ダーリン三浦の愛の花園

音楽や映画など徒然なるままに書いてゆきます。

明日のためにその174-あきれたぼういず

2015年09月25日 | お笑い
コミックバンドの原点。

音楽を演奏し、お客から笑いを取る。
この行為ほど、難しいものはない。
私自身も、お笑いの要素の入った楽曲を演奏するバンドを組んでいたが、どのようにすればお客から笑いをとるか、かなり悩んだものである。
私の組んでいたバンドは、コミック・バンドと言うよりも、コミックソングを唄うバンドと称するのが相応しい。
理由があり、ライヴハウスのフランチャイズをもてなかった私のバンドは、長い時間のステージを行なえなかった。
毎年開催される、バンドコンテストが事実上のステージであり、そこで許されるのは「楽曲」の演奏のみだった。
よって「楽曲」の面白さが重要であり、ステージングは二の次であった。
一方コミック・バンドは、ステージングの面白さが中心である。
「楽曲」の面白さも必要だが、ステージングの面白さが無ければなりたたない。
「コミックソングを唄うグループ」と「コミック・バンド」とは違うのだ。
そのコミック・バンドの日本における原型は、昭和初期に結成された「あきれたぼういず」だろう。
彼らの略歴を紹介しよう。

「あきれたぼういず」は吉本興行に所属し、昭和12年、浅草花月でデビュー。
メンバーは、川田義雄(リーダー)、坊屋三郎、益田喜頓、芝利英。
昭和13年にはレコードデビューをはたしている。
昭和14年、古川緑波の正月公演に呼ばれ、一躍有名になる。
同年、吉本興業から川田を除くメンバーが、新興キネマに移籍。グループ自体は解散状態になり、僅か活動期間は一年にも満たなかった。
その後、吉本に残った川田は新しいグループを結成、他の三人は山茶花究を加え、新たな「あきれたぼういず」を結成する。
昭和18年、芝利英が戦死。戦後の昭和22年に、残された三人でグループを再結成する。
しかし、おりしも戦後のジャズコンサートブームに、その影も薄くなり、昭和28年グループ解散。メンバーはコメディアン、俳優等様々な道に進むことになる。

以上が「あきれたぼういず」の略歴である。
私自身、当然「あきれたぼういず」を体験してはいない。
しかし、幼いとき、ナショナル(今のパナソニック)のテレビCMで、外人を相手にやり取りをする、面白い初老の男性がいた。これが「あきれたぼういず」の坊屋三郎だとはあとから知ることになる。
余談だが、このテレビCMは傑作で、広告の賞も確か受賞していたと思う。CMの内容は、カラーテレビを挟み、坊屋が「クイントリックス」と言うと対峙した外人が「クリントリックス」と流暢な英語で返す、しかし坊屋は「違うよ、クイントリックス」と何度かやり取りがあり、最後に坊屋が「あんた外人だろ」と締める。とてもナンセンスで面白いCMだった。
坊屋は「あきれたぼーいず」解散後、表舞台での評判は聞いたことがない。その他のメンバーで、山茶花究はコメディや正統派の役者として活躍(以前このブログで紹介した「悪名」シリーズにも出演している)、益田喜頓はコメディアン的要素のある役者として活躍した。
現在「あきれたぼーいず」のメンバーは全て故人となっている。
しかし、彼らの作った「コミック・バンド」スタイルは第二次漫才ブームまで、脈々と受け継がれた。

下に前述の坊屋のCM映像と「あきれたぼういず」の楽曲を貼った。
是非コミック・バンドの原点をご堪能いただきたい。

松下電器産業 パナカラー クイントリックス


あきれたぼういず 空晴れて

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