界の女王、美空ひばりも「ひばりのドドンパ」と言う曲をリリースしている。
しかし流行り廃りは早いもの、このブームも長く続かなかった。
私が思うに「東京ドドンパ娘」が傑作すぎた、この曲を超える名曲がその後作られなかった(作ることができなかった)と言うことに尽きる。
ブームはほんの数年で去っていった。
その後は気まぐれに「ドドンパ」のリズムを使った曲もリリースされた、氷川きよしの「きよしのドドンパ」はまだ記憶に新しい。
「黄金のニューリズム」も1960年代を隆盛期として、1970年代以降は生まれていない。
「ドドンパ」と同年代「スクスク」と言うリズムも流行った、これについては後日のブログに譲ることとする。
下に「ドドンパ」の曲をリンクしておいた。
大ヒット曲の「東京ドドンパ娘」とかなりマイナーな「ドドンパ」万代陽子の「ドドンパNO,5」である。
この2曲を是非聴き比べていただきたい。

渡辺マリ 東京ドドンパ娘


ドドンパNO5 万代陽子


明日のためにその147-雪村いずみ

2015年07月25日 | 歌謡曲
本当の歌手と言うもの。

以前にもこのブログに書いたが、最近「歌姫」流行である。
少しでも声量があり、ダイナミックに歌うとその女性歌手は即「歌姫」とよばれる。
しかし私は今の日本音楽界に「歌姫」など存在しないと思っている。
先日或るテレビ番組で、久しぶりに雪村いずみを見た。
彼女は今年78歳、普通なら隠居生活する年齢である。
彼女はそのテレビ番組で前田憲男(ジャズピアニスト)の伴奏で歌を披露した。
私は驚きを隠せなかった、実に見事な歌唱であった。
マイクから距離を離してもとおる伸びやかな声、今だ現役である。

雪村は1937年生まれ、家庭の借金のせいで高校入学を諦め、歌手デビューをはたす。
進駐軍のキャンプまわりなどをして歌手生活を続けていく。
1953年当時売れっ子だった「江利チエミ」「美空ひばり」とともに元祖「三人娘」としても売り出す。
その後何度か渡米し、ショービズの本場で経験を積む。
そして現在も現役である。

渡米と言えば朱里エイコを思い出す。
彼女も若くして渡米し、本場のショービズ界でその名を知られるほどになり、帰国して「北国行き」でデビューし、大ヒットを飛ばす。
彼女も歌は本当に上手かった。
しかし56歳という若さで彼女は逝ってしまう。
前述した雪村とともに三人娘を形成していた「江利チエミ」は45歳「美空ひばり」は52歳で逝去してしまう。
まだこれからと言う年齢なのに実に惜しいことである。
話は変わるが、何年か前に「懐かしのメロディ」的なテレビ番組を見た。
そこには昔どおりに適当に歌を唄う歌手だらけだった。
しかしそんな番組を見ていた私に突如衝撃が走った「長谷川きよし」の登場だった。
彼は過去の栄光や懐かしさなど微塵もない「今」の長谷川きよしとして歌った。
その上手さ、今だ現役であるとの存在感は他の歌手とは次元が全く違った。

雪村いずみにせよ、長谷川きよしにせよ「過去」がなく「今」しかない歌手は、その他の日本人歌手でいるだろうが?
本当に上手い歌手、女性で言えば「歌姫」今の若い歌手を押し並べて見ても誰もいない。
下地が無いのである、時代が違うと言えばそれまでだろうが。
しかし今もインディーズが出演できるライヴハウスは全国に沢山ある、むしろ昔よりそれは多くなっている。
そのような所で切磋琢磨し、実力を磨いたバンドもデビュウーしているとは言いがたい。
私達にできるのは、出来るだけ厳しい耳を持ち、良いものだけを評価するポリシーを持ち続けることだろう。
蛇足ではあるが「美空ひばり」の愛称「オジョウ」とは雪村いわく、笑い上戸から取ったものらしい。

明日のためにその69-天地真理

2013年03月17日 | 歌謡曲
白雪姫

最近メディアに登場することは殆ど無くなってしまったが今から40年程前その美声と愛くるしい笑顔で国民的支持を受けたアイドルがいた。
天地真理である。
前回のブログでも書いたが昔のアイドルは歌唱力を伴っていた。
天地真理もしたりである。
「白雪姫」これが彼女のデビュー当時の愛称であった。
国立音楽学校の声楽科を卒業した実力の持ち主である。
デビュー当初はルックスだけを評価されていたが実のところその歌の上手さには定評があった。
彼女とデビューが同じで当時「三人娘」といわれていたの歌手に南沙織と小柳ルミ子がいた。
彼女たちも歌唱の実力はしっかりしたものを持っていた。
天地真理は「天使の歌声」といわれそのルックスとあいまって国民的な支持を得た。
今回私の好きな曲「水色の恋」(一説ではヤマハのポプコン応募曲だったらしいと側聞したが)を聴く機会があった。
歌の上手さは圧巻である。
今の歌手にこれだけ楽曲を丁寧に大切に歌える歌手はいないと思う。
最近はフアンクラブが開設した彼女のウエブページもある。
依然彼女へのフアンの支持派絶大なのだ。
そのような復活の兆しがあるようなのでまた表舞台に姿を現してもらえると嬉しいと切に思う。
彼女も既に60歳を超えている。
しかし天使の歌声は健在で永遠なのだ。


明日のためにその68-石江理世

2013年03月02日 | 歌謡曲
早すぎた逸材。

アイドル冬の時期といわれて久しい。
少し遡りながら考えるとそうとも言えないかもしれない。
モーニング娘の全盛期あり、いまではAKB48が旬である。
しかし80年代のアイドル全盛期を経験した私にはそれらがアイドル冬の時代を打破したとは到底思えない。
80年代のアイドル全盛期には皆華があった。
特別に可愛いルックスの女性がミニスカートも露に活躍していた。
まさにアイドル全盛期だったと思う。
しかしそれらのアイドルには残念ながら歌唱力が足りなかった。
歌唱力を持ったアイドルも何人かいたが失礼ながらルックスが良くなかった。
そもそもアイドル全盛期を作るに至ったテレビ番組があった。
日本テレビで放送していた「スター誕生」がそれである。
そこからデビューした実力派アイドルも何人かいた。
今回紹介するのは「スター誕生」からデビューした「石江理世(いしえみちよ)」
唯一「放課後」と言うアルバムを残した天性の歌手である。
とにかく歌唱がストレートで良い。
日本人離れしたグルーブが良いのである。
若干残念なのは英語のカバーを歌っているのだが発音が良くない。
バラードも上手く歌いこなしているのだが説得力に欠ける。
しかしアップテンポのストレートな曲になるとここぞとばかりその歌唱は輝きをます。
歴代の昭和アイドルでも代表にあげるべき歌手である。
昭和時代のアイドルはこの「スター誕生」を遡ること10年以上、皆歌に実力を持った歌手が多かった。
彼女たちは今では考えもつかないかもしれないが「キャバレーまわり」等を行い歌唱力の下地をつくって行った。
「石江理世」は1枚のアルバムを残し歌手をやめてしまった。
正式に言えばその後「ギャル」と言う女性3人組のメンバーとして活動してその後消えていった。
しかし忘れてはいけない実力派アイドルなので今回紹介することとした。
その彼女も既に50歳を過ぎている。
まさに時は流れりである。