ダーリン三浦の愛の花園

音楽や映画など徒然なるままに書いてゆきます。

明日のためにその230-ヘッドホン

2016年05月31日 | オーディオ
或る意味理想的なリスニング環境。

私は、通常音楽を聴くときは、スピーカーで聴く。
しかし、以前から「ヘッドホン」でのリスニング環境にも食指があり、先日ヘッドホンを購入した。
ブランドは「AKG」スタジオモニターの今やスタンダードモデルになっている。
ヘッドホンと言っても、ピンからキリまである。
しかし、騙されてはいけないのは、その値段である。
高価な物は、高級スピーカーを買えるような値段のものもある。
以前このブログにも書いた記憶があるが、オーディオの世界は果てしない。
値段が高いもの程、良い音を聴かせてくれそうで、どうしても憧れの対象となる。
しかし、値段と性能はオーディオの世界では比例しない。
特に海外ブランドには要注意だ。海外での値段は大したことは無いのに、日本の「輸入代理店」を通じると嘘のような高価な値段がつく。
私はそれが嫌で、基本的に海外のブランドにはあまり興味がない。興味がある機器が海外製の場合は、個人輸入でまかなっている。
同じ機器を買うのに、べらぼうな金銭を支払う気は無いのだ。
今回購入した「AKG」も何万もしないものだ。一万円未満と記憶している。
スタジオモニター等で使用される機器は、大量生産が基本となるので、コストパフォーマンスが良いのであろう。
ヘッドホンを選ぶ場合、特に注意すべき点は「装着感」である。
インナーイヤータイプ(耳の穴に入れて使用するもの)以外は、全て耳を覆う形式のヘッドホンである。
大まかに「オープンタイプ」と「密閉タイプ」に分けられる。
オープンタイプは耳の上にパットが被さるもの、密閉タイプは耳全体を覆い、顔の側面に被さるもの。
どちらも「装着感」を重視しないと、長時間のリスニングには耐え切れない。
これについては、オーディオショップに足を運んで、試すのが一番である。
あと、音質については、個人の差があるので、自分の好みに合った音を奏でるものを選択する。
私個人は、昔は「ソニー」のヘッドホンを使用していた。「ソニートーン」と呼ばれる、中低音の豊な音がするものだった。
しかし最近は、ナチュラルな再生音が好きなので、今回のスタジオモニター用のヘッドホンを購入した。
ヘッドホンは、理想的リスニング環境とも言える。スピーカーでは、セッテング位置により「音像」は変化してしまうが、ヘッドホンにはそれがない。
また「バイノーラル」音源と言う楽しみがある。
バイノーラル音源とは、ダミーヘッドの両耳の部分にマイクをつけ、シュミレーション録音をしたものだ。
私は少年時代、このバイノーラル録音された「ラジオ劇」をヘッドホンで聴いたことがあるが、そのリアリティには背筋に寒気を覚えるようなものだった。

音楽に集中でき、周りへの騒音の心配の無いヘッドホンはとても便利なオーディオ機器と言える。
ただヘッドホンは「抵抗値(インピーダンス)」がスピーカーの比で無いほど高いので、使用するときは注意が必要である。
ただ、そのためにヘッドホンアンプを買うのはやめた方が良い。優秀なアンプについているヘッドホン端子であれば、十分ヘッドホンを駆動してくれるだろう。
ヘッドホンアンプが必用な場合は、アンプ等増幅器にヘッドホン端子がついていないとき限られる。

現在私のヘッドホンは、パソコンの音声出力に接続されており、まあまあちゃんと駆動してくれている。
スピーカーリスニングと違う環境での音楽の楽しみ方を、ヘッドホンは教えてくれた。
願わくば前述した「バイノーラル」録音が復活し、ヘッドホンの面白みを増幅してくれることを願う。

