ダーリン三浦の愛の花園

音楽や映画など徒然なるままに書いてゆきます。

明日のためにその150-あん

2015年07月28日 | 邦画
今も残る差別。

人間、差別はいけない。
人種差別、差別、様々な差別が今の日本には残っている。
私は完全なる人間ではないが、差別はすべきでないと思っている。
昔広告代理店に勤務していた頃は、差別に特に気を使った。
特にイラストでは「指は必ず5本書くこと」「顔を書く時、目や鼻、耳は必ず書くこと」
上記はある差別問題から派生した「誤解された差別表現」であるが、私のクライアントは意味も無く「差別に繋がる」と神経を過敏にしていた。
今回紹介する映画は「あん」現在公開中の映画である。
ストーリーを紹介しておこう。

ある事情から先輩のドラ焼き屋を継ぐことになった千太郎。
怠惰な生活の中で代わり映えのしない作業に追われていた。
ある日徳江と名乗る老女が散歩中、ドラ焼きの匂いに誘われて千太郎の店に現れる。
彼女は「時給は少なくていいから店の手伝いをしたい」と千太郎に頭を下げる。
しかし彼はその申し出を断る。
その後徳江は再度現れ、自分の作った「つぶあん」を置いてゆく。
千太郎はその「つぶあん」を試食して驚く、あまりにもおいしいのだ。
その後、店を尋ねてきた徳江に「是非店を手伝って欲しい」と千太郎から頼むこととなる。
徳江の作る「つぶあん」は手間隙かかるものの、おいしいと客から評判を呼び、店は行列のできるような繁盛となる。
しかしあるところから徳江が「らい病」であるとの噂が流れ..........

悲しい話である、心無い人々の噂、差別が人間の行く末を変えていく。
良識の府とも言える千太郎の叫びが心に響く。
人間真実一路生きてきたのであれば、幸せになる権利もあるし、自由に人生を謳歌することもできる。
しかし差別される人間はどんなに努力してもそれが報われることはない。
今回この映画を観て「人間とはなんなのだろう」と痛感させられた。
ただ普通に生きてゆきたい、それも叶わないのか彼等、彼女等には。

2015年日本、フランス、ドイツ合作、カラー、113分、2015年日本公開、監督:河瀬直美

明日のためにその149-灰とダイヤモンド

2015年07月27日 | ヨーロッパ映画
レジスタンスの抵抗と悲しみ。

戦争はいけない。
人が人を殺し、それが評価されるような世界は正常とは言えない。
私達は今、とても平和な世界で暮らしている。
それを当然と思うことなく、世界では常に紛争が起こり、数々の犠牲者が出ていることは知っておくべきだろう。
今回紹介する映画は「灰とダイヤモンド」
終戦時のポーランドで起こった反政府運動者の若者の物語である。
ストーリーを紹介しておこう。

1945年戦争も終りかけたころ、ポーランド労働者党書記のシチューカの暗殺を命じられたロンドン亡命政府系の若い暗殺者マチェック。
しかし彼は誤って他人を射殺してしまう。
なんとかシチューカを歓迎する宴会に潜り込んだマチェック、しかし彼はその場のウエイトレス「クリスティーナ」と恋に落ちてしまう。
それをきっかけにシチューカの暗殺を最後に、暗殺者を止め彼女と暮らすことを決意するマチェックだったが.......

ラスト、マチェックは悲しい運命に導かれる。
あまりにも残酷なラストである。
この「灰とダイヤモンド」は「世代」「地下水道」とならび、アンジェイ・ワイダ監督の抵抗三部作と呼ばれる。
私は三作とも観たが、やはり「灰とダイヤモンド」衝撃が一番強い。
マチェックを演じた、ズビグニェフ・ツィブルスキは39歳の若さで逝ってしまった。
走り出した列車に飛び乗ろうとして失敗し、命を落としたのだ。

