ダーリン三浦の愛の花園

音楽や映画など徒然なるままに書いてゆきます。

明日のためにその168-古川緑波

2015年09月11日 | お笑い
不世出の喜劇役者。

今まで、様々な「お笑い」について、喜劇人等をこのブログで紹介してきた。
最近の「お笑い」(あえて喜劇人とは言わない)については、このブログで取り上げていない。
理由は明確で、最近の(と言っても、もう十数年以上)「お笑い」を演ずる者は、極めて面白くない者ばかりである。
漫才をしない、漫才師。コントが本業なのにそれをしない、芸人。
彼らははちょっと名が売れると、テレビ番組のヴァラエティで「パネラー」と言われる位置に座り、くだらない発言ばかりしている。
まさに日本の「お笑い」ここに尽きる感がある。
日本の「お笑い」の最期は「第三次漫才ブーム」だったのであろう、あれ以来後世に名を残す喜劇人は出ていない。
よって、本ブログで取り上げる「お笑い」についても、古い時代がメインになってしまうのだ。
さて、日本の「お笑い」「喜劇人」を語る上で、どうしても触れておかなければいけない人物が二人いる。
「ロッパ」こと古川緑波と「エノケン」こと榎本健一だ、今回は前者について紹介する。

古川緑波は、明治36年に生を受ける。
彼は父親の方針で古川家に養子にだされる。
十六歳のころから、日本で最古の歴史を誇る映画雑誌「キネマ旬報」に映画評を投稿し、十八歳で同誌の編集者となる。
昭和8年、菊田一夫らと「笑いの王国」を結成、前述した「エノケン」のライバルとして世間に認知されることとなる。
でっぷりとした体、ゆえに彼はドタバタを演じなかったと言う。
周りの芸人にドタバタをさせ、最後に彼の一言で、劇中の最大の笑いを取り、緞帳を下ろしていたと言う。
「エノケン」とはお互い認めたライバルで、不仲だったそうだが、後年「新馬鹿時代」(余談だが、この「新馬鹿時代」の映画のオープンセットは優秀だったので、後に黒澤明の「酔いどれ天使」でこのオープンセットがそのまま使われている)と言う映画で共演している。
戦後は、映画やラジオが主な活躍舞台となっていたが、徐々に人気にも陰りが見え、晩年は糖尿病になってしまう。
昭和36年逝去、57歳。

「ロッパ」を紹介すると上記のようになる。
「ロッパ」の活躍した時代、またその後の時代、喜劇界は群雄割拠だった。
様々な才能を持った喜劇人が、自分の名をあげようと、必死だったのだ。
よって「ロッパ」の芸も戦後飽きられ、その名は急速に忘れられてしまった。
一説には彼が「わがままな暴君」であったから、そのためとも言われている。
彼が残した芸で、今でも残っているものがある。
それは「ものまね」である。
「ロッパ」はものまねが上手く、それを自ら「声帯模写」と言う造語を作り、世間に流行らせた。
芸人「桜井長一郎(故人)」はこの「声帯模写」を自分の芸とし、人気を博した。、
最近聞かなくなったが「声帯模写」とは「ロッパ」が作り、完成させた芸なのだ。
彼はまた歌が上手かった。
やはり才能のある芸人は、一味も二味も違う。
下に「ロッパ」の歌唱のリンクを貼った。
その流麗な歌声を、ご堪能いただきたい。

東京オリムピック 古川ロッパ

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