明日のためにその229-ザ・クロマニヨンズ

2016年05月28日 | ロック
変わらないかっこよさ。

初心忘れるべからず。
初心を貫徹して生きてゆくことは、人生にとって並大抵のことではない。
時を削り取り、先へ進むにしたがって、人は変化を求められる。
また逆に、変化を求める人もいる。
音楽の世界も同じである。
近年、長寿バンドが増えてきて、私も全てのバンドを聴いているわけではないが、それらのバンドのサウンドは変化しているだろう。
短期間の活動ではあったが「ビートルズ」も初期から後期にかけては、サウンドが大きく変わっている。
「プリーズプリーズミー」を演奏していた彼らが「アビイロード」と言うアルバムを誰が製作することを予想したであろう。音楽を純粋に考えていくと、私は彼らの変化は正しいものと思っている。
長寿バンド世界一である「ローリングストーンズ」も、またしたりである。彼らも大きな振幅を繰り返しながら、バンドのサウンドを変化させてきた。
私自身も「ダーリン三浦と横浜シューシャンボーイズ」で音楽活動をしていたとき、やはり五人のアンサンブルでは足りないと言うことを経験した。
私が作詞、作曲してきた音楽は、後年になるほど「楽器」を多用しなければ、納得のゆく楽曲として発表できないと思っていた。
それは私が「ロック」と言うジャンルを意識せず「音楽」自体を制作したかったので、当然の結末と言える。
しかし、世の中には前述した「初心貫徹」を体言しているバンドがいまだにいる。それも日本にだ。
そのバンドの名前は「ザ・クロマニヨンズ」である。

「ザ・クロマニヨンズ」遡れば1985年、甲本ヒロトと真島昌利が結成した「ブルーハーツ」が元素となる。
ブルーハーツ解散後、甲本と真島はTHE HIGH-LOWSを結成。その後解散、現在の「ザ・クロマニヨンズ」となる。

甲本は少年時代「セックスピストルズ」に憧れ、自分でもミュージシャンになることを夢に見ていたと言う。
以後、彼は自分の夢を真島をパートナーとして果たし、現在に至る。
とにかくいくつバンドを解散し、結成しても、演奏する音楽はストレートな「ロックンロール」ばかりだ。
インテリぶって、前衛的な音楽を制作することもしない。
また歌詞も、常に攻撃的メッセージのあるものばかりだ。近年のJ-POPに見られる「手を取り合って仲良くなろう」的なやわな歌詞はない。
彼らは誰にも、迎合しないし、媚びることもしない。自分たちの思った事を、歌詞、メロディーに乗せて唄ってゆく。
甲本ヒロトも既に50歳を過ぎている。熟年域の人生のなかで、彼はまだ「ロックンロール」演り続ける。
ステージでは飛び跳ね、腹の底から声を絞り出す。
これがすこぶる「かっこいい」
私は「かっこいい」と言う言葉を、最高の褒め言葉として使用している。
彼らの、筋金が「ピン」と通った音楽性には感服する。
いくつになっても、この「かっこいい」「ロックンロール」を続けてもらいたい。


明日のためにその228-レヴェナント 蘇りし者

2016年05月26日 | アメリカ映画
自然も人間も撮りきった傑作。

人の「生」に対する執着とは何であろう。
平凡に生きている我々には、この「生」に対する意識はあるだろうか。
何のために生き、生きるために何をするのか、自分自身に問いかける人は少ないのではないだろうか。
今回紹介する映画は「レヴェナント 蘇りし者」
先ごろのアカデミー賞で、念願の「主演男優賞」を獲得した、レオナルド・デカプリオ主演の映画である。

ストーリーを紹介しておこう。

西部開拓時代の、アメリカ北部の雪深い場所。
狩をして動物の皮を剥ぎ、それを商売にする一団がいた。
彼らは、その地域の先住民にいきなり襲われ、被害にあう。
その一団のガイド、グラスと息子ホークは舟を捨て、山沿いのルートで砦に向かうことを進言する。
しかし、翌日、見回りをしていたグラスは、熊に襲われ、瀕死の重傷を負う。
余命の無い状態と察した、隊長は、グラスの息子ホークを含む三人に、グラスが死亡したら丁重に埋葬するように命じ、先に進むことにした。
しかし、居残りを命じられた一人、フィッツジェラルドはグラスの事を、あまり良く思っておらず、卑劣な行動にでるのだが......