前述したとおり、世界各地で未だ戦火の絶えることはない。
平和のありがたさを再認識すべきである。
観ていない方は是非観ていただくよう、お勧めする。

1958年、ポーランド製作、モノクロ、103分、1959年日本公開、監督:アンジェイ・ワイダ

明日のためにその148-ベイマックス

2015年07月26日 | アメリカ映画
やっぱり良質なアニメーション

私の子供の頃、映画と言えば怪獣映画が主流であった。
「ゴジラ」は勿論のこと「大魔神」など様々な映画を観た。
アニメでは手塚治虫作品を多く見た記憶がある。
しかし不思議なことにデズニーアニメを観た記憶がない。
「デズニーアニメレス」で私は少年期を過ごした。
しかし大人になってから、たまたまテレビでデズニー作品を鑑賞した記憶がある。
今回紹介する映画は「ベイマックス」
デズニー映画の比較的新作である。
ストーリーを紹介しておこう。

主人公ヒロ・ハマダ天才的な科学才能の持ち主。
しかし彼はその才能を非合法なロボットファイトに使っている。
そんな彼を見かねた兄のタダシは自分の所属する大学へヒロを誘う。
タダシの友人達のユニークな発明、タダシの発明したケアロボット「ベイマックス」を見たヒロはその大学へ入学することを決める。
ヒロはその大学の教授に認められるため「マイクロボット」と言うユニークな発明をする。
或る日大学のブレゼンパーティに招かれたヒロとタダシ。
ヒロの発明は教授から評価を得て大学に入学することを許される。
しかしその直後、会場が火事になり教授を助けようとして会場にタダシは飛び込むのだが.........

物語は思わぬ展開を見せ、やがてハッピーエンドで終る。
デズニーの作品は前述したとおり、大人になってから幾つか観た。
どの作品も優しさに溢れ、とても感動したことを覚えている。
この「ベイマックス」も、一連のデズニー作品のように優しさをいっぱいちりばめた作品となっている。
自身後悔と言うところまではいかないが、幼少期にデズニー作品をもっと観ておけば良かったと思う。
この心温まる映画を、是非観ることをお勧めする。

2014年、アメリカ製作、カラー、102分、2014年日本公開、第87回アカデミー長編アニメ映画賞受賞

明日のためにその147-雪村いずみ

2015年07月25日 | 歌謡曲
本当の歌手と言うもの。

以前にもこのブログに書いたが、最近「歌姫」流行である。
少しでも声量があり、ダイナミックに歌うとその女性歌手は即「歌姫」とよばれる。
しかし私は今の日本音楽界に「歌姫」など存在しないと思っている。
先日或るテレビ番組で、久しぶりに雪村いずみを見た。
彼女は今年78歳、普通なら隠居生活する年齢である。
彼女はそのテレビ番組で前田憲男(ジャズピアニスト)の伴奏で歌を披露した。
私は驚きを隠せなかった、実に見事な歌唱であった。
マイクから距離を離してもとおる伸びやかな声、今だ現役である。

雪村は1937年生まれ、家庭の借金のせいで高校入学を諦め、歌手デビューをはたす。
進駐軍のキャンプまわりなどをして歌手生活を続けていく。
1953年当時売れっ子だった「江利チエミ」「美空ひばり」とともに元祖「三人娘」としても売り出す。
その後何度か渡米し、ショービズの本場で経験を積む。
そして現在も現役である。

渡米と言えば朱里エイコを思い出す。
彼女も若くして渡米し、本場のショービズ界でその名を知られるほどになり、帰国して「北国行き」でデビューし、大ヒットを飛ばす。
彼女も歌は本当に上手かった。
しかし56歳という若さで彼女は逝ってしまう。
前述した雪村とともに三人娘を形成していた「江利チエミ」は45歳「美空ひばり」は52歳で逝去してしまう。
まだこれからと言う年齢なのに実に惜しいことである。
話は変わるが、何年か前に「懐かしのメロディ」的なテレビ番組を見た。
そこには昔どおりに適当に歌を唄う歌手だらけだった。
しかしそんな番組を見ていた私に突如衝撃が走った「長谷川きよし」の登場だった。
彼は過去の栄光や懐かしさなど微塵もない「今」の長谷川きよしとして歌った。
その上手さ、今だ現役であるとの存在感は他の歌手とは次元が全く違った。