グラスは熊に襲われ、正に瀕死の状態。普通なら余命幾ばくもないだろう。
しかし彼は許せないことを体験・目撃する。
フィッツジェラルドがまず、死に切れないグラスを生き埋めにするため、グラスを埋葬用の穴にいれ、上から砂をかける。
それを止めに入った息子、ホークをフィッツジェラルドは殺して逃げてしまう。
一度は死に掛けたグラスだったが、この光景を目の前にして、彼は満身創痍の体にムチ打ち復活を遂げる。
彼は「生きる」ことの執着を、自身の体に叩き込んだのだ。彼の息子の仇をとるために。
全編を通じて、デカプリオの演技が素晴らしい。
これ以後のシークエンスは、かなりハードな内容の撮影が続いたものと思われるが、鬼気迫る彼の演技は賞賛に値する。それはまるで、時分自身を、スクリーンに投げつけるような演技だった。
また、全編、数少ない台詞だけで、雪山等の自然の風景を大胆に撮りきった監督、イニャリトゥも素晴らしい。
全体がブルーがかったカラーで、独特の緊迫感を出し、人と自然の対比を見事に表現している。
最近稀に観る傑作である。
ただし、注意しておかなければいけない点がある。
動物愛護心が強い方は、観るのをお控えいただいた方が良い。
馬が射殺されたりするシーンや、かなり残酷なシーンが多い。
観る人によって、普通に観られるシーンでも嫌悪感を持たれる方もいる。
その点だけ、ご注意いただきたい。

監督の「アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ」は昨年、以前このブログでも紹介した前作の「バードマン」でアカデミー賞を総なめにした。
前作が素直な作りでなかった映画だったが、本作は実にストレートに作られた一本で、誰にでも観ることをお勧めできる。
まだ、観ていない方(前述した動物愛護心の強い方以外)には是非観ることをお勧めする。

2015年、アメリカ製作、カラー、156分、2016年日本公開、監督:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ

明日のためにその227-スロウ・ウエスト

2016年05月24日 | ヨーロッパ映画
なかなかの出来栄えの一作。

愛とは、お互いに認識して生まれるものである。
勝手な愛名成立などない。
もし、それがあれば、お互いに傷つくものになろう。
今回紹介する映画は「スロウ・ウエスト」悲劇的な愛を迎える作品だ。

ストーリーを紹介しておこう。

19世紀のアメリカ。スコットランドの男性ジェイは、何も言わずにアメリカへ旅立った思いを寄せる女性を探しに、単身アメリカへ渡る。
しかし、ジェイは貴族出身。青白くとても当時のアメリカで暮らせるような男ではない。
彼は、旅の途中、盗賊に会うが、その危機をサイラスという男が助ける。
サイラスは旅の途中まで、金銭の報酬をもらえれば、ジェイの用心棒となると言う。
ジェイは迷わず、サイラスに金を払い、用心棒になってもらうことにするが......

開拓時代のアメリカである。自分の身は自分で守らなければならない。
ジェイは旅の途中で、様々な出来事の中、それを思い知らされる。
しかし、貴族の彼は、そう易々と人間性が変われるわけではない。
彼は、ジェイの手助けが必用なのだ。
驚いたのは、劇中後半のシーン。彼らの立ち寄った雑貨店が、男女二人組みの強盗に襲われる。
しかし、銃を持つのも初心者のようで、まして男は老人の域に達している。
結局、男は店主と相打ちしまうが、残った女性は金欲しさに、その場にいたサイラスに金を要求する。
だが、幸いにも、ジェイは彼女の背後にいて、存在に気づかれていなかった。
それを良いことに、ジェイは背後から女性を銃で撃つ。
私はここに驚かされた、背後から、それも女性を銃で撃つ。貴族の彼は、卑劣な方法で難を脱したのだ。
二人は店から幾つかの物を失敬して、表に出る。
するとそこには、強盗の娘、息子たちが待っている。なんとも切ないシーンだ。
そしてラスト、ジェイの愛している女性ローズは、賞金をかけられるような、おたずね者になっていた。
やがて彼女の家は、賞金稼ぎに取り囲まれ、壮絶なサバイバル合戦となる。
ジェイはやっとの思いで見つけ出したローズに会おうと、銃弾飛び交う中、やっとの思いで彼女の家までたどりつき、彼女に会える時がやってきた。
しかしジェイを待っていたものは、悲しい結末だった。

この作品は「生きる」事に関する、痛切なメッセージが込められている。
ジェイの愛したローズは、生きるためならジェイをも犠牲にする。
彼女は本当にジェイを愛していたのだろうか。
ジェイは、冒頭にも書いた「勝手な愛」を創造していたのだろう。
全く悲しい物語である。
しかし、ラストシーンには疑問が残った。
サイラスとローズが一緒にハッピーエンドを迎える。
物語の成り行きからして、このエンディングは悲し過ぎる。附に落ちない演出である。
しかし、なかなか良くできた作品であるので、観ることをお勧めする。
ただし、まだ作品は媒体化されていない、私は「ワウワウ」でこの作品を観た。
再放送の予定は、今のところないが、もし再放送されるようなことがあれば(ワウワうへの加入が前提になってしまうが)、観ていただきたい。

2015年、イギリス・ニュージーランド合作、カラー、89分、監督:ジョン・マクリーン

明日のためにその226-小津映画「デジタル修復版」

2016年05月21日 | 邦画
華麗なる色彩美

先日BSで小津安二郎の作品を「デジタル修復」を施したものを放送していた。
実に見事な作業で、モノクロもカラーも実に綺麗に修復されていた。
作品は、代表作「東京物語」や遺作となった「秋刀魚の味」まで、何本か放送された。
今回デジタル修復版を観て、特にカラー作品の見事さに魅了された。
修復された絵は美しく、特に屋外のカット割りは絵画の如く素晴らしい出来である。
それとともに、屋内の映像に関しては、小津の色合いのアンサンブルが見事だ。
襖の色、小物の色、役者の着ているもの、全てが計算された色である。
かってこのような拘りを持った監督がいただろうか。
デジタル修復版にはこのような発見が随所に見られた。
私にとって「小津」は、とてつもない監督だ。
彼は処女作の「懺悔の刃」(フィルム消失で観ることはできない)以外は、全て現代劇で、戦後は主に「親と子」の関係を密接に描いた。
しかし、彼はどんな映画でも撮れる才能を持った監督だと私は思う。
ヒューマニテックなものから、コメディ、アクションまで、幅広い映画を撮る才能を持った監督である。
以前このブログにも書いた「日本映画三巨匠」の中で、唯一自分の独立下に俳優等を置かなかった監督であろう。
溝口や黒澤といった、あくの強い監督とは違い、ヒッチコックの名台詞にもある「たかが映画じゃないか」を日本で実践できた唯一の監督であろう。
作品に自分くささを残さない監督である。溝口や黒澤はしっかり自分くささを映画に残した作りになっている。
小津の映画の再評価は、ヨーロッパを中心に派生してきた。
しかしヨーロッパの映画関係者は口を揃えて言う「小津は音痴である」と。
これは何を意味するかというと、画面のBGMが良くないと言うのだ。
これには私は至極反対する。小津は決して「音痴」などではない。
あの「ひょうひょう」とした、どこか憎めない独特のBGMは小津の作るシークエンスに見事に合っている。
ヨーロッパの映画関係者は、もっと落ち着きのある、BGMを望んでいるとおぼしい。
しかし、小津の映画の会話のテンポ、シークエンスのテンポ、このテンポを楽しめれば、BGMの見事さに納得していただけると思う。
話は逸れてしまったが、今回「デジタル修復版」を観て、小津映画の素晴らしさを再発見した。
もし、この修復版を観られる機会があれば、是非観ていただきたい。