雪村いずみにせよ、長谷川きよしにせよ「過去」がなく「今」しかない歌手は、その他の日本人歌手でいるだろうが?
本当に上手い歌手、女性で言えば「歌姫」今の若い歌手を押し並べて見ても誰もいない。
下地が無いのである、時代が違うと言えばそれまでだろうが。
しかし今もインディーズが出演できるライヴハウスは全国に沢山ある、むしろ昔よりそれは多くなっている。
そのような所で切磋琢磨し、実力を磨いたバンドもデビュウーしているとは言いがたい。
私達にできるのは、出来るだけ厳しい耳を持ち、良いものだけを評価するポリシーを持ち続けることだろう。
蛇足ではあるが「美空ひばり」の愛称「オジョウ」とは雪村いわく、笑い上戸から取ったものらしい。

明日のためにその146-ダーティメリークレイジーラリー

2015年07月21日 | アメリカ映画
アメリカンニューシネマの隠れた傑作。

1970年代にアメリカ映画のメインストリームになった「アメリカンニューシネマ」
以前このブログでも「グライド・イン・ブルー」と言う作品を紹介した。
アメリカンニューシネマとは、当時のアメリカが持っている闇の部分を前面に押し出したハッピーエンドではない作品群を言う。
今の全てがハッピーエンドなアメリカの映画とは趣を異とする。
代表作品では「俺達に明日はない」や「バニシングポイント」そして前述した「グライド・イン・ブルー」などがある。
本日紹介する映画は、やはりこのジャンルに当てはまると私が思っている映画「ダーティメリークレイジーラリー」である。
ストーリーを紹介しておこう。

ラリーとデュークはカーレーサー、二人でスーパーの店長宅から現金強奪を計画する。
計画は成功したものの、昨晩ともにした女性メリーがメンバーに入るはめに。
警察は陸から、空から彼らを追うが、まんまと逃げられてしまう。
警察の追跡から逃れた彼等だったが..........

映画は唐突と悲しいエンディングを向かえる。
私は中学生の頃だったか、近所の3番館でこの映画を観た記憶がある。
補足すると、当時はロードショウ館(1番館)、2番館、3番館と映画が流されていた。
3番館に来る頃には入場料も安くて、学生の私にはとても助かった。
上映本数も3番館くらいになると「3本立」になる、入場料も安く、沢山の映画も観られる良い時代だった。
今のロードショウ→DVDレンタルに比べても時期的に早く観られた。
話はそれてしまったが、この映画を観たときは、そのあっけない終り方に刹那さえ感じた。
長年DVDになっていなかった作品だが、今はDVDもリリースされている。
是非観ていただきたいお勧めの一本である。

1974年、アメリカ製作、カラー93分、1974年日本公開、監督:ジョン・ハフ

明日のためにその145-映画音楽の良かった時代

2015年07月19日 | 洋楽ポップス
美しかった映画音楽。

1970年代欧米の音楽はまさにカオスの渦中にあった。
ロックではイニシアチブを取るようなメインストリームは無く群雄割拠していた。
一方ポピュラー音楽の世界では「カーペンターズ」に代表されるような「美しい旋律」を持った音楽がメインストリームとなっていた。
今はどうであろう、なにかにつけて「ラップ」だの、ただ他人の曲を盗用して作られた「トラック」だの昔の良さは見る影もない。
私が1990年代以降、欧米の音楽に見切りをつけてアジア音楽への食指が動くようになったのは、このようなことが原因の一つでもある。
昔は「名画に名曲あり」であった、古くは先日ブログでも紹介した「第三の男」
アントン・カラス操るヨーロッパ独特の楽器「チター」が奏でる印象的で見事なメロディ。
まさに「名画に名曲」ありだ。
「真昼の決闘」でデックス・リッターが歌う名曲「ハイ・ヌーン」
枚挙にいとまがない。
1970年代と言えばアメリカでは「アメリカン・ニューシネマ」が映画界のメインストリームだった。
また「パニック映画」も沢山製作された。
そこにも名曲が沢山使用されている。
私はそれらの曲を聴くたびに思う。
「アメリカ音楽の良心ここにあり」
下の音楽がその象徴である。