明日のためにその225-仁義無き戦い

2016年05月19日 | 邦画
日本映画の革新的作品。

昨日BSで「仁義無き戦い」の製作秘話を放送していた。
私は、このシリーズは全て観ているが、特に第一作と第二作が印象に残っている。
この番組を観て知ったのだが、この作品は1973年度のキネ旬、読者が選ぶ邦画のベスト1に輝いている。
話は若干それるが、キネマ旬報の毎年発表される洋画、邦画のベスト10で、一番信用できるのは「読者が選ぶベスト10」ではないかと私は思っている。
昨今の映画評論家と呼ばれる人達は、いったい何を観ているのだろうと思うことがある。
キネ旬のベスト10は資料的価値があるだけでなく、未観の映画への指針にもなる。
私自身、評論家の選ぶベスト10を過去幾つか観ているが、正直駄作も多い。
もっとしっかり映画を観る感性を持って、ベスト10を選んで欲しいものだ。
話を本題に戻そう。
この「仁義無き戦い」がクランクインしたのは、1972年の秋。当時は無名に近かった「深作欣二」にメガホンを取らせた。
一見無謀とも思えるこの決断は、この映画のプロデューサー日下部が決断した。
彼は深作の映画を何本も観ており、その映像のテンポの速さに感心し、深作に一目おいていたという。
日下部にとっては「賭け」的な要素の映画だったのだ。
番組では、この映画に係わった人々の興味深い話が聞けた。
中でも一番驚いたのは、深作は「絵コンテ」を全く書かないというのだ。
これが無くては、カメラの設定が出来なくなり、絵が取れない。
しかし、深作はロケーション現場でスタッフにカメラ撮りの内容をそのつど伝えたという。
中でも革新的だったのは、手持ちカメラの映像である。
手持ちカメラの映像は、臨場感が増し、リアリティ感も演出できる。
しかし、当時手持ちカメラで撮影したことのないスタッフは、困り果てたという。
映画用のカメラには「カメラマン」「フォーカス担当」「ピント担当」と当時(今でも同じかもしれないが)3人の人手がかかった。
更にカメラの駆動音がうるさく、俳優の台詞を消してしまう可能性があったと言う。
そこでカメラマン達は、一計を案じ、カメラを含めた人にまで厚手の毛布を被せ、音を遮断したと言う。
彼らはそれを揶揄して「獅子舞作戦」と命名していたと言う。
音の遮断は成功したものの、そのままの体制では「フォーカス」と「ピント」が合わせられない。
信じがたいことだが、当時の人の証言では「感を頼りに全てこなした」と言う、俄かに信じがたい話である。奇しくもフランス発祥の「ヌーベルバーク」に手法に似ている。

監督としての深作は、出演者を平等に扱ったと言う。
主役から大部屋俳優達まで、差別することは一切無かったということだ。
彼のポリシーは「画面に映っているものは、電柱一本であれ、犬であれ全て主役だ」
衣装にも徹底的に拘ったと言う。上記の言葉どおり、カメラの捉えるものは全て主役だと言う彼は、端役の衣装にも全く手を抜かなかったと言う。そのおかげで、制作費はかなりオーバーしてしまった。
そして、スタッフ全てが困らされた彼の一言がある。「微妙に違うんだなぁ」
この一言でテイクは取り直し、彼のこの一言が出なくなるまで撮影は続いた。
監督には様々な人達がいる。
日本の三巨匠と言われる、小津、溝口、黒澤である。
黒澤と溝口は、かなり細かいところまで役者に注文をつけた。
しかし、小津は全く注文をつけなかったという。
何も言わずに、テイクをどんどん重ねていって、ある瞬間テイクが決まり、役者は演技から解放される。
深作の作風は、小津のタイプで、自分からは何も指摘せずに、役者に考えさせ、演技させていた。
前述したように、役者を全て平等としていた深作は、威張りちらすこともせず、フラットな関係で映画を撮っていたと言う。
「仁義無き戦い」私は第一作目を何度も観ているが、いつ観ても面白い。
独特の緊迫感、リアリティー等、魅力的要素がこの映画を何度でも観させるのだろう。
この映画が公開された当時、時期は若干違うが、同じ傾向の映画で「ゴットファーザー」があった。
私はこれも観ているが、二作品は同じ裏社会の抗争を描いているが、内容は全く違う。
「ゴッドファーザー」の中には「家庭の絆」的要素を描いているが「仁義無き戦い」では、抗争のみを描き「家庭の絆」など全く描いていない。
国が違うと、映画の作りも違うものだと、私は思った。両作品を比較するつもりは全くないが。