The Morning After by Maureen McGovern

明日のためにその144-アップルミュージック

2015年07月19日 | 音楽サービス
アップルミュージックに思う。

有料配信形音楽サービス、以前このブログでも取り上げた現在は終了している「ソニーミュージックアンリミテット」があった。
今は「ラインミュージック」「AWA」そして「アップルミュージック」が有料配信形音楽サービスを行なっている。
私は「ラインミュージック」と「AWA」を試してみた、両方ともスマホを対象にしたサービスである。
残念である、私の聴きたい曲が全くない。
以前このブログにも書いたように、私はアジア系の音楽が好きでそれを聴きたいのだ。
両方のサービスとも私の聴きたいジャンルは皆無である。
その点前述の終了してしまったが「ソニーミュージックアンリミテット」良かった、私の聴きたいジャンルの曲が結構登録されていた。
「ソニーミュージックアンリミテット」は1500万曲のストックがあると公表していた、なので私の聴きたいジャンルもストックされていた。
一方「ラインミュージック」や「AWA」数百万曲のストックしかない、これでは私の聴きたいジャンルまでストックは及ばない。
では「アップルミュージック」はどうか?
残念ながら確かめられないのだ。
なぜなら「アップルミュージック」ではitunesを使用する、このitunesのヴァージョンが「12.2」以降しか「アップルミュージック」は対応しない。
更に残念なことにこの「itunes 12.2」ウィンドウズ7以降のOSしかインストールすることができない。
私のPCはウィンドウズ7以前のOSである、よって「アップルミュージック」が利用できない。
これは「アップル」の傲慢さである、たとえサポーとが終了したOSでも利用できるのが普通ではないか。
よって「アップルミュージック」にどれだけ私を満足させられるストックがあるのか判断できない。
一説によると数百万曲とか3000万曲のストックがあると言う。(どちらが正解なのが確かめるすべはないが)
私は大いに抗議したい「アップルよアップルミュージックを利用できる環境を広げるべし」

明日のためにその143-映画手法

2015年07月18日 | 映画
映画における作りの上手さとは。

私は今まで様々な映画を観てきた。
音楽もそうだが、趣向とするのは「ノンジャンル」
ジャンルにとらわれては良い映画、良い音楽と巡りあうことはない。
その様々な映画を観て思ったことがある、名作映画とは何か?
名作映画とは多くの人々に作品を印象付け、感銘等を与えるものである。
昔フランスの「アレクサンドル・アストリュック」が「カメラ=万年筆」を提唱した。
これが全てとは言わないが、私は正論であると思っている。
カメラが物語りを書いて行く、その下層に脚本がある。
フランス派生した「ヌーベルバーグ」が台頭した頃、初めに脚本あらず、現場にて脚本ありと言う映画の製作方法が一部主流になった。
古い映画フアンで当時若かった人々はその斬新さに驚いたと側聞したことがある。
しかし最近では派手なSFXや凝った脚本中心の映画が多いと思う。
私は昔の映画をもっと観て欲しいと思っている。
残念ながら今観ると「ヌーベルバーグ」作品などはどうしても古さや作りの身勝手さが鼻につくかもしれない。
しかしそれ以前の映画で名作は沢山ある。
カメラ、脚本それそれが素晴らしく一体になった映画では「第三の男」が挙げられるだろう。
私はこの映画を最初に観たとき、その作りの斬新さに驚嘆したものだ。
この映画は音楽も秀逸でまさに隙のない見事な映画である。
見た目の派手さや、脚本だのみになっている映画は感心できない。
最近では以前このブログで紹介したタルベーラー監督の「ニーチェの馬」などが「カメラ=万年筆」として傑作だろう。
今一度カメラの持つ、観客に訴えかける可能性を見直すべきではないだろうか。


明日のためにその142-あまちゃん再放送

2015年07月18日 | 日記
あまちゃん、再び。

私は連続テレビ小説暦20年のベテランである。
「ふたりっこ」以来全作品を見ている。
今振り返ってみると作品は玉石混合だった。
印象的な作品では前述の「ふたりっこ」吉行淳之介の母を描いた「あぐり」シングルマザーの奮闘を描いた「私の青空」女性落語家を主演にした「ちりとてちん」
このあたりが今まで見た作品の中ではよく出来た作品と思っている。
連続テレビ小説は大体が女性を主役とし、どんな困難にも負けず、自分の未来を切り開いていくと言うのが主題になっている。
そんな中に突然現れた異形の作品、それが「あまちゃん」である。
東京生まれ東京育ちの女子高生が母の故郷で自分を見いだし、明るい未来を生き抜いていくと言ったストーリーである。
宮藤官九郎、この「あまちゃん」の脚本を書いた人物である。
この「あまちゃん」を通じ、彼は既に全国に名前を知られる存在になった。
私は彼の存在を以前から知っていた。
しかしあまり好きになれなかった。
彼の監督した映画「少年メリケンサック」を観たけれども、特別どうと言うことはなく「この程度か」と思っていた。
「あまちゃん」も本放送の時、途中から見だして「なかなか面白い」とは思ったけれども真剣に見てはいなかった。
しかし今年の4月から「あまちゃん」の再放送が開始された、朝と土曜の夜に一週間分の放送を行なっている。
私は土曜日の一週間分の放送を最初から見ることにした。
私の考えは変わった、監督としてはだめだが、脚本家としては実に面白い脚本を書く。
毎週土曜日の「あまちゃん」が楽しみになった。
彼はバンドも結成していて、活動も行なっているらしい。
そちらには私はとんと興味がない。(いつか彼らの演奏を聴くかもしれないが。)
それと以前このブログでも紹介したが、オープニングのテーマ曲が良い。
展開の意外性のある楽曲はとても楽しめる。

今、ふたたび「あまちゃん」なのだ。

明日のためにその141-映画館に一言

2015年07月16日 | 映画
映画館のあるべき姿。

本日映画館へ映画を観に行った。
久しぶりである。
映画は「アヴェンジャー2エイジ・オブ・ウルトロン」である。
前回の「アヴェンジャー」の続編であるが、物語は変わっている。
やはりシリーズ物は難しい、第一作より良いものを作らなくてはいけない。
今回の映画は残念であった。
申し訳ないがストーリーは割愛させていただく。
「アヴェンジャー」の一作目を観た方は同じ登場人物(ヒーロー)が派手に暴れる映画だと思っていただければ良い。
今回は映画館について考えてみた。
どこの映画館もそうとは言えないが、本日観に行った映画館は一種ステレオタイプではないかと思う。
私は映画上映の5分程前に客席についた。
問題はここからだ、スクリーンに映し出されるのは「広告」また「広告」全く食傷ぎみになる。
本編が上映される前にいくつ「広告」が映し出されたろうか、観ている私は我慢の限界を越えそうになった。
昔は映画館に入ると「わくわく」した気分になり「広告」もそれほど多くなく、次回上映作品の紹介が多かったので自然に気分も高揚してくる。
今の映画館は「広告」を写しすぎである、高い料金を支払い映画を観に来た人達に失礼ではないか。
そして上映機器にも問題がある。
今は殆どの映画館が「DLP」と言う液晶プロジェクターを使って映画を上映している。
昔のように35ミリのフィルムを使って上映していないのだ。
昔から映画を観ている私にとって、あの映画画面独特の「ざらついた手触り」が映画そのものであった。
デジタル化が進み、映画界もすでにデジタル化に入っている。
放送界でも4K、8Kと言ったさらに高精度の時代に入った。
私が思うには現在の「ハイヴィジョン」の精度で十分である「ハイヴィジョン」であれば35ミリのフィルムの「ざらつき感」もしっかり表現できる。
音楽の完成形は「アナログ盤」またはシングルレイヤーの「SACD」である。
映画の完成形は「フィルム」ではないだろうか。
話は横道にそれてしまったが、古きこそ良きと思うのである。