深作が亡くなってから、10年以上が過ぎた。
今回のこのBS番組を観て、また新たに「仁義無き戦い」の一作目を観たくなった。
もし未だ観ていない方がおられたら、是非観ることをお勧めする。

1973年日本公開、日本製作、カラー、99分、監督:深作欣二(第一作目)

明日のためにその224-オリジナルラヴ

2016年05月17日 | J-POP
しっかりした音楽作りに感心。

以前もこのブログに書いたと思うが、私は1990年頃には、日本のポピュラー音楽も、欧米のポピュラー音楽も聴かなくなってしまった。
日本の当時ジャンルとして出来たばかりの「J-POP」とは反りが合わなかった。
また、未熟なバンドが多数存在し、それが結構売れていたのにも反感があった。
欧米(イギリス、アメリカ)についても、ブラックカルチャーがメインストリームを完全に牛耳り、ラップ等の黒人音楽が蔓延していた。
私の考えは、ブラックカルチャーは常に「サブカルチャー」の存在でなければならないと思っている。
メインストリームは白人音楽が支配してサブカルチャー(一種のカウンターカルチャー)として存在した場合、欧米の音楽界は俄然面白くなる。
私はそのような理由で、当時興味を持ち始めていた、アジアを中心にした各国のポピュラー音楽、今で言う「ワールドミュージック(その頃このようなジャンルは存在していなかった)」を熱心に聴いていた。
現在に至っても、私はその系統の音楽ばかり聴いている。
しかし、以前から気になっている日本のバンドがいた。
「オリジナルラヴ」である。
かなり昔の事になるが、どこかで彼らの「接吻」と言う曲を聴いた。グルービーでメロディも良し、特に曲作りのセンスの良さが際立っていた。
先日、これといった理由はなかったが、彼らのベストアルバム「変身」を購入した。
買ったものの、聴かずにいたが、先日ようやく聴く事ができた。
聴いた後の間奏は「驚嘆」だった。

オリジナルラヴ。田島貴男をメインに1991年CDデビュー。
彼が殆どの曲の作詞・作曲を行なっているという。
彼らの略歴は、私が紹介するよりも、このブログを読んでいただいている方たちの方が詳しいと思うので割愛させていただく。
彼のコンポーザーとしての才能は、業界でも評価されているらしい。

今回このベストアルバムを聴いて、その楽曲作りに感心させられた。71分に及ぶ聴取時間だったが、あっという間に過ぎ去ってしまった。
とにかくセンスが抜群に良い、多少勘違いと思われる方もいると思うが、私は1980年代の「シティポップス」を進化させた楽曲作りに思えた。
サザンの桑田、ミスチルの桜井あたりが曲作りでは才能に光るものがあったと思っていたが、田島貴男はそれ以上かもしれない。
桑田は「歌詞」がだめ、桜井は「歌唱」がだめ、私なりにそれぞれの弱点だと思っている。
その点、田島貴男は弱点が見つからない。ほぼ完璧である。
今さら、昔の「J-POP」を聴き直そうとは思わないが、オリジナルラヴだけは、暫く追ってみようかと思っている。
彼らのデビュー当時は「フリッパーズギター」や「ピチカートファイブ」等に代表される「渋谷系」と呼ばれるバンドが存在していたらしい。
私は以前、両バンドとも幾つかの楽曲を聴いたことがあるが、オリジナルラヴは彼等とは「次元が違う」と言ってもいいだろう。
下に前述した「接吻」を貼った。
彼らの代表曲で「J-POP」の名曲ともいえるこの曲を、今一度是非聴いていただきたい。

接吻 ORIGINAL LOVE (PV)


明日のためにその233-殺人地帯U・S・A

2016年05月14日 | アメリカ映画
フィルムノアールの傑作。

フィルムノアール。1940年代以降、アメリカで製作されたモノクロを基本とした犯罪映画を指す。
当時、主にB級作品の多くはこのフィルムノアールの、要素を持っている。
今回紹介する映画は「殺人地帯U・S・A 」多くのフィルムノワールを手がけた「サミュエル・フラー」の監督作品だ。

ストーリーを紹介しておこう。

14歳の不良少年トリーは、ある日自分の父親が4人の男によって撲殺されるところを目撃する。
その男達が逃走するなか、一人だけトミーは男の顔を目撃する。
彼はその後、金庫破り等の犯罪を繰り返し、少年院や刑務所を転々とする。
ある刑務所に入った時、そこの病院に父親殺しの時目撃した男が入院していることを知る。
トミーは自ら、刑務所の病院勤務を名乗り出る。
そして彼の復讐が始まるのだが......

光と影を多用した映画作り。綺麗なモノクロが画面にそれを描ききっている。
そしてテンポの良い演出、そして脚本も見事である。
特に本編中盤で、復讐相手のボス達を、彼らを追っている警察検事と協力して、偽の警察文書を作り、仲たがいさせて、復讐を果たすシークエンスは、あの黒澤明監督の「用心棒」に似たところがあり、とても興味深い。
特に印象的なのは、冒頭父親が撲殺されるシーンである。
人物は見せずに、壁に映った影だけでそれを表現している。光と影の演出の見事さだ。
ラスト、トリーは果たして全ての復讐相手を見事始末する。
劇中、あるきっかけから、拾った女性とトリーは結婚の約束をしていた。
最後の復讐を終らせ、その場を後にするトリーには、恐怖の報酬が待っていた。
前述したとおり、監督はサミュエル・フラー。
当時はB級映画監督として、母国アメリカでは認められていなかったと言う。
しかし、後年ヨーロッパで再評価され、今では名匠の一人として認識されている。
映画の作りも良し、文句の付け所が殆ど無い作品である。
まだ観ていない方には、是非観ることをお勧めする。

1961年アメリカ製作、モノクロ、99分、監督:サミュエル・フラー

明日のためにその232-アイコ十六歳

2016年05月13日 | 邦画
今観ても瑞々しい青春映画。

以前にも、このブログに書いたが「青春」と言う時代は、短く、速い。
青春の真ん中にいるころには、それには気づかず、過ぎ去ってから青春と言う物を思い出すのである。
誰もが経験したであろう「青春時代」いつまでもその心や感受性を持っていたいものだ。
今回紹介する映画は「アイコ十六歳」
この映画でデビューした、冨田靖子のはつらつとした演技が見られる作品である。

ストーリーを紹介しておこう。

名古屋の高校に通う「ラブたん」こと、三田アイコ。
彼女は部活の弓道に夢中な十六歳である。
彼女は、いつも仲良しの友達が沢山いる。
しかし「ベニコ」こと、花岡紅子とだけはそりが合わず、彼女の行動にいちいち苛立ちを感じている。
夏休みが終った或る日、アイコは新任の教師島崎愛子と出会う。
弓道の全国大会で入賞したこともある愛子に、アイコは密かな憧れを持つ。
しかし愛子は不倫の末、自殺をはかるが、一命を取り留める。
彼女を心配したアイコは、彼女の入院先を訪ねるのだが......

私はこの映画が大変好きである。
上手いとは言いがたいが、富田靖子の瑞々しさ、可愛らしさが最高に輝いている。
映画も、大林宣彦製作総指揮の元作られているので映画としての作りもしっかりしている。
映画のラスト近く、ベニコと和解したアイコは名古屋の街の繁華街にくりだす。
そこでは、多くの若者達が暴走族のパレードを見るために集まっている。
派手なメイクをした青年、缶ビールを飲みながらパレードを見る男性。
アイコの知らない大人の闇の部分を彼女は知ることになる。
一人帰宅したアイコは、その体験の恐怖のあまり、母親に抱きつき号泣する。
このあたりが凄く良い、とても上手く作られている。
そしてラスト、一夜明けたアイコは自宅の屋根に上がり、自分の家に遊びに来る途上の友人を見つけ、満面の笑顔で、ちぎれんばかりに手をふる。
斉藤誠の楽曲「OH!キャンティー」がそのシーン被さり、アイコの「希望」がまた芽生えだす秀逸のシーンである。
ラストあたりは、昔読んだ「赤ずきんちゃん気をつけて」を彷彿とさせる部分がある。
このような映画は、是非、若い時代に観てほしい。感性を磨くには良い映画である。
因みに、この映画にはエキストラで「松下由樹」や「宮崎ますみ」も出演している。
まだ観ていない人には、是非観ていただきたい一本である。

1983年日本公開、日本製作、カラー、98分、監督:今関あきよし

明日のためにその231-夫婦フーフー日記

2016年05月11日 | 邦画
失われた愛の物語。

夫婦。蜜月期を過ぎ、子供に恵まれると、その愛の形は変化していく。
育児が忙しくなった女性は、夫に対しての愛情が徐々に薄れる傾向があるようだ。
熟年離婚などという悲しい結果を招かず、余生夫婦二人きりで過ごせるのが一番良いと私は思っている。
今回紹介する映画は「フーフ夫婦日記」
或る夫婦の生活を描いた映画である。
ストーリーを紹介しておこう。

浩太は出版社勤務。或る日友達の紹介で書店に勤めている優子と出会う。
浩太には大勢の友達がいて、皆で集まっては飲みに行ったりしている。
しかし時も経ち、徐々に集まる友人も少なくなってきた。
浩太は優子と知り合って、17年の歳月を経て彼女にプロポーズする。
彼女はプロポーズを受け入れ、二人は結婚することになる。
そして、結婚直後、優子が妊娠する。
しかし、同時に彼女の腸にガンが発見される。
子供だけは産みたいと願う彼女だったが......

果たして彼女は無事子供を出産する。
しかし、ガンの進行は止められず、やがて彼女は土に帰る。
ところが、彼女の49日の法要で、浩太は優子の幽霊(?)と出くわすこととなる。
それ以降、優子はことあるごとに浩太の前に現れ、彼の生活や性格に苦言を呈す。
物語はカットバックを多用し、現在と過去を行き来し進んでゆく。
私がこの映画を観ようと思った訳は、監督が以前このブログでも紹介した「婚前特急」を撮った 前田弘二が監督だったからだ。
「婚前特急」はなかなか良い出来の作品だったので、本作も期待を持って観た。
しかし残念ながら「婚前特急」の出来には及ばなかった。
一つだけ良かった点は、優子の弟を演じた、高橋周平だった。
ひょうひょうと、間の抜けたキャラクターを上手く演じていた。
それ以外は評価するところがない映画だと思う。

監督とは難しい職業である。一作目や初期作品で良いものを撮ると、観客は当然の如くその後に作られる作品に期待を持つ。
しかし、期待を裏切らない作品を次々に撮るのは至難である。
そしてダメになっていった監督も多数いる。
前田弘二がそのようにならない事を願って止まない。
ただ、新作「セーラー服と機関銃-卒業-」も、あまり評判が良くないようである。
私はこの映画を観ていないので、その出来について言及できないが、観られる機会があったら観てみようと思っている。
今回紹介した作品は、私自身お勧めしないが、興味をもたれた方は観ていただき、コメントなどいただけると幸いである。

2015年日本公開、カラー、97分、監督:前田弘